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心の空

作者:そらほうき
東京の空は暗い。よく晴れている日でさえも、暗いと感じる時があった。その時は毎日の生活に追われていたので、大して理由も考えなかったが、時間のある今だとよく分かる。ドイツ人のお嬢さんの妻を少しでも楽にしてあげたい一心で、夜が明け切らない内から家を出て、終電間近の電車に駆け込んだあの時。部長から期待され、そのことに少しでも答えたいと思ったあの時。そして何よりも、父との不和に苦しんだあの時。空が暗い。春でも夏でも秋でも冬でも空が暗い。日がカンカンに照りアスファルトからユラユラと靄が立ち上がっている通路の中で立ち止まり、文字通り雲一つない青空を仰いでも、空が暗い。それは私の心の悲鳴だった。危険を知らせるシグナルだった。心がうまく動作しないことを告げる赤信号だった。何かがおかしいとしか感じなかったが、心のサイレンはずっと鳴り響いていたのだ。今住んでいるドイツのキードリヒの空は時折雲で一面覆われることがあるが、それでも私は綺麗に晴れていると思う。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

成田空港に降り立ったのは、梅雨の入り初めの頃だった。梅雨と言っても雨は降っておらず、空は青に所々白い斑点が混じっていた。梅雨のことを知ったのは叔母からの電話だ。当たり前のことだが、ドイツに妻と二人暮らしなので、日本のことは自然と疎くなる。ドイツのテレビはドイツ、ヨーロッパのこと中心にしか放送しない。日本のことを取り上げるとしても、精々『スシ』だの『キョウト』だの、日本文化に関することぐらいだ。日本で今何が起きているかを手に入れるのは、中々難しい。下手をすると日本の首相が誰かを知らないなんてことになりかねない。

アナウンスを始め、周囲から次々と押し寄せて来る沢山の日本語を、掻き分けるようにして空港の大通りを進む。お客様にお知らせします......今やっと空港に着いたから......これから帰るんだけど......またな、向こうでも元気で......お土産、何か希望あります?......私の母国語。ついさっきまで居たドイツでは殆ど使う機会が無い日本語。公共の場に日本語が溢れていることを懐かしく思ったが、同時に少し違和感を覚えた。

正面玄関をくぐり抜けて、表にあるタクシーの停留所に続く列に並んだ。列は長い。停留所であることを示す看板が、男の人、女の人、若者から老人に及ぶ広範な人で構成されている列のはるか先に、ポツンと立っている。

だが、他の人から見れば、私の並んでいる列はたいして長いとは思わないだろう。長いとしても少し長いくらいだ。けれども、私は早く叔父の居る病院に行きたかったものだから、他人からしたら、なんだそれくらい、と思う列を、『はるか先』と思ったのだった。

私に梅雨を告げた叔母の電話は、同時に叔父の入院を告げた。叔母の電話口での口調は、おだやかでのほほんとしていて、一人過ごしている時間が私達周りとは違うのではないかと思える普段の彼女特有のものだったから、叔父が倒れたと彼女が言った時には驚いた。私自身かなり動転していたので詳しい話は聞けなかったが、原因は持病らしい。

私の前に一歩分の間が空いていたので、その間を詰める。タクシーの停留所を示す小さく見える看板の下で、タクシーが忙しなく人を運んでいる割には、列は進まない。停留所を出たタクシーがもう向こうの車道を走っているのに、長い列はノロノロとしか前に進まない。疎ましくなってちょっと顔を上げてみた。

空は青い。梅雨だと私に教えてくれた叔母が嘘をついたのではないかと疑われるぐらい青い。日はカンカンに照っている。所々に浮かぶ雲は、大きな雲の一部が千切れて流れてきたような形をしている。絵画とかでは、青の下地に白い模様があるとどうしてもそちらに目が行きがちになるが、この空に限っては違うと思った。白い模様を塗り潰すかのように青が勇み立っている。白を崖まで追い詰めて、そこから下に落とそうとしている。そこは俺達のものだから早くそこをどけと言う。いたたまれなくなって目を伏せた。

