祖父がなくなってからもう数十年が過ぎたという。
今まで一度も触れたことがない遺品は埃を被り、どこかに消えてしまった。私がこうして祖父の墓を訪ねて田舎までやってきたのは気まぐれ以外の何者でもなかった。
あたり一面に青々とした雑草の類が茂り、照りつける太陽の熱に萎れだらしない姿をさらしている。気味の悪いほどに青い、田舎の空。どこからか小さく水の音がする。風が生暖かくも清潔な山の香りを運び、私の鼻腔を軽くくすぐる。
祖父の墓はそれといわれなければ判別しづらいほどに粗末なものだ。大きな石が二つ組み合わされ、何とか人の墓であるという体裁を保とうとしている。
始めてみた祖父の墓としてはこれ異常なくみすぼらしい。私はカバンからペットボトルを取り出し、中に入っている水で墓石を洗おうと、勢いよくミネラルウォーターをかけた。
ごぽり
一瞬体が固まる。
気味の悪い音を立てて、墓石の頂上から垂れた水が地面に吸い込まれていく。その音はどうとらえようとも土が水分を取り込むそれではなく、何か密閉された空間が無理に開けられ、空気と水の入り込む音だった。
恐る恐る手を伸ばして、墓石の根元を触ってみる。深く地面に刺さっていなければならないはずのその石は、何故かあっさりと後ろ向きに倒れた。
私は一瞬墓石が倒れて顕わになった所から死体でも起き上がってくるのではないかと夢想し、頭を振ってそれを打ち払った。
膝を折って屈み、穴の中を見る。
そこにあったのは、古ぼけたパッケージの、インスタントラーメンだった。
2006年の時点で既に中東のテログループと同等程度のタカ派的、武力好戦的な体制を内包しつつも表面上正当性ありし武力行使を繰り返す米国主会は、07年に入り中東のテロ支援指定国家を中心とした計五カ国への段階的指導、主権の一部貸与要求、資源使用方に対しての査察等の異常極まりない政策を打ち出し、その実行にわずか数ヶ月で入ることになる。当時国連常任理事国として重要なポストを占めていた米国は、国際的な政策における非協調性、攻撃性において国連内外から独走を危険視する声の出ている、所謂、立ち位置の怪しい国家へと化していた。イラク紛争時からその動きに異を唱えていたイギリスを始めとしてEU諸国、アジア発展途上諸国、中東、また経済発展において敵対していた中国等は米国に対して国連を通して反対していくと共に、国連の危険国家に対しての抑止力の疑問性を提示していた。国際的な緊張は既に前世紀から続いており、米国主導の戦後復興から半ば属国的な部分を所持していた日本は米国主導の国際活動路線を2000年以降も提示しており、それ故に国際的な非難も浴びていくことになる。
加速度的に進行していた国際情勢の不安定さは、2008年初頭に決定的な崩壊を迎えてしまう。
08年に入り高まっていた中東での国際的緊張は、イラク・イラン・カンボジアとそこに連なる中東連合が「対米異議的行為審議会」、巷間に言う『米審』の設立をもって一気に弾ける。
当該組織の樹立に対して米国主会は全会一致で同組織の強行的な解体を宣言。もともと不利な立場に立っていた上に米国の横暴に歯止めを利かせようと設立した機関をその横暴によって突き崩されそうになった中東連合はこれに徹底的に結束を固めることになる。
二月に入り米国が小規模武力行使に及ぶまで一月もかからなかった。
当初中東の対米的国家と対テロから対中東武力勢力に鞍替えした米国との戦闘に過ぎなかった小規模中東戦争は、しかし国家間の協力体制を巡ってその範囲を広げていく。
当時従米国的態度の強かった日本は、中国主導の国際連合から批判を受けており、その立ち居地は平和国家のそれから少しそれたものに変貌してきていた。同08年初夏に米国から再三要望のあった集団的自衛権を与党のみの強行採決によって認めると、中国、南北朝鮮は合同で日本に撤回と一部主権の凍結を要求。これを拒否した日本に、八月、中国の非公式タカ派半日勢力からの弾道ミサイルが接近、三発を撃墜、二発が愛知県知多半島部に着弾するという自体が降りかかる。日本政府は事態の中国からの説明、犯人グループへの国家的関与の有無の解説、犯行者全員の引渡しを要求するものの、中国サイドはこれを却下。犯行自体に国家の関与は無く、またその攻撃自体にも情勢的に見て妥当とも言える心情が鑑みられ、犯行グループへの情状的な処置を行うと一方的に発表。日中間の緊張は最高潮に高まっていった。
