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  KOOL 作者:宮森
■ 03 ■


 マナーモードに設定した携帯電話が震えたことを幸いに、僕は店の外へ出た。サブディスプレイに「三鷹 茜」と表示されている。電話は幼馴染からだった。
「はい」応えると、低めのひんやりとした声がわずかなノイズに混じって聴こえた。
あかねです。カズ君、圭ちゃんと一緒におるやろう。明日から二週間大学の用事でアメリカに行きます、と伝えてくれん?」
 僕は一瞬、三鷹みたかの言うことが理解できず面食らう。普段から滅多に電話などかけてこない上に前置きなしでしゃべる幼馴染は、それだけ言うと「よろしく」と電話を切ろうとした。
「ちょ、待って、三鷹。アメリカって何? おじさんかおばさんに会いに行くの? なんで自分から幸村に言わないのさ」
「バッテリ、切れているから」
 ああ、と納得した隙にあっさりと電話は切れた。
「あいつ」
 思わず舌打ちして、携帯電話をたたむ。そこへ買い物を終えた幸村が店から出てきた。
「奈瀬くん、おまたせ」
「幸村、携帯電話の電源切れてるってさ」
「え? ほんと? あ、やっだ、バッテリ危ないと思ってたんだぁ。もたなかったかぁ。あれ、でもなんで奈瀬くんがそんなこと知ってるの? もしかして電話くれた?」
 幸村は無反応な携帯電話をチェックして、あきらめて僕を見上げた。
「三鷹が俺に電話してきた。なんか、明日からアメリカに行くって言ってたけど。それも二週間くらい。なにか聞いてる?」
 三鷹茜の両親は地元の国立大学で社会学の教鞭をとっている。ふたりとも非常に多忙な人で、一年の三分の一は国外にいる。フィールドワーク、現地調査というのだろうか、それに出かけて何ヶ月も帰ってこないこともざらにある。
 家が近所だったこともあって、十花は昔からよく三鷹を気にかけていた。必然的に僕たちは二人で遊ぶことが多くなり、それは高校生になった今も変らない。周囲はそれを、微笑ましいカップルだと認識していたようだが、僕に言わせれば的外れもいいところである。
 彼女は天才だ。
 僕が知る、ただ一人の天才。
「ああ、進路決めたって言ってた。やっぱ、アメリカの大学に進むんだろ。たぶん、今回はその下見じゃねぇかな」
 幸村は指先で自分の頬をこすりながら言う。口調が元にもどっていることには気づいていないようだ。
 僕は、三鷹が事前に幸村にある程度を打ち明けていたことに驚いた。たしかに二人は付き合っていて世間が彼氏彼女と呼ぶ関係なのだけれど、実体はすこし、いやかなり「世間」からは外れていると思う。
 僕は素直に感動した。三鷹が対人的なサービス精神に著しく乏しいことを知っているからだ。それはほとんど皆無に近い。必要最小限の言葉を必要な時に必要なだけ、というのが彼女の基本的なコミュニケーションスタンスだ。それすら彼女の尺度ではかられているのだから、他人には絶対的に不足していると感じられる。それは、幼馴染の僕も例外ではなかったけれど、人間は遅かれ早かれ環境に適応する生き物で、……早い話、僕は三鷹茜という人間に慣れてしまったのだ。
 あの調子では学校や親にも相談せずに一人でさっさと決めたに違いない。僕はとっくの昔に比べることの無意味さを思い知ったはずの、幼馴染の行動力や決断力その他諸々の能力値の差を考えそうになって、やめた。ただ、純粋にすごいと思うだけだ。
「なあ、奈瀬。もしかして、俺の行動って茜に読まれてる?」
 お前だけじゃないよ、幸村。

 塾にも家庭教師にも縁のない夏休みはこっくりと過ぎてゆく。最初の一週間で曜日の感覚がなくなり、時間は無限に残されているように感じられるようになった。僕はこの十日あまりシドの家に入り浸り、定位置となったソファにごろりと横になって惰睡をむさぼっている。こうしていると、ますますいろいろなことが遠ざかった。自分が他人のように思えてくる。親しい友人や母親と離れ、彼らの影響力が弱まると、僕はどうやら僕であることを忘れてしまうようだ。
 夏の遅い夕暮れがやってきて、窓の外をオレンジに染める頃、叔父がどこからともなく帰ってくる。十花の前以外の彼は、一環してグウタラのダメな大人だ。櫛をいれれば見事なブロンドも、今は無残に汗で額にへばりつき、手にはコンビニのビニル袋をさげていた。どうせ中身はビールだろう。
「あっちぃ、なんて暑さだ、日本の夏は」
 シドは缶ビールを冷蔵庫に並べつつ文句を言った。去年の夏も、一昨年の夏も、一言も違えずに同じ文句を同じシチュエーションで繰り返している。案外、律儀なのだ。
「ここはまだマシだよ、山の中だし。街中だったら三十五度を越えてるよ、今日みたいな日は」
 シドはようやく冷蔵庫を閉め、ビールを呷った。缶はよく冷えているのか水滴が浮いている。彼の喉が上下して、ビールを嚥下する様を見るともなしに眺めていると、ふいに目が合った。僕は意識的にゆっくりと視線をはずし、もう一度目をつむった。フローリングの床を歩く裸足の足音が聴こえた。足音は僕のいるソファのすぐそばで途切れ、唐突に冷たい何かが頬に押し当てられた。
 ぎょっとして目を開けると、叔父が両手にビールを持って上から僕の顔を覗き込んでいた。
「ほれ、ビール。飲みたかったんじゃないのか?」シドはもう一度、冷えた缶を僕の頬にぴたぴたと押し当てた。「タマにはいいさ。夏休みだしな」と、理屈にならない理屈を述べる。
 僕は仕方なしにビールを受け取った。どうやら、機嫌がいいらしいことはわかる。彼の勘違いを正してビールを断ってもよかったが、迷っているうちにシドはさっさと風呂にいってしまった。体を起こしてソファに座りなおすと、窓がちょうど真正面にくる。僕はビールを飲みながら、薄墨色に暮れてゆくグラデーションがかった空を見る。吹き込む風は少し、湿った草の匂いがした。

