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  KOOL 作者:宮森
■ 29 ■


 撤収は迅速だった。もともと寝起きが悪い上に寝不足が重なって、僕はほとんど不機嫌を通り越して重病人の気分だった。もちろんビュッフェスタイルの朝食も大して味などわからなかった。ぼんやりする頭にカフェインを流し込み、なんとか正気を保って爽やかなクラスメイトの中に紛れ込む。
 車と電車と自転車をトライアスロンのように乗り継いで、家に着くころにはすでに疲労困憊だった。母親はぼろぼろになって帰ってきた息子をいぶかしんだだろうが、表面には出さず、代わりに汚れ物を出すように言った。僕はその通りにして、さっさと自分の部屋に引き上げるとそのままベッドに飛び込んだ。カーテンも閉じて、本当は雨戸も閉めたいくらいだったけどそこまでの気力はなかったので省略。そうして僕はようやく眠った、のだと思う。次に気がつくと、昼はとっくに過ぎていて、すでに夕方と呼べる時間帯だった。六時間近く寝た計算になる。僕はごそごそと起きだして、シャワーを浴びることにした。窓は閉めっぱなし、クーラーも扇風機もつけずに寝てしまったので汗をかいていた。窓を開けて、ちょっと勿体ないがクーラーの電源も入れて、室温を確認したら三十度あった。よくこんな中で眠りこけていたものだ、我ながら感心する。
 室内の空気がほぼ入れ替わった頃に窓を閉め、着替えを持って風呂場に行く。十花はキッチンで夕食の用意をしていた。シャワーを浴びて着替えたら、ようやく人間らしい気分になった。僕はタオルを首にひっかけたまま、キッチンのカウンタに手をついた。
「何か食べるものない?」
 朝飯はろくに食べられず、昼食もすっとばして眠ったので、空腹で目が覚めたのだ。十花はちらっと僕を見て、昼飯の残りだと思われる素麺を出してくれた。しかし素麺一人前ではまったく足りず、まだそわそわとキッチンを覗き込む僕に、今度は火にかけていた大鍋からラタトゥイユをよそって出してくれた。結局僕はそれを三杯お代わりして、ようやく満足した。
「一貴、これ、またシドに持って行ってあげてくれないかな」十花は僕が食べ終えるのを見届けて、今度は中ぐらいの鍋をカウンタに置いた。六時をすこし回っていたが、外はまだ明るい。僕は了承して立ち上がった。鍋を自転車で運ぶにはちょっとしたコツがある。僕の自転車にはカゴがついていないので、密かに鍋バッグと呼んでいる底がしっかりした鞄を肩にかけて運ぶ。僕は鍋の取っ手を掴んだところで一度顔を上げ、十花を見た。彼女は包丁を握っている。すこし迷ってから、「母さん」と声をかける。何て言ったら伝わるのかわからなかったので、僕はただ「もうすこしだけ自分で考えてみるよ」と言った。言ってから、さすがにこれじゃあわからないと気づいて慌てて付け足す。
「あの、いろいろ、これからのこととか。ほら俺、一応受験生だし。それで駄目なら相談、するから。あの、そうじゃなくて、相談に、のってください」最後は勢いで敬語になった。
 十花は手を休めて僕を見ている。慣れないことをしているせいで、ひどく居心地が悪かった。
「君がそう望むなら、わたしも奈瀬も喜んで相談にのるよ」十花の声は、いつもより幾分やわらかかった。それから、すこしだけ困ったように「実は」と続ける。「わたしは毎日君を見ているから、特に心配はしていないんだけどね。……奈瀬はそういうわけにもいかないだろう? あれは最近、君の受験の話ばかりする」まるで子離れが出来ていない、と言わんばかりの口ぶりだ。
「父さんが? そう言えば、元気にしてるのかな。最近、メール来ないけど」僕の言葉に十花は苦笑する。「あまりメールばかり送って、君に煩く思われるのが恐いのさ。あれでも一応人並みに、息子の反抗期やら受験ストレスやらが気になるらしい」
「じゃあ、俺からメールすればいいんだ」
「そうしてくれれば喜ぶよ」十花はほっとしたように、再びまな板の上の野菜に戻っていった。
 僕は鍋バッグを肩にかけ、愛車を玄関から出してサドルにまたがった。空には薄ぼんやりとした月が顔を出していた。まだ昼間の熱気が生ぬるく立ち上ってはいたものの、頬を撫でてゆく風は夜の気配をまとっていた。四十分ほどかけて、ゆっくりと自転車をこいだ。手ぶらで全速力なら二十分、電車なら徒歩を含めて三十分の距離だ。