これにより、米日連合対中東・中東擁護国家・半日国家という図式での非核小期間大戦が始まることとなるのである。
開戦後約三年間、2011年まで続いた大戦で何が決したかといえば、つまるところ国家間のパワーバランスが過去の二度の世界大戦時からは大きく変化しているという、それだけだった。
中東紛争には参加しない姿勢をとった日本だが、対戦が半年を越えると日米安保、地位協定、集団的自衛権の有効行使を理由に米国への武力物資的支援を開始する。
これに対し中国・朝鮮の対日連合は知多半島への進軍を決定。防衛網など皆無に近かった半島一帯はわずか一月ばかりで占領下に置かれることになる。
日本は戦後初めての本国地上戦に、自衛隊、米軍兵士混成部隊で挑むことを決定する。この戦闘には多数の民間人が巻き込まれ、その人々の一部はわけの分からない国際情勢の中自主志願の短期訓練準自衛官として行動する。
二年後には愛知県内という限定地域において民間を巻き込んだ総力戦の様相が呈され、それに対し野党や諸外国は非人道性を訴えるも、すでに歯止めの効く状態は通り過ぎており、戦火はじわじわと拡大していった。
そんな中で日本政府は反対の声を抑えつつも急進的にタカ派の道を進み続け、半島奪還戦・根室攻防・南方列島強襲反撃戦において勝利を収めることになる。
終戦はあっけなく、またこれ以上無く益の無い形で訪れた。
結局世界的にタカ派をリードしていた米国は主会の分裂で二国に分割され、日本は米の傘から抜け出すかわりに非核戦での戦力を大きく示し、一国家として更なる繁栄を目指すことになった。一時減少した国土も奪還戦の成功によって回復し、また中東国家は復興の見込みの立たない壊滅状況に追い込まれ、その資源を狙っていた米国も北方の地下資源へとその視点を移すことになる。
消耗と米国の威力減少を以って2011年終戦。損害が少なく、特需に沸いた日本を含むアジア各国は大いに繁栄し、現在に至る。
戦後復興期において日本は既に米国支援に回る必要もなく、また国内エネルギーの枯渇や難民問題、中露の連携への懸念など、様々な内患を抱え、特に食料品に関するところの問題は、これは切迫しているといって過言ではなかった。
もともと食料自給率というものが破滅的に低迷している日本にとって此度の戦争行為は一時的な勝利と利権をもたらすも、中東諸国、中国、ロシア、EU諸国から敵対的感情を向けられることによる国外資源の断絶という厄介な病巣を生み出すことになった。
悲惨ともいえる将来への展望を何とか開けたものへと変えるため、政府は戦前には散々冷遇し、侮蔑すら向けてきたインスタント・レトルト合成食品、とくに中でもバリエーション豊富であり、代理的な食料資源によって再現可能なインスタントラーメンに目を向けた。身綺麗な、清潔な国家という題目に真っ向から反発するジャンクフードとしてのインスタント麺には与野党から嵐のごとく反対意見が飛び出し、数度の乱闘騒ぎを現出させることになる。そんな中政府は日清・明星を国定保護企業として資金援助に乗り出し、日本はわずか二年でインスタント大国へと成長する。戦後中国から毟り取ったいわゆる所与の権利、つまりは莫大な賠償金にてインスタント麺技術は飛躍的に進化し、世界的インスタンレストランなど、外食産業としても大いなる成功を収めることとなる。
そうした中で中国・ロシアを中心とした半日国家群の中に、奇妙な連中が現れる。
『貴腐食旅団』
そう名乗る一段は合成保存料、合成着色料、添加物、あらゆる非自然的食品への反対と、これを推進するものへの断罪を掲げ、活動を開始する。