 それから再びソファに横になり、僕はアルコールが全身にゆきわたるに任せた。動くのが億劫になり、すこし眠い。あれだけ眠ってまだ眠気が襲うのだから、これが若いってことなのかと思い、可笑しかった。
 いつしかうとうとと微睡んでいると、ぼんやりとアルコールの霞がかった脳に耳慣れない音が届いた。最初はそれが何だかわからなかった。しばらく耳をすませていると、ようやくそれがとろりとしたピアノの音だということに気づく。溶けたチョコレートをかけた、マシュマロみたいな音だ。弾き手のテクニックによるものなのか、楽器の個性なのか。
「シド?」
 リビングを抜け、廊下に出ると隣の部屋に灯りがともっていた。扉ごしにピアノの音が漏れ聴こえてくる。
 僕は形だけのノックをして扉を開けた。部屋にはうすく煙草の煙がただよっていた。シドは風呂上りの濡れ髪のまま、くわえ煙草でピアノの前に座っていた。ピアノは、塗装がところどころ剥げた、アンティークと呼ぶのもおこがましい古めかしたアップライト。
 とろとろ、たら。
 とろん、たらん、くゎん。
 たらら、りら、くぅ、ん。
 ピアノは、そんな風に鳴った。弦が伸びて、音が割れて、それが中でくすぶって、何年も何年も樽の中で眠っていたウィスキィのように、不思議な味わいに変わっていた。
 シドは鼻から煙をもうもうと吐き出しながら、クリーム色に変色した鍵盤を指で弾いている。若干前のめりに目を閉じて、指先だけが撫でるように優しい動きをする。タンクトップの肩は、皮膚の下にひそむ骨の動きを教えてくれた。鎖骨が終わる辺りに、青い花が一輪咲いている。
「シド」
 二度目に呼びかけると、叔父はようやく僕に気づき、うっすら目を開けてこちらを流し見た。
「よぅ、飲んでるか、甥っこ」言いながら、ピアノの上に置いてあった缶ビールをかかげて飲み干した。
「前から気になってたんだけどさ」
 僕は、シドの肩に彫られたタトゥを見ながら、一脚だけある椅子に、背もたれを抱く格好で座る。
「あン?」と、おざなりに先をうながしながら、愛煙家の男はそれは美味そうにキャメルを吸う。
「よくそんなザマで作曲家だかピアニストだか名乗っていたよね」
 三百五十ミリリットルのビールのせいか、僕の口からするすると暴言がでてくる。本当に気になっていたことは別にあったはずだけど、なんだかどうでもよくなってしまった。
「失敬なやつだな。けらけら笑うなよ。CDだってちゃあんと出したんだぜ。ええと、なんだ、六年前だったかな」
「ほら、怪しい」
 二人とも酔っ払いだから、普段よりも気安く冗談を言い合う。シドは、このまま自分のピアニストとしての――作曲家としての、だったかもしれない――腕に疑問を持たれたままでは宿酔いになるとかどうとか主張した。ついでに、今から俺の実力を見せてやるから拝聴するようにとのたまうと、にやりと笑って酔っ払い特有の、悪意のない迷惑行為に取り掛かった。
 僕は、椅子の背もたれに顎をのせて、仕草だけは紳士的な彼の一礼を見守った。ピアノの前の椅子に座りなおすと、おもむろに指が鍵盤の上へ。
 いきなり和音がきた。それも、体全体の重みを使って鳴らすような痺れるやつ。
 左手がスウィングする。
 もっと、もっと、スウィングする。
 突然右手のメロディが乱入。
 細かなトリルや装飾音のトッピング。
 音が飛び跳ねて、右手は高く高く上がる。
 一転、転がるように二オクターブを滑り落ちる。
 テンポが上がって、どんどん上がって。
 右手のメロディはほとんど速くて聴きとれないくらい。
 ピアノのカバーの内側で、音は飽和状態。
 炭酸みたいにしゅわっと出てくるカタルシスには程遠い、くぐもって滲んで重なって、何層ものレイヤーになって細いパイプから押し出されてくるような。
 フラストレイティッド・サウンド。
 音色はビター・スィート。
 本来ならば観賞に耐えないおんぼろピアノは、狂った音でこの上なく奔放に鳴り響く。
 僕は笑いながらそれを心ゆくまで味わった。
 最後の一音まで。
 なぜだか無性に楽しくて、不覚ながら、ぼんやりと、終わらなければいいのにと思った。



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