 叔父の家にたどり着いた頃には七時を回っていただろうか。相変わらず、壁掛け時計の類は一切置かない家なので、携帯電話を持ってこなかった僕には正確な時間はわからない。盗まれる心配もないので、自転車は鍵をかけずに適当な木に寄りかからせておくだけだ。玄関のドアノブに手をかけると鍵がしまっていたので、ポケットから合鍵を取り出して開錠した。
 中に入ると空気が流れた。数日締め切られていたのか、不快ではないが肌にまとわりつくような感じがした。ひとまずキッチンに向かい、六つも並んだ電気コンロのひとつにラタトゥイユの鍋を置いた。こぼれていないことを確認してほっとする。これでまたひとつ、あの大人気ない大人に貸しができた。僕が手ぶらで来たときはぶうぶう文句をつけるくせに、十花の手料理持参だとわかるところりと機嫌がなおるのだ。
 目的は恙無く達成されたのでそのまま帰ってもよかったのだが、なんとなく叔父を待ってもいいような気になった。単なる勘だが、今夜あたり帰ってきそうな気がした。
 あまり暑くはなかったが、僕は勢いよく家中の窓を全開にしていった。二階にはさすがに生暖かい空気がたまっていたので、天井に備え付けてあるファンも回した。相当昔のものなので、故障しているかもしれないと思ったが、それは重たそうにではあるもののゆっくりと回り始めた。羽に降り積もっていた埃が舞って、窓の外へと運ばれていった。
 いつものようにリビングのソファで待つのも悪くなかったが、今夜はなんとなく隣の部屋を覗きたくなった。古いピアノのある部屋だ。僕は好奇心に従い隣の部屋へ移った。開け放たれた窓から差し込む月の光でぼんやりと部屋全体が白く浮かび上がって見えた。アップライトのピアノが壁に背中をつけて置かれ、あとは椅子が一脚、忘れられたようにぽつんとあるだけの殺風景な室内。遮光カーテンが風を受けてゆらゆらと不規則に揺れた。
 物の形がわかる程度には明るかったので、僕は電気を点けないままピアノにそっと近寄った。ピアノの腹に抱かれるように仕舞われていた、背もたれのない椅子を引き出して座る。そのまま蓋に手を置き、硬くてすべすべした感触を指で確かめる。ぐっと力を加えて持ち上げると、蓋はあっさりと開いた。その下で鍵盤を守っているフェルトの布を取り除くと、白と黒の象牙が現れる。輝くように艶やかな、とはお世辞にも言えない、日に焼けた鍵盤はそれでもどこか味わいがあってなめらかだ。蓋の内側に刻印された『BECHSTEIN』の文字が最初は読めなかった。叔父に聞くのも癪だったので、帰ってからインターネットで調べてそれがドイツのベヒシュタインという楽器メーカーであることを知った。元々はシドの母親、レティツィアさんの嫁入り道具だったそれは、彼女の死後息子に譲られた。イギリスからわざわざ船で運んだと言うのだから、シドにとっても思い入れのあるピアノなのだろう。
 真ん中のドの鍵を押してみる。僕の知っているドの音よりもかなり低い。長い間調律されていないため、全体的にピッチが下がってしまっている。調律しなよと言う僕に、叔父は外国製のアンティークを任せられる調律師がいないと応える。が、本当は他人の目にさらしたくないだけなんじゃないかと思う。でも、狂うに任せるピアノはなんだか可哀相だ。
 僕はしばらくでたらめに白鍵と黒鍵を押した。交互に。上から下、下から上に。シドの指は鍵盤を舐めるように、あるいは鍵盤の上で踊るように動くが、僕の場合は弾くというよりも押す、に近い。
 ぼやんぼやんとした音がする。弦が伸びた、間抜けな音だ。それでもシドが弾けばそれなりに味のある個性的な音に聴こえるのだから、楽器よりも弾き手の腕が問題なのだ
 僕は諦めてピアノの蓋を閉じた。そういえば、一オクターブ上のシの音が出なかった。打鍵の際の抵抗がやけに軽かったので、完全に弦が切れているのかもしれない。叔父は知っているはずだが、直すつもりはないのだろうか。帰ってきたら確かめてみよう。
 そこでひとつ欠伸がでた。疲労感がゆるやかに眠気を連れてくる。六時間近い昼寝でもまだ足りなかったようだ。今何時だろう、とふと気になったが、確かめるのも億劫だ。あまり遅くならないうちに、十花に連絡しなければ。そんなことをぼんやりと考えながら、僕は蓋をしたピアノの上につっぷした。風が気持ちよく吹き抜けていった。



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