「インスタント麺は人類のサイボーグ化の一歩である」として数カ国に跨って団員を確保し、ついには中国政府公認の組織となったこの旅団は世界中に点在するインスタント食品販売店、及び飲食店をあらゆる合法的な方法で、あるいは非合法的な方法で廃業に追い込み、店主を吊し上げ同胞の監視の元陰惨な手段を用いてなぶり殺しにした。
既にこの頃には誰もが理解していた。日本は、何か決定的な敗戦を期してしまったのではないか、取り返しのつかない閉塞的な状況にあるのではないか、と。
*
『伊崎麺店』
そう書かれた看板の元に、数名の男たちが息を潜めて集っていた。全員が黒い服に身を包み、肩からは厚手の防弾防刃ベストを着込んでいる。扉の横に身を屈めた男が他の男たちに手で合図をすると、男の一人がうなずき、立ち上がる。
全員がその男に目を合わせてうなずくと、男は思い切りドアを蹴破った。
「ぐえ」
瞬間、潰されかけの鳥のような声を上げて男が倒れ伏す。駆け寄ろうとした仲間が、建物の中から飛び出してきた割り箸に貫かれ、それと同時に他の男が一斉に懐から拳銃を取り出した。古風なモーゼル銃を構えて男の一人が建物内へと大声を上げる。
「伊崎一葉!国意である!抵抗は許されない!」
言うと同時に数人が店内へと駆け込む。店の裏手からはガラスが割れる音が響き、男は仲間が裏手から突入したことを知った。
古臭い木製のテーブルや椅子、その上に置かれた調味料などを蹴倒して突入を敢行する。
「どこだ……?」
店内に人気はない。カウンターにはただ寂しく煮えたぎる鍋が並ぶばかりだ。
と、凄まじい爆音とともに厨房付近が弾け跳び、仲間が数人その場に倒れ付す。
「待ち伏せだと…?気でも狂ったか一葉!」
怒声を上げると、カウンターの向こうで何者かがゆっくりと身を起こした。
近くにいた仲間が発砲しようと構える前に、くぐもった悲鳴をあげて崩れ落ちる。
「撃て!」
誰かが叫び、室内に発砲音が連続的に響いた。カウンターの向こうの影が何度か大きく揺れ、しかし倒れはせずに仲間へと肉迫する。
内心で恐怖しつつ自分も拳銃を構え、狙いを定める。立て続けに発砲する。
「っ!」
着弾の寸前、影が素早く動き、仲間の屍を掴んでそれに包まるようにして盾とする。
「一葉ォォォォォォオオ!」
ニヤリと。何故か影が笑ったように思えて、部隊長である男は叫びながら銃を捨て、腰から軍刀を抜いた。
その頃には店の周囲を、都市警察と陸軍部隊が幾重にも取り囲んでいた。市街戦の様相を呈する飲食店の中心で、その主である人影は、ますます笑みを濃くし、ついには哄笑を上げた。
それより約半月前――
*
「味噌。三人前、スープ増しで御願いできるかい?」
カウンターに座るなりそう注文した異貌の客に、店内にいた大勢の客(たいていは土建業や的屋などと言った胡散臭いか若しくは汗臭い類の男たちである。)が一斉に注目する。埃臭く、どこが湿気の多い店内はお世辞にも洒落ているとはいえない。しかしそこに集まる客はいずれも明るく陽気なものばかりであり、店の印象を開けたものにしていた。
だが、それを鑑みるにしても、その客は辺りから大きく浮いた、奇異なものであった。
「………お嬢ちゃん、ここは違法店舗なんだが」
腰まで黒髪を伸ばした、まだ成人していないであろう幼さを残した少女にカウンターの向こうで麺の湯きりに神経を尖らせていた主人が優しく警告する。
この店、『伊崎麺店』の店主である伊崎一葉は戦時に中国へと渡り諜報活動に従事した元軍人であり、戦後反対派の多い中ここ上海に隠れるようにして入り込み、政府機関や旅団に見つからぬよう細々とインスタント麺を振舞うことを生業としてきた男である。中国内に少数ではあるが存在しているインスタントファンの為に、そして何よりその味を極めるためにこのような非合法的な店で麺を湯がいているのだが、そんな店にこぎれいな少女が来店したのは始めてのことだった。また一葉は法の下で安全に、健全に生きる少女を自分の店、埃臭く違法な店舗に入れて平気な顔を出来ない、心優しき男でもあった。