そしてこんな風にいたたまれなくなるのは、ここが日本だからだと思った。正確に言うと、私に父を連想させる日本だからだ。笑って喜んでくれた叔父とは違い、私と妻の結婚に反対し、不和のまま生き別れた父。父の死後、もう少しどうにかなったのではないかと悔やむようになり、そのことが父の生前よりも、父のことを中心として同心円上に展開する私の心の一部を苦悶させた。そして、日本と地理的に離れたドイツにいる間に、私の頭の中で自然に父と日本が結びついて、『日本』と聞くだけでマイナスの印象を心に抱くようになってしまった。

進むとも進まないとも区別のつかない列に並んでからやっとタクシーに乗り込むまで、酷く長い時間待った気がした。少し悪い気持ちになっていたので尚更だ。今まで檻に閉じ込められていたハトが大空へと羽ばたくように、目の前に止まったタクシーのドアへと滑り込んだ。

「お客さん、どこまで?」

後部座席にどっかりと座り込んでいると、運転手が尋ねた。ハッとして運転手に答える。

「国大中央病院までお願いします。」

ドイツ語が出やしないかと内心ヒヤヒヤしていたが、上手いこと日本語が出て来た。

「あの......お客さぁん。電車の方が早くないですか?」

胸をなで下ろして安堵する私とは対象的に、今ひとつ容量を得ない表情を浮かべる運転手の顔がやけに目に付く。

「構いません。」

「そうですか......分かりました。」

ミラー越しに私を見ていた運転手の視線が、フロントガラスの向こう側へと移った。シフトレバーがガチャリと音を立てると、車はゆっくりと動き出した。

しばらくの間はフロントガラスに映る景色を眺めていたが、座っている右側の窓へと視線を移した。何故かと問われると少しばかり困るが、さしずめ気晴らし程度だ。

窓に映る景色が空港から市街地になった。道の両側には高い建造物がそびえ立ち、その下を沢山のニホンジンが練り歩いている。スーツを着た会社員、制服姿の学生、買い物にでも行って来たのだろうか、中高年のおばさんも紛れている。少し先の電気屋の前をゆっくり歩いているお婆さんを、20代ぐらいの大学生が追い越していった。

「お客さん、今日は誰かのお見舞いですか?」

信号が赤になり、シフトレバーをガチャリと動かした運転手が私に話しかけた。

「ええ。」

「そうですか......御家族の方で?」

「はい......叔父の。」

叔父のことを口にするかどうかでちょっと迷ったが、結局話すことにした。

「はぁぁ、叔父さんの。」

運転手は左手の歩行者信号を目の端で捉えながら、随分と間の抜けた声で返事した。信号機の中の歩く人が点滅している。

歩く人が赤い服に着替え終わると、運転手はシフトレバーを切り替える。ガチャリ。車がそろりと動き出した。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

考えてみれば、叔父の入院している病院へと急ぐあまり、お見舞いの品を持って来るのを忘れていた。叔父は豪放で楽天的な人柄だから、私がお見舞いの品の一つや二つ持って来なかったことぐらい、『何だそんなこと、どうでもいいさ、ハハハハハ』と言って済ましてしまうだろうが、叔父にとっての『そんなこと』は、私にとって欠くことの出来ない要素だった。何も親族なんだ、そんな他人行儀な真似しなくてもいいじゃないか、と言われればそれまでだが。

病院の一階にある花屋で店員に見繕ってもらった花束を持って、電話で叔母から聞いた叔父の病室の前に立つ。叔父の名前が書かれているネームプレートを確認して、病室の扉を開けた。

「叔父さん、来ました。」

病室は南向きの部屋で、叔父は左右に二つづつある内の左側の奥のベッドで、布団を体に半分ぐらいかけて本を読みながら横になっていた。本を前にしていた顔が、私の方を向いた。

