■ 01 ■
耳元でモーターが回るような、虫の羽音で目が覚めた。視覚が最初にとらえ、脳に伝達したのは色あせた天井の梁だった。ジオメトリックな骨ぐみの合間に蜘蛛の巣を見つける。数匹の羽虫が罠にかかり、そのまま干からびて埃をくっつけている。仕掛け人の姿は見当たらなかった。どこかよそに、もっと効率のいい場所を見つけたのかもしれない。
僕は上半身を起こして、今まで寝転んでいたソファに座りなおした。首筋と額にじっとりと汗をかいていて、背中にシャツがはりついている。梅雨のあけきらない七月の午後は蒸し暑く、目覚めはすがすがしいとは言えなかった。クーラーがないので、しかたなく窓を全開にする。湿っぽく生ぬるい風が部屋の中に吹き込んだ。草木が面倒くさそうに微風にあえぎながら夕立を待っている。
「暑」
今夜は熱帯夜だな、と覚悟して僕はひとつ大きな伸びをした。眠気を追い払ってから、喉が渇いていたのでキッチンへ向かう。アンティークと呼べそうな年代物の冷蔵庫を開けて中を物色する。ビールばかりがごろごろしている冷蔵庫だ。たぶん、フロンガスだってばんばん使っていて消費電力なんか最低の、環境にも財布にも優しくない代物。缶ビールの林をかきわけて、ようやくコカ・コーラの赤に手が届いた。この冷蔵庫の持ち主は水分はもっぱらアルコールが入ったものしか飲らないという不健康体だ。ぷしっという期待感をあおる音とともに、僕は炭酸を喉に流し込んだ。刺激とともに声を飲み込む感じ。
コーラのアルミ缶片手にリビングに戻ると叔父がいた。
「おかえり。早かったね」
僕は、ファブリックが擦り切れたオンボロのソファに腰をおろしてブーツの紐をほどく叔父に挨拶した。その中に脱ぎ捨てた靴下をつっこみながら、叔父は器用に片方の眉をあげてみせた。
「鍵は閉めてった気がするが。どうやって入った?」
「これで。母さんがくれた」
ウォレットチェーンにつながった合鍵をくるりとまわしてみせる。
「十花か。……彼女、元気にしてるのか?」
「元気だよ。シドが行き倒れてないか心配して、夕飯のおかず持ってけって言われた」
僕はキッチンを振り返る。母さん手製の肉じゃがが入った小ぶりの鍋は、電気コンロの上に置いてある。叔父がちらりとそちらに視線をやったのを確認して、僕は叔父が座るソファの前に立った。
「明日の朝もう一回火をとおせってさ。……ねえ、シド」
「叔父さんて呼べよ、甥っこ。何度も言ってるだろ」
ちらりと眉をひそめながら、シドは煙草に火をつけた。空気を吸い込むと先が一瞬赤く燃え上がり、すぐに白い煙が吐き出された。
「叔父さんが言ったんだぜ。スキなときに遊びに来ればいいって。それなのに、俺の顔を見て不機嫌になるのはフェアじゃないんじゃない?」
叔父さん、の部分を強調しながら言うと、煙草の煙を吹きかけられた。リアクションを返すのがしゃくで、僕はまばたきもしてやらなかった。
「おぼえておけよ。この世には、社交辞令ってもんと、俺の都合ってもんがある」
灰皿に灰が落ちる。僕は煙草を吸わないけれど、嫌煙権なんか振りかざすつもりはないし、煙草自体もべつに嫌いじゃない。でも、灰皿にたまった吸殻だけは我慢ならない。この世界にこれ以上無意味なものなんてないと思う。吸殻っていうよりも、抜け殻。煙草を吸うひとたちは、考えごとをするときや、食事のあとや、酒の席や、ただ時間をつぶしたいときや、いらいらしたときに煙草を吸うようだ。たぶん、理由がなくたって僕らが呼吸しているみたいに自然に吸うんだろう。
「おぼえておくよ。母さんには、シド叔父さんがそう言ってたって言って、鍵を返しておくね」
僕は僕くらいの歳の人間に許される無邪気さを上限一杯まで引き出して「コーラごちそうさま」と付け足した。ソファに放り出していた鞄に手を伸ばしたとき、シドの顔を見なかったのは我ながら上出来だったと思う。
「一貴」
名前を呼ばれて、鞄を持っていないほうの手を掴まれたときも、僕には今にも落ちそうな煙草の灰を気にする余裕があった。叔父はソファから腰を浮かせていた。自分の倍も歳を重ねているはずの男が、前言を撤回するための言い訳を探している。その滑稽さに彼自身気付かないはずもなく、呆れと苛立ちは舌打ちとなって表現された。