「構わんさ。私もふらりふらりと流れ歩く口の人間だ。いずれ真っ当に生きてる者じゃない。気にしなさんな」
そういうと少女は割り箸を取ってもう一度、
「味噌、三人前」
と、これまた外見に似合わず豪胆に言ってのけた。
ややいぶかしげに思いつつも一葉は慣れた手つきで数種類の味噌味インスタント麺の袋を開け、粉スープを調合しその間に麺をゆでていく。器に程よく湯きりした麺を入れ、スープを注いでねぎを添える。
「はいよ。三人前」
目の前に出されたどんぶりに少女は一瞬懐かしむような表情を浮かべ、それから箸をつけた。
華麗に、しかし素早く、力強く麺を手繰り、勢いよく啜る。
物の十数分で食べ終えて、少女はにやりと笑って一言、
「美味い」
そう言って箸を折った。
店内のいたるところから拍手が巻き起こり、少女はそれに笑顔で答える。
「失礼なことを言って悪かった、許してくれ」
そう言ってカウンターから店主が声を掛けると、少女はそれにも快活な笑顔で返し、口を開いた。
「裏物として地下で密輸密造される低質なインスタント麺でよくこれだけの味が出せる。いずれ名の通った店で修行でもしていたのかとおもってしまうほどだ」
一葉はその言葉に破顔すると、少女に手を差し出した。
「今日の御代は結構だ。俺は一葉。日本人だ」
握手に応じ、大き目の一葉の手のひらを握り返して少女も答える。
「私も日本人だ。桐花葉子。宜しく」
そうして二人は、出会った。
上海下町、その一角に存在する既に廃棄されたバス停の前に聳える廃ビル。戦後長い年月が経っても再開発の波が届かない、古ぼけたそのビルの一階に、伊崎一葉の店はひっそりと開かれている。時折海風が辺りに流れ込み、甲高い音を立てて抜けていく。
葉子が上を向くと、雲と西日によって黄昏色を強く出す空に、鳥の群れが見えた。鴉、鳶、そして気高き猛禽たち。見捨てられた都市の残骸、高層ビルの周りを旋回し、時折脳髄に響く声で鳴く。
視線を下げた。葉子は鳥が怖かった。都市と空の間隙に潜み、誇り高く飛翔する鳥たちが心のそこから恐ろしかった。
コートを強く握り締め、扉を開けて店に入る。夕餉時前の店内には多くの客がひしめいており、雑多で明るい空気を演出している。
しかし、鳥への恐怖が消えるわけではない。
そういった心のうちを振り払うべく、葉子はカウンター席について注文を述べた。
「味噌」
にやりと笑った一葉が黙って三人前を作り始める。
言いようのない安心感を得て、葉子はふと辺りを見回した。
もしかしたら、他の客たちも鳥が怖いのかもしれない。若しくは空が。あるいは両方か。
麺を啜り、葉子は家路に着いた。
都市というものが人類にとって現出するべきであった記憶の外部装置であるのならば、戦後の復興ままならぬ町というのは一体何の機能を持つものか。
そこには宿るべき意識も霊魂もない。虫と鼠が潜み、空は鳥が占有する。情報は絶えず消え、新たに生成され、そしてまた消える。
生物も都市もある一定の期間をおいて、死する。生存し続けることによって起こる決定的な破滅を回避するために、莫大な経験と記憶を霧散させつつも僅かばかりの遺伝子と模倣子を残して消えていく。
一度死んだ故に未だ死ねないこの町は何か。
そんなことを考えながら、葉子は眠りに落ちた。
*
何度か店に通ううちに、鳥への恐怖は増し、店主一葉との友情は増大した。最近ではよく厨房に入れてもらい、閉店後など新たなメニュー作りを手伝い、試食などもしていた。
一葉は葉子の舌の絶対的なセンスを深く信じておりその批評には真摯に耳を傾けた。
葉子は一葉の調理への姿勢と覚悟に輝かしいものを感じ取り、その傍らにいることを喜びとした。
客たちはこの珍妙ながらも良い出来のコンビを笑顔で見守り、店の活気は僅かではあるが葉子が来る以前よりも増した。
時に葉子は夕食時などテーブルの上で客たちに透き通った歌声を披露し、人気を集めた。
またいつかどこかで
別の顔に別の微笑を浮かべて
僕は君のもとへと近づいていく
そしたら君は気付くだろう
俺の全ての愛は君のうちに注がれていることに