「おぉぉ、久しぶり。よく来たね、待っていたよ。」

本を脇に置いて体を起こす叔父の姿を見ながら、彼のベッドのそばに近寄る。手に抱えている花束を彼の前に差し出した。

「あの、これ、花束です。お見舞いに。びっくりしました、急に倒れたと聞いて......大丈夫ですか?」

「あぁ、ありがとう。別にどうということはないさ、体はピンピンしてるよ。何か悪いね、気を遣わせちゃって......ハハハ。」

花束を受け取った叔父は、私の方をチラッと見て小さく笑った。叔父の顔色は、普段の彼の顔色と全く変わっていなかった。

「いえ、そんなことありませんよ。」

私も少し笑いながら返した。叔父は彼の腕にある花束を、軽く唸りながらしげしげと眺めている。

「綺麗だなァ......」

「えぇ、本当に......」

叔父は嘆息を漏らした。そして、顔の向きをちょっと左の方へと傾けて、右手で指差して言った。

「花瓶があいにく一杯でね......今すぐにでも生けたいんだが......」

叔父の指差す先には、私の腰ぐらいの小箪笥が枕元に置いてあり、その上には花瓶一杯に花達が生けられていた。白い花が多いが、中には黄色や赤、青の花もある

「綺麗ですね。誰からの物ですか?」

「なぁに、大したことはない、会社からのだよ。他の部長とかからさ。」

叔父の口調は、本当に大したことはないんだよ、というような様子だった。

「はぁ......なるほど。」

「あぁ、すまんすまん。窓側に丸イスがあるから座ってくれ。」

叔父に言われた通り窓側にある丸イスに腰を下ろした。座ると丁度叔父と同じぐらいかそれより少し低いぐらいの視線になり、この高さだと、さっき私が入って来たこの病室の入り口が視界の真ん中だということに気づいた。背中の窓からは太陽の光が差し込み、床には色の薄い不恰好な窓枠の影を作っている。

「君の所の部長がね、」

叔父の声を聞き彼の顔を見た時には、既に叔父は私に視線を投げていた。

「よく文句を言いにくるよ。なんであんな優秀な人材を海外に放出したのか、ってな。彼の意思ですと答えるのだがな、なかなかまいってね。」

「そうですか......すいません、迷惑かけて......」

私は首をすぼめた。

「ハハハ、いいんだよ、迷惑なんかじゃないさ。」

「他に部長は......」

「特に無いかな......まぁ、君に死なれでもしたら、僕個人としても、会社としても、困るからな。もしそうなってみなよ、マスコミが新聞やテレビで大騒ぎだ! すっぱ抜かれるぞ、ハハハハハ!」

「ハハハ。」

叔父の言った『もし』を想像して、私も彼と同じように笑った。自分のことなのに笑っていられるのは、内容が過去のものだからか、それとも、心のどこかで自分を嘲笑する一種の自虐心があるからだろうか。

「それにしても、君の所の上司はしつこい奴だなァ。おっト、今はもう上司じゃないな、元上司だ。なんだい、あれは。僕の顔を見る度にあれだ。あまりに煩わしいもんだから、私の権限で飛ばしてやろうかと考えたものだよ。まァ、奴も俺も同じ部長職だから、出来ないんだけどな! ハハハハハ!」