「待てよ、一貴。誤解するな。俺はなにもお前に来るなって言ってるわけじゃない。暑い中わざわざ鍋を届けてくれたんだろ。礼を言うさ。その鍵もお前が持っていていいぜ」
シドは僕の手首を解放し、そのまま両手を顔の横まで上げて、ホールドアップの格好をした。彼の眼鏡の奥の目が真面目くさって僕を見た。
「本当にいいの?」
チェーンから外した鍵を鼻先に持ち上げて揺らす。
「ああ。お前が持っていろ」
「じゃあお言葉に甘えて」
鍵をしまい、当初の目的も達成したところで、今度こそ帰ろうとする僕の背中に焦ったシドの声が追いすがる。
「おい、さっきの話だけどな。冗談だから。十花、姉さんには」
「心配しなくても言わないよ」
初対面の頃からうすうす気が付いてはいたけれど、三十四にもなろうかという目の前の男は僕の母にまったく頭があがらない。はっきり言ってシスコンだ。同じ男としてどうかと思うが、僕個人としはこうしてシドの家に自由に出入りする権利を得られたわけで、文句を言う筋合いでもない。自由恋愛、大いに結構なことだ。
僕が初めてシド・シンクレアに会ったのは十年前の夏。
母親に連れられて叔父の元へやってきた小学生の僕は、すぐさまこの古い洋館に夢中になった。傾いたシャンデリアや上り下りするたびにきしむ階段が、当時夢中になっていたホラーゲームの幽霊屋敷にそっくりだった。
そこで僕らを出迎えたのは、くしゃくしゃの金髪に眠そうな碧眼の若い男だった。くたびれたシャツをひっかけ、裾がほつれたジーンズを履いた「叔父さん」はどう見ても日本人ではなかった。叔父についての事前情報をほとんど聞かされていなかった僕は、まずその外見に驚いて人見知りを発動してしまった。年甲斐も無く母親の影から様子を伺っていると、男はまるで別人のように生き生きとした顔になった。彼の寝ぼけた脳みそが十花を認識した瞬間を、僕は一秒の十分の一単位まで正確に言い当てることができる。あんなに嬉しそうな顔をする人間を、僕は今まで見たことがなかった。
呆れたことに、叔父はそのあと服を着替え、髪に櫛をいれてから再び現れた。そして流暢な日本語をあやつり、まるで大人相手にするように礼儀正しく僕に挨拶した。英国生まれの英国育ち、もちろん母国語は英語だという彼は、半分だけ血のつながった姉と話したいがために死に物狂いで日本語を勉強したという。もともと語学のセンスが良かったのか発音も堂に入ったもので、今ではほぼネイティヴと呼べるレベルにまで上達してしまった。
叔父の服装や言動から彼が何をしている人なのか探り出すのは困難だ。十年の付き合いを経た今も、はっきりとはわからない。シドは十年前も今も、よれよれのシャツとジーンズで一年のほとんどを過ごし、冷蔵庫はビールで一杯で、ラクダ柄の煙草を一日に一箱空にする。気がつけばふらりといなくなり、いつの間にか戻ってくる。変わった事といえば、愛煙家の彼が空港で煙草を吸えなくなったと嘆く時世と、彼と僕の身長差が限りなくゼロに近くなったことくらいだ。
「シド、今何やってるの」
「あン? お前としゃべってやってるだろうが」
「仕事の話だよ」自然と眉間に皺が寄る。
確か、最後の職業は画家だった。もしくは画商。どちらも売れないという点は同じだ。僕の知る限り、その点だけは終始一環している。僕が知っているだけでも、彼は作家であり、ピアニストであり、作曲家であり、演出家であり、画家であり、詩人だった。そして彼は、そのどれにも満足していないように見えた。
シドはソファに座ったまま、カメラのシャッタを切る真似をした。予想通りというか期待通りというか、また転職している。被写体を聞いて欲しそうだったので、あえて「じゃあ、もう帰るね」と言ったら、あからさまに残念そうな顔になった。今日日の高校生よりも素直だ。
「個展を開こうと思ってよ。今まで撮り溜めたやつを整理して、あと、十花をモデルに何枚か撮りたいんだが。まあ、近いうちに打診しに寄ってみるさ」
それが狙いか、という言葉が喉元まで出かかった。飲み込んで笑顔で「母さんは写真嫌いだよ」と先に釘を刺しておく。叔父が絶句したことに気を良くして、僕は家に帰ることにした。ストレスフルな受験生にはこれくらいのリフレッシュが必要なのだ。
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