その日の店内はいつもどおりに活気溢れるものだったが、しかしいつもとはその色を異にしていた。
葉子は来店してすぐにそのことに気付き、親しい客に声をかけた。
「何かあったの?」
声をかけられた男は、しばし逡巡してから、ひどく困惑した声音で答えた。
「議会がこの町の取り壊しを決定した……近々調査隊が入るって話だ……」
「じゃぁ、」
「ああ。この店もいずれ、市警か何かに見つかっちまう」
辺りを注意深く見回すと、いつもは赤ら顔の大男たちも、白い顔をして溜息混じりに麺を啜っていた。
葉子はいつものカウンター席に着くと、無言で一葉を見た。
一葉は静かに、家族の最期を看取るかのような顔つきで、いつものように店を茹で上げていた。
葉子の視線に気が付くと、一瞬だけわがままな娘に困ったような顔をして、それからすぐに力の抜けた笑みを浮かべ、声をかけてきた。
「味噌でいいかい?」
葉子はゆっくり首を横に振ると、しばし言葉を選んでから問いかけた。
「どうするつもり?」
鍋に視線を落とし、一葉はしばらく押し黙った。
「……………いずれ、都市は解体されるもんだ。この店も同様に」
手つきだけはいつもと変わらず、葉子の前に三人前の丼を差し出す。その器にはいつもはつけられていない、高級なチャーシューが乗せられていた。
「どこか新しい土地へ走ればいい」
もう一度、一葉は困った顔をした。どこか人懐っこい、歳を感じさせない笑みでもあった。
「俺も、年老いたわけじゃないが若輩ってわけでもない。今ここから逃げ出して、新しい店を構えるのはいろんなところで無理があるのさ。それに」
押し黙って、やや俯きつつ葉子は箸を割り、肉に口をつけた。濃厚なスープに良く合う、とろみの強い豚肉。
「それに、もう今の段階でこの廃墟の街は警官や機動隊に囲まれてる。客は逃がしてくれても俺はそうは行かないだろうさ」
軟弱なことを、と葉子は言わなかった。一葉の目には憂いも悲しみも見られなかったが、そこに覚悟なりし物の煌きが見えた気がしたからだ。
そも店主にして国家反逆的な一葉が逃げようとすれば起動警官隊と旅団が放ってはおかないだろう。混乱した状況の中大捕り物となれば、一葉を逃がそうとしたりその近くにいる客までも悲惨な目に合うことになる。
葉子は思い出していた。この男はそういったことが出来ぬ、古臭い優しさの男であると。
食べ終わり丼を置くと、いつの間にか周囲のテーブルなどからはすすり泣きのようなものも聞こえてきていた。
何度か客が一葉に話しかけ、ともに逃亡しようと持ちかけていた。
それを聞いて一葉は軽く首を振り、感謝の言葉を述べるのみだった。
窓の外を見る。
葉子は自らの心中が意外なほどに静かなものであることに軽く驚いた。決して親交の浅いわけではない、むしろ何より大切なものの一つと化したこの店と、店主の危機。
それでも何かざわついた気配は沸いてこなかった。
何故だ?
自身に問いかけ、窓の外、濁った空を見上げる。
鳥の大群が、まるで何かの災厄から一斉に逃げ出すかの如く同じ方向に、大量に飛び立っていた。
しばらくその光景を見つめ続け、やがて雨が降り始めた頃に、葉子はその鳥たちが向かう方向に気が付いた。
「海だ……」
原始的な情報の集積は、事象若しくは生命の集まりに宿る。波のようにうねり、変化を続け、収縮と拡散を続けるこの世の情報たるものは、きわめてマクロな範囲と、きわめてミクロな範囲、その両方で起こり得る。
更に言えば、その中間たる地点、きわめて人間的な営みの中でもそれは見られる。社会性はその温床であり、集めては広げ、積み上げては崩す、子供の積み木遊びのようなことを、ひどく長い間繰り返してきた。
それが何のためであったのか。人間たちは忘れてしまったかもしれない。天高く舞う鳥を恐れ始めた日から、人は一回一回の再生と破滅に過度にその感情を動かしてきた。
きわめて人間的な、きわめて人間的な。
かつてこの上海において慕われ、崇められていた名市長の銅像が、今では廃墟となった中央広場で雨にぬれていた。長い年月をかけて進んだ腐食によって、既にその足元には鉄筋まで見え隠れしていた。