叔父はカラカラと笑った。叔父は昔から笑い上戸だった。人と話をする時には一回は必ず笑うような人で、私が結婚する前はよく実家で父と酒を飲んでは笑いまくっていた。

「どうだい、そっちは。」

叔父が私の今の職場のことを聞きたいのか、ドイツでの生活を聞きたいのか、今一つ良く分からなかったので、両方話すことにした。

「えぇ、おかげさまで。体はずっと良いままです。家は田舎にあるんですが、会社まで道路一本で行けるので便利です。家の周りには緑があっていい所です。」

「あぁ、」

叔父は右手の人差し指を綺麗に剃ってある口髭の上へと当てた。

「それは確か兄さんの葬式の時に聞いたね。エット......30分だったっけか?」

「えぇ、それくらいです。」

「そうかそうか......」

叔父は目線を私の顔からベッドの上へと滑らせて頷いた。しばらくはそのままでいたが、また私の顔へと戻した。

「君の奥さん......ド忘れしてしまった、最近多くてね、困るよ......なんだっけ?」

「シーナです。エス、アイ、エヌ、エー、で、シーナ。」

「あぁ、そうだった。シーナさんだ、シーナさん。」

叔父はおもちゃをもらった子供のような顔をして、何か嬉しいことがあったかのように大きな声を出した。彼の声が二人しかいない広い病室に響き渡り、その響きが叔父の座っているベッドの斜向かいにある裾の揺れるカーテンを経由して、現実に現れていた。もしかしたらカーテンの裾は揺れていないかもしれないが、私の目にはそう映った。

「シーナさんはどうだい?」

「元気ですよ。最近はお菓子作りに凝っていまして。ドイツのやらフランスのやら。」

「そりゃ、幸せそうで良かった。」

「ええ。晴れた笑顔をよく見るようになりました。今になって分かるのですが、日本にいた時にはあんな顔見たことありませんでしたよ。」

「ハハハッ!」

叔父は大きく口を開けて笑った。頬に出来たビー玉ぐらいの笑くぼに自然と目が行った。

「あの時の彼女は、君が頑張りすぎるのを見て、いつも曇っていたからなァ! 見る度に悲しそうな顔をしていたよ。そうかそうか、晴れたか。結構な事だ! ドイツの天気は晴れだ! ハハハハハ!」

叔父の笑い顔を見ていたら、私もおかしくなって笑った。半分は叔父の笑いに釣られたものだが、もう半分は、何も気付くことの出来なかった自分を嘲るものだった。

私の顔を見ながら笑っていた叔父だったが、ふと、パンパンの風船がしぼんだように突然黙り込んで何かを考え出した。視線は私の顔の左側の窓の外にあるようだったが、彼の瞳に本当に映り込んでいるかどうかは謎だった。

「そうか......シーナさんに最後にあったのはもう三年前か......」

『三年前』という言葉を聞いてドキッとした。一瞬心臓が飛び跳ねたような気がした。

「あれは兄さんの葬式の時だったから.......そうか、兄さんが死んでもう三年になるのか。」

叔父が言う『兄さん』とは、つまり私の父だ。

「そう......ですね......」

父に関する複雑な心情を思い出して、気分が悪くなった。

「そうか、それで?」

叔父は再び私の顔の真ん中へと視線を投げかけて、何でもなさそうに尋ねた。叔父の言った『それで』という言葉は、徹頭徹尾『それで』であり、そこには私の気持ちを考慮して話題を元に戻しただとか、私を責める感情だとかは含まれていなかった。純粋に私の話の続きを聞こうとする叔父の思いが、『それで』という短い簡潔な一言に現れていた。