誰もいないその広場で像はゆっくりと傾いでいった。重苦しい音を立てて地面を揺らし、腕を伸ばした誇らしげな顔の市長が雨水につかる。
その頭に一羽の鴉が止まり、甲高い声を辺りに響かせた。
*
店は既に暗闇に包まれていた。店内の明かりも落とされ、いまでは厨房の裸電球が一つ、力なく光り続けるのみとなっていた。
その後ろでいくつかの鍋が火を落とされること無く煮立っている。
カウンターの向こう、いつも一葉が立っているその床に、二人の影はあった。
背中合わせに、一葉は方膝を立ててもう一方の足を伸ばして、葉子は両膝を抱えた姿勢で、互いの背の体温を感じながら座っていた。
とっくに営業時間は終わっており、他の客は泣く泣く別れを告げて店を出た。今頃は無事家に辿り着いている頃だろう。もうこの店に魔手が届くのにはそう時間が残されていないことを誰もが悟っていた。客のうちの何人かは町の周りに待機する部隊を目撃していた。自動小銃やモーゼル銃、思い思いの武装をするそれは、貴腐食旅団であるに違いなかった。
ぼんやりと、葉子は思った。どこか遠くへ…
それを飲み込み、口を開く。
「どうあっても、ここに残るの?」
背後でうなずく気配を感じる。
「ああ。俺はまだ味を極めちゃいないが、仕方ないさ」
沈黙が訪れる。不必要なほどに大きく、鍋の煮える音が聞こえてくる。
葉子は振り向いて、一葉の肩から手を回してその背にもたれかかった。一瞬だけ一葉が驚くと、それに葉子が気付き小さく笑った。
「あんたが極めようとした味っていうのは、一体なんだったの?」
そう問いかけると、一葉は存外嬉しそうに、どこか愛おしさを感じさせる声音で答えた。
「昔の味だ」
「昔の?」
「まだ三次大戦も無い頃…………日本が他国の戦争から極限的な逃避で賑わっていた頃の味だ」
そういうと一葉は懐から小さな写真を取り出して葉子に見せた。
そこには葉子も知る、古いインスタント麺のパッケージが写っていた。
「今ではもう潰れちまった、食品会社の輝かなりし頃に人気だったインスタント麺だ」
そこで一つ、溜息。
「野菜なんか入れて食うと信じられないほど美味くてな、よく小さい頃に作ったもんだよ」
『札幌一番みそラーメン』と、写真の中のパッケージにはあった。
葉子はあることに気が付いて、それを口にしてみた。
「だから………だから、ここの味噌味は」
「出来損ないさ。かき集めた非合法な、質の悪いインスタント麺のスープを試行錯誤しながら混ぜ合わせてるだけの、紛いもんだよ。あの味には、上手く近づくことが出来ない」
言葉をさえぎって言う一葉の声には、疲れのようなものが見て取れた。
「戦時に特務で大陸に渡ってきて、色んな任に就いた。そんな中で友人を忘れ、親の顔もおぼろげになって、それでも何故か頭に染み付いてたのがそれだったんだ。今ではもう手に入らない、遠い味―」
「それを、再現したかった――」
そう洋子が言うと、一葉は満足したように息を吐いた。
「さ、もう遅い。この店ももうすぐ無くなる。荒事に巻き込まれないうちに帰りな。最初から不安定な店だ。すぐに記憶から霞んで、消えていく筈だ。俺が再現したかった、その味とは違ってな…」
それに答える代わりに、葉子は小さく、か細い声ですべるように口ずさんだ。
俺を連れて行っておくれ
遥か彼方へ
連れて行っておくれ
パーガトリーという、古い歌の一節。
その響きが消えると同時に、葉子は自分のカバンを手に掴み、その中から小さな袋を取り出した。
「こんなところで止めてはいけない」
そう言って、一葉にそれを渡す。それを見て一葉の顔が驚愕に引きつる。
「これは……!」
その瞬間葉子は一葉の首筋に同じくカバンから取り出したスタンガンをあてがい、スイッチを入れた。
力を失った、しかしまだ意識は宿ったままの一葉の体をゆっくりその場に寝かせ、葉子は先ほどの歌とは打って変わって大声を張り上げた。
「いいわ。入って」
そう言うと、店の裏口が開かれ、数人の男が入ってくる。一葉が見ると、それらは良く知る客たちの一部だった。
「お前ら…!?」
「連れて行って。上海を抜けて、なんとしても日本にこの人を辿り着かせて」
悲壮とも取れる覚悟の表情で、男たちが肯く。
驚き続けている一葉の顔を覗き込むと、葉子は優しく語りかけた。
「ごめんなさい。そしてさようなら。貴方がそれの味を再現できることを願っているわ」
そう言って、一葉に渡した袋、札幌一番味噌と書かれた古いインスタント麺をその手に強く握らせる。一食分だけ長い間持っていた、葉子の秘蔵のインスタント麺。奇妙な宿縁か、それは一葉の追い求めるものだった。
「葉子さん、貴女も…」
言いかけた男たちを制して、葉子はその身を翻し、背を向けた。
「私がここで陽動しなければ、どっちみちあなた達は逃げ切れないわ。その人を無理にでもここから逃げさせるには、これが最善」
しばし間を置いてから、男たちが肯き、一葉を背負って裏口へと向かう。
「待て!葉子、お前、俺は、そんなことを…!」
叫びを上げ、抵抗する一葉を男たちが押さえつけ、店を出て遠ざかっていく。
誰もいなくなった店内で、カウンターに行儀悪く腰掛けて、葉子は凄絶な笑みを浮かべた。
*
そして現在。
盾にした死体をずるりと払いのけ、葉子は小柄な体躯を敵の眼前に晒した。口元にはかすかに血液と、勝ち誇ったような笑みが張り付いていた。
軍刀を抜き放った男が飛び掛ると、その刃は何か硬質なものに捕らえられて防がれる。男が驚いて刃を見ると、ゆでる前の、インスタント麺に刃が刺さり、動きを止めていた。
葉子が気合とともにその麺を捻ると、容易く刃が折れ飛び、近くにいた別の男に突き刺さった。
叫びながら倒れる男に目もくれず、目の前の男に拳を叩き込み沈黙させてから、葉子は店を飛び出して空を見上げた。
黒い大きなシルエットがいくつか見えた。戦略ヘリだろう。
葉子は声を上げて笑った。なんて可笑しいのだろう。ヘリが持つミサイルや機銃は、あの恐ろしい鳥たちに比べてなんと陳腐なことか!
手に持っていた麺を思い切り空へと投擲する。芸銃的なカーブを描いてヘリに直撃し、燃料を撒き散らしながら墜落する巨体を見て、更に葉子は笑った。
背後に足音と怒声を聞き取り振り向くと、武装した男たちが大量に集まってきていた。
望むところだ―
走り出す。これまでの人生では味わったことの無い疾走感が体を駆け抜ける。
裂帛の気合と共に懐から新たな麺を取り出し、敵の一人を殴る。首を捻じ曲げて倒れ伏す男に一言罵声を浴びせてから他の敵に向き直る。銃弾が肩を掠め、軍刀が脇を通り抜ける。
リズムに乗るように軽快に敵をなぎ倒し、その度に葉子の体に幾つかの傷がつく。
いつの間にか、葉子は小さく歌い出していた。
隣にいたヘリが落とされ、パイロットである旅団員は半狂乱になりながらも、大勢の男を薙ぎ倒す鬼神のようなその女をロックしていた。機銃が狙いをつけるが、周りに仲間が多すぎて撃つに撃てない。
「おい、離れろ、もう地上では無理だ、今すぐはなれてヘリと軽戦車に任せろ!いいからさっさと退けってんだ馬鹿野郎!」
通信用のマイクに向かって大声で叫ぶが、一向に地上の仲間は女の周囲を離れない。
ひどく焦りつつ男は自分が率先してヘリに乗ったことを後悔していた。
息が苦しい。上空から見る女はひどく小さいが、それに反して感じる恐怖はどんどん大きくなっていく。
突如響いた爆音に驚いて回りを確認すると、後ろにつけていたはずの燃料補給用ヘリが黒煙とともに川に落ちていく。
クソッタレが!どうなってんだ!
心の中で毒づき、機銃のスイッチに指をかける。
もう構うものか。このままじゃ俺が死んじまう!
スイッチを強く押し込もうとした瞬間、ロックしている少女の口元が微かに動いているのが見えた。
「なんだ?……歌…?」
その動きは、確かに歌っているように見えた。目を凝らし、その唇の動きを読み取る。
I have found you
And now there is no place to run
Excitement shakes me!