「あとは......そうですね......」

私は日常生活の記憶を繰ってみるが、なかなか見つからない。何でもポンポン出そうなのに、いざとなると出ないのは困る。

「ウン。」

叔父は依然として私の顔を見ている。

「特にこれと言って面白い話は無いんですが......」

叔父の目線がキツくなったので、視線を右下のベッドの足へと逃がした。

「まぁ、何でもいいさ。君達の日常を聞きたいんだから。」

叔父は顔をほころばせて、気持ち後ろへとのけぞるようにして座り直した。

「最近、カーテンを買い替えました。キッチンの流しの前の窓の奴です。シーナがカーテンが黒ずんで来たと言うので、せっかくだから模様替えも兼ねて、と思いまして。」

「ほぉ、そこの窓からは何が見えるんだい?」

「キッチンの、ですか?」

「あぁ。」

そんなこと考えもしなかったので叔父のこの質問に狼狽えながら、キッチンの窓からの景色を、細い蜘蛛の糸を手繰り寄せるようにして少しづつ思い出していった。

「庭ですね。」

「ほぉ、」

「庭が見えます。庭、と言っても芝が生えているだけですが。シーナが手入れしている花は玄関の方にあって、キッチンの方には無いんです。割と距離があるので。」

叔父は目を先程の方向、私の顔の左側の窓ガラスに向けて、その窓ガラスを見るとも見ないとも判別の付きにくい表情を浮かべ、ウンウンと頷いた。

「それから、塀が見えます。白い奴です。高さはそれほど高くないですが。」

ウンウンと、叔父はまた軽く頷いた。

「あと、たまに鳥が遊びにきます。芝の上や塀の上をピョンピョンと跳ねると、急に立ち止まって首を傾げるんですよ。どうしたのかなーって思っていると、思い出したようにまたピョンピョン跳ねるんです。それが面白くて。」

私は饒舌になって、最後の方は小さく笑いながら話した。叔父は視線の先の風景が目に入っているのかやはり分からない表情をしている。

「そう言えば鳥ということで思い出しましたよ。この間、日本の鳥特集をテレビでやっていまして。あぁ、向こうではたまにあるんですよ、日本を取り上げる番組が。」

叔父は黙ったまま窓である。

「その中で、長野の雷鳥が出て来まして。するとシーナが大喜びでライチョーだライチョーだと言うんです。シーナは雷鳥が好きでして、なんでも季節によって毛が変わるのが良いらしいんです。あと、他にはキジだとかサギだとか。あぁ、絶滅したトキのこ......」

「ワン・ツー・スリー。」

唐突に耳に入って来た音に私は驚いて、次に出てくる言葉を亡くしてしまった。

「は?」

「あぁ、ごめんごめん。ワン・ツー・スリーだよ。」

私の中の混沌を少しでも秩序立たせるために口からでた、一種の反射の延長に位置する感嘆詞に、叔父は丁寧に答えた。

「......別に君の話を聞きたくなかった訳でも、邪魔したかった訳でもないんだ。雷鳥の話だって聞いている。私の妻も好きだよ。ワン・ツー・スリー......」

『ワン・ツー・スリー』というフレーズを、叔父は無意識に発しているように思えた。そして、話の途中には私をしっかりと捉えていた彼の目線は、『ワン・ツー・スリー』と同時に私から逸れて、私の顔の左側の窓を、世間一般の常人とは違う視点から見ているようだった。

「そら、あそこ。」

叔父は右手の人差し指を彼の目線の先へと差した。彼の指の先には、窓の外側には、若緑色の葉を付けた大きな木があった。そして、その木から別れている枝の一本に、一匹のスズメが止まっていた。

「スズメがいるだろう。あのスズメがね......ほら、跳ねた。ハハハ、ワン・ツー・スリーだ!」

叔父の笑い声を後ろで聞きながら、私はスズメをじっと眺めた。スズメは細い木の枝の上をピョンピョンと二・三跳ね、細い足でしっかりと枝を掴んで止まった。止まると尻尾を上下へ動かしながら首を傾げていたが、しばらくすると思い出したかのようにまた二・三跳ねて止まった。木の枝を跳ねるこのスズメが、ドイツの家のキッチンから見える鳥の写しのように見えた。私は枝の上のスズメ、日本のこの病院の窓の外にいるスズメを見ながらも、その背後に、ドイツの道化師のような鳥の陰影を確かに見ていた。

「昔ね......」

背後からの叔父の声を聞いて、夢から覚めた気分がした。叔父の方へと振り返る。

「昔と言っても私が中学生の頃だが......その時から英語が大の苦手でね。お兄さんが出来るのになぜお前は出来ないんだと良く母さんに比べられたよ。そう考えると、君は兄さんに似たよなぁ。」

叔父の頬には笑くぼが浮かんだが、私の口はへの字に歪んだ。

「それが悔しくてね。何が何でも見返してやるんだって思ったんだよ。それで家に帰る時に、その日習った単語を一歩毎に口ずさんだんだ。ワン・ツー・スリー、いち・に・さん、ワン・ツー・スリーってね。」

「そうだったんですか。」

黙っているのも悪いだろうと思って相槌を打った。叔父は得意そうな顔をして続けた。

「あの後、兄さんは僕の勉強を見てくれたんだよ。余りにも僕と兄さんを比べる母さんに呆れたんだと思うんだ。結局なんにもならなかったけどな。でも、いい思い出だよ。これは僕だけの思い出じゃない、僕と兄さんの思い出でもあるんだ。兄さん頑固で頭固いけど、いいところもあるからさ。」

父は確かに頑固で融通が効かなかったが、いいところも沢山あった。私の心は棘のあるバラ同然だった。

「君と兄さんは似ているよ。」

叔父のこの一言を聞いた時、時間が確かに止まった。私の周りの空間が急に氷点下を迎えて硬い氷に変化し、そこに含まれる有機物がそのまま冷凍漬けになった。斜向かいの袖が揺れるカーテンも、窓の外の木の枝も、そこに跳ねるスズメも、目の前の叔父も、私の鼓動する心でさえも。私は驚いて叔父に聞き返した。

「私と父がですか?」

「うん。君と兄さんが。」

「どこが。」

「うんとね......雰囲気かなぁ。」

叔父は目線を右上に上げて曖昧に答えた。叔父にしたら曖昧ではなく、そこに彼自身の固有の思いがこもっているかもしれなかったが、心の裏側を表にひっくり返したような気持ちの私には随分と曖昧に感じた。

「真面目なところとかかな。」

それだけじゃ分からないので、叔父の次の言葉を暗の内に待った。

「この花束、ここの一階のだろう。」

「ええ、......そうです。」

「さしずめ、僕のところに急いでいたからお見舞いに何か買ってくるのを忘れて、一階の花屋で買って来たって感じかな?」

思っていたことが見事に当てられて決まりが悪くなった。やはりどこかで買ってくれば良かった。

「ほら、真面目じゃないか。付き合いの無い親戚なら分かるが、やり取りしている僕にその花を持って来てくれるんだ。君の父さんもそうだったよ。君が生まれる前にね、僕達のお祖父さんが入院したことがあったんだ。その時兄さん、律儀なことに毎回お見舞い持って行くんだよ。ハハハハハ! 君と兄さんは本当良く似ているなァ! ハハハハハ!」

今まで心の中で雁字搦めに封じ込めていた壺の蓋が、カタリと音を立てて落ちた。中に入っていたモノ、赤や青、紫、黒、その他沢山の色の雲を一所にグチャグチャにして閉じ込めた、鉛色の親戚のような色彩の気味の悪い得体の知れない複合体が、綺麗な空気であふれる外の空間に漏れ出した。

「あの、叔父さん、私は間違えたのでしょうか。」

「……何がだね。」

笑い顔の叔父の表面上に、引き締まったシワが現れた。

「父との、ことです。私が違うことをしていたら、もう少しなんとかなったのでしょうか。もう少し、父とうまく行ったのでしょうか。」

「ウマイことって何だろうね。」

ボソリと呟いた叔父の一言が私の耳の奥でこだました。

「きっと君の父さんも同じことを思ってるよ。」

私の心がそのまま外に出たので、お前は正しいとかお前は間違えているとか明白な意見を期待していた訳ではないが、叔父のこの言葉は想定外だった。父が私と同じことを思っている、そんなことがあるものかと内心疑わずにはいられなかった。

オレンジがかった太陽の光を受けている顔に笑みを浮かべながら、叔父は話を続けた。

「言っただろう、君は兄さんに似ているって。兄さんも今頃、外人だの令嬢だの反対しなきゃ良かったって、絶賛後悔中だよ。ま、あの世でだけどナ!」

ハハハハハ!、と叔父は喉の奥が見えるほど大きく口を開けて、いつものように笑った。薄く開いた彼の瞳には、綺麗な晴れた空が映っているように思えた。そしてそこに映る私の姿は、晴れた空に似合う不思議な雨雲だった。雨を降らせはしないが、それでも降らせそうな雲だった。