恐怖に駆られ、機銃を発射しようとしたとき、男はパイロットシートに向かって四角いインスタントの麺のようなものが飛んでくるのを見た。
また一機、ヘリが落ちて爆発する。
地獄絵図のような町の中で、少女は縦横無尽に駆け、その圧倒的な暴力を振るう。IRON MAIDENを口ずさみつつ破壊を撒き散らす。
大量の男がその姿を捉え包囲すると、少女はカバンからカップ麺を取り出し、その底から出ている紐のようなものを思い切り引き抜くと、男たちに向かって投げた。
次瞬、轟音とともに爆発する。
吹き飛ぶ男たちを避けて路地に逃げると、そこにも旅団の人間がひしめいていた。
素早く一人を殴り倒すと、その腰から拳銃を奪って速射する。混乱する男たちを一人ずつ蹴り砕き、更に走る。夜の街に、少女が一人、大量の敵を屠りつつ。
冗談のような話だ、そう思いつつ、葉子は走った。
*
結果から言うと、その陽動作戦は功を奏し、一葉と仲間は無事日本へと飛んだ。
夜の廃墟・上海で起こった市街戦は当初は殲滅戦とされていたはずだったが、作戦が進むに連れてそれは過ちであることに気が付くものが出てきた。
ただ一人の少女によって引き起こされた戦闘、そこにおいて出た被害は語五百名近い死傷者、ヘリ八機、装甲車十台に軽戦車三機、緊急出動した亜音速戦闘爆撃機一機という、まるで小国との戦争のようなものになった。
現場からは大量の割り箸、インスタント麺、お玉、鍋などが発見され、その全てが伊崎麺店の所有していた調理器具その他であったことが判明している。
戦闘行為は開始後約十五時間にも及び、付近の町には避難命令が発令され、外務次官たちは他国勢力の介在を疑いその調査に翻弄させられた。
日本には当然疑いの目が向けられるも、まったく推測の域を出ない疑いであり、これによって何らかの責任追及を行うことは不可能であった。
旅団はこの事件を期に更なる組織力の増大と物量を極め、日本を始めとしたインスタント国家からはこれに不安の声が上がることになった。
また戦闘行為の中心的人物であった少女は行方不明であり、一説には戦闘中突如として姿を消したのだという。旅団はこの少女を最重要危険因子として国際的に手配するも未だその姿を一度も捕まえてはいない。
反旅団的な人々はこの少女を英雄として崇め、旅団と日本の間の溝は修復不可能なまでに深まっていく。
日本に帰国した一葉はその後数年で死去し、その家族によって簡単な葬儀が秘密裏に行われた後、とある田舎の山奥にひっそりと粗末な墓が立てられた。
遺品の多くは売り払われたが、その中で唯一つ、一葉本人が墓に埋めろと命じたインスタント麺だけはその希望通りに墓石の下に埋められることとなった。
そのパッケージには、札幌一番味噌と、古臭いレイアウトで書かれていたという。
彼が日本でその味を再現し、ついに復活させたものがそれだったのか、それとも後悔と懺悔の念のうちに抱え込んでいた葉子からの最後の贈り物がそれであったのかは、誰もが知らぬところである。
*
「何だろう、コレ」
私はそのインスタントラーメンを持ち上げ、それがひどく古ぼけたものであることを確かめると、そう疑問を口にした。
祖父たっての願いで墓に入れた品というのを聞いたことがあるが、これがそれなのだろうか。
風が吹く。雨のにおいを感じ取り、手に持ったそのインスタント麺を元の場所に戻して土をかけ、墓石を元に戻す。早く帰らないと、山中で雨に降られることになりかねない。
空を見上げると、鳥が一羽だけ飛んでいた。鋭いくちばしと眼光を持つ、どこか恐ろしい鳥だった。
私は急いで荷物を持ち上げると、その場を後にした。
小走りにそこを離れる私の耳に、聞いたことの無い、しかしどこか懐かしい歌のようなものが聞こえてきた気がした。
またいつかどこかで
別の顔に別の微笑を浮かべて
俺は君のもとへ近づいていく
そしたら君は気づくだろう
俺のすべての愛は君のうちに注がれていることに
俺を連れていっておくれ
はるか彼方へ
連れていっておくれ
私が思わず振り向くと、そこにはただ墓石があり、その上に先ほどの鳥がとまっているだけだった。
その鳥が、一声、甲高く、鳴いた。
誇り高き猛禽の声で。
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