「君はな、これから奥さんと二人三脚して歩いて行くんだよ。でもな、奥さんとだけじゃない、父さんとも二人三脚するんだな! あぁ、違ぇよ、違ぇ、奥さんと父さんも二人三脚だ。 これからな、君と、君の奥さんと、君の父さんで、三人で輪になって二人三脚するんだ! 肩組んでさ、ハハハ! ワン・ツー・スリーだ! ハハハハハ!」

叔父は私の左肩をポンポン叩いてハハハハハと笑った。喉の奥が見えそうなほど口を大きく開けて。笑い上戸がその喉の奥に住んでいそうな雰囲気を醸し出して。私を叩く叔父の手と笑い皺がくっきりと浮かぶ顔は、すっかりオレンジ色に染まっていた。そのオレンジ色は彼の笑う声でクルクルとダンスを踊っているように見えた。ワン・ツー・スリーと拍子を取って、あっちへこっちへクルクルクル。気づくと病室はオレンジ色で一杯だった。私の着ている服も、叔父の座っているベッドも、一階の花屋の花束も、斜向かいの袖が揺れるカーテンも。ハハハハハという叔父の笑い声が病室に響いていた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

フランクフルト国際空港に着いて玄関を出ると、正面の道路に見慣れた車と見慣れた人を目にした。

「Guten Tag, Sina......」

「Guten Tag.」

近づく私に、妻は白い歯を見せて笑いながら答えた。

「迎えに来てくれてありがとう。帰りのこと全く考えてなかったから助かったよ。」

日本に行った影響からか、ドイツ語では無く日本語が出て来た。

「フフッ、No problem!」

妻の英語を聞いて、ちょっと以外に思った。そう言えば最初の頃は良く英語で話していたっけ。いつからドイツ語と日本語で話し始めたのだろう。

「運転して行くよ。」

「えぇ! いいよ、私がする。飛行機、疲れたでしょ。」

疲れたと言えば疲れたが、飛行機が私を運んでくれただけで私自身は何もせずに座っていたので、帰りぐらいは運転しようと思った。だが、妻はかなり意外そうな顔をした。

「私がするから、ね! 座って座って。」

妻が助手席のドアを開けて私を催促した。彼女が何故かすごく嬉しそうだったので、言われるままに助手席に腰を下ろした。

妻が助手席のドアを閉めてから、シートベルトを体にかけた。カチャンという音がすると同時に、運転席のドアが開いた。

妻に顔を向けてからフロントガラス、助手席の窓へと視線を移した。沢山の人や車が行き交っている。大人、子供、観光客、赤いスーツケース、白いリュックサック、今、黒い車が私達を通り越して行った。

その中に、ハトが人々の足元で歩いているのを見つけた。トコトコと人をうまく避けて歩いているが、数歩歩くと突然立ち止まって首を傾げた。私の方を向いて。ハトの上に広がる空は青い。所々白い小さな雲がふわふわと漂っている。心が洗われるような気持ちのいい晴れた空だ。ワン・ツー・スリー、ワン・ツー・スリー。ハトはまた歩き始めた。ワン・ツー・スリー、ワン・ツー・スリー。

「どうしたの?」

「あぁ、シーナ。」

妻が私の座っている助手席に体を乗り出して、私の視線の先をキョロキョロと探し出した。

「ハトだよ。」

「ハト?」

「ほら、あそこの......」

「あぁ、あのハト......」

ハトはヨチヨチと歩いている。大玉の上を歩く道化師のように。

「フフフ、どうしたの? ニホンで何かあったの?」

運転席に座り直した妻が私の顔を見て尋ねた。

「何か......いや、別に特には......うん、あったよ。」

「そっかぁ。良かったね。」

妻が車のアクセルを踏むと、車がゆっくり動き出した。

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