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虹化粧
作:池波京太郎


         1

「寝過ごしたぁー!」

 春日井健司かすがいけんじは叫びながら、ベッドから飛び起きた。

 ブラジルで生まれたなら、さほど問題ではないだろう遅刻も、このアジアの極東、日本では一大事だった。

 特に健司は、幼い頃からしつけのきびしい両親に育てられたため、社会のルールに反することには、極度に敏感だった。それは二八才になったいまでも変わらない。

 健司はあわてて部屋の目覚まし時計を見た。目覚まし時計は止まっていた。

 電池が切れたようだ。


「急がないと、会社に遅刻する!」


 健司は自分に言い聞かせるように叫んだ。


 身支度もそこそこに部屋を飛び出すと、健司は鬼の形相で駅に向かって自転車をこいだ。

 健司は自宅から最寄り駅までは、毎朝、自転車を使っていた。

 途中、健司は歩道の端に、大きなゴミ袋が落ちているのを発見した。


(だれだよ、あんなところにゴミを捨てて……)


 健司は心の中で憤慨し、ゴミ袋をちらりと横目で見た。

「ん?」

 と、健司はつぶやき、そのゴミ袋をあらためて見つめた。

 それはゴミ袋ではなかった。



 人間だった。



 人間が向こうむきにうずくまっている。

「わ、た、大変だ!」

 健司は叫び、あわてて自転車で引き返した。

 うずくまっている人間のうしろに、自転車を停め、

「だ、だいじょうぶですか……」

 健司は声を掛けた。

「う、うん……」

 うずくまっている人間は、消え入るような声で言うと、ゆっくりと健司のほうに顔を上げた。


 初老の男だった。


 白髪は、何日も洗っていないようで、脂ぎっていた。

 男の着ている背広もくたびれていて、汚れていて、少し臭った。


 浮浪者のようだ。


「だ、だいじょうぶみたいですね」

 健司は言い、男をその場に残し、そそくさと立ち去ろうとした。

 健司にとって、あまり関係を持ちたくない方面の男だった。


「ちょ、ちょっと待ってください」

 初老の男が、健司を呼び止めた。

 健司は自転車に手を掛けながら、少し迷惑そうな表情で男を振り返った。

「助けてくれてありがとう。きみになにかお礼をしたい」

 と、男が言う。

「けっこうです」

 健司はあっさりと断った。

 これ以上、この男とはかかわりを持ちたくない、と健司は思った。

 健司は、すばやく自転車にまたがると、そのまま走り去ろうとした。

「ま、待ってください!」

 男が、いっそう憐れみを含んだ声で叫んだ。

 健司は自転車を停め、男に振り返った。


 男の姿を見て、健司はぎょっとした。


 いつのまにか男は、手に短刀を握っていた。


 そして、短刀の切っ先を、自分の喉元に当てている。


「な、なにをしているんですか。やめてください」

 健司が、あわてふためいて男に言う。

 あまりにあわてたので、健司はあやうく乗っている自転車からずり落ちそうになった。

 健司は自転車から降りると、中腰の姿勢のまま、男に近づいて行った。

「どういうつもりなんですか。さっきは助けてくれてありがとう、とか言っておきながら、そんな物を持ち出して……」

「いや、助けてくれたお礼に、きみにおもしろいものを見せて上げようと思ってね」

 と、男は言い、いたずらっぽく、にやり、と笑った。

「え?」

 健司が驚いた表情で言った。


 男はいきなり、ざくり、と短刀を自分の喉元に、深々と突き刺した。


 男の喉元から、大量の鮮血がほとばしった。



「ひ、ひいいっ!」



 健司は絶叫した。


 だが、健司は次に、信じられない光景を目にした。


 男の喉元から吹き出した鮮血は、地面に落ちることなく、重力に逆らうように、男の顔の上を覆った。まるで、男の顔を、鮮血の衣で包み込んだかのようだ。


 健司は唖然として、ただ男の顔を見つめているだけだった。

 男の顔を、真っ赤な鮮血が完全に覆い尽くした。

 鮮血はまるで生き物のように、男の顔の上をうごめいていた。

 やがて、鮮血の中から、顔が浮かび上がってきた。


「あっ!」


 と、健司はまた驚きの声を上げた。



 初老の男の顔が、若い女の顔に変わっていた。



         2


 健司は驚愕の表情で、若い女の顔を見つめていた。


 すでに、男の顔は完全に女になっていた。


「驚いたみたいだね、はははは」

 と、女が言った。声まで完全に女だった。変わっていないのは、汚い服装だけだった。

「この顔じゃあ、目立ってしょうがないので、元に戻すよ」

 女は言うと、また短刀を自分の喉元に当て、ざくり、と深く突き刺した。


 女の喉から鮮血が吹き出す。


 だが、鮮血はやはり今回も、周囲に飛び散ることなく、女の顔を覆った。


 しばらくすると、鮮血が消え、中から元の初老の男の顔が出てきた。


 健司は声もなく、男の顔を見つめていた。

「どうだい。なかなか面白かっただろう」

 と、男は楽しそうに笑いながら言った。

 健司は呆然とした表情のまま、


「面白いと言うか、驚いたと言うか、無気味と言うか……」


 やっとそれだけ言った。

「うむ。まあ、初めて見る人にはちょっとショッキングかもしれないね」

 男は言い、にやりと笑った。

「なんだったんですか、いまのは?」

 健司が男にきいた。

「これだよ」

 と言って、男は手にした短刀を顔の前にかざした。


 短刀がきらり、と陽光に輝く。


「この短刀を体に突き刺すと、自分のイメージした通りに体を変化させることができるんだよ」

 と、男は少し得意そうになって説明した。

「本当ですか?」

 健司は半信半疑で男にきいた。

「うむ」

 と、男はうなずき、

「これは、わたしがインドを旅していた時に、偶然知り合った日本人に渡された物なのだ」

 短刀を目の前でくるくると回してみせた。

「へえ、そんなすごい物をよく、くれましたね」

「うむ。その男は崖の上から転落して、動けなかったところを、わたしが偶然通りかかって、病院まで運んでやったのだ。ちょうど、今日のきみのように、わたしはその男を助けたというわけだね」

 男は、小さくほほ笑み、

「この短刀は代々、自分を助けてくれた人間に手渡して行く習わしになっているのだそうだ。それで、その時も、わたしはその習わしに従って、その男からこの短刀を譲り受けた、というわけだよ」

 男は、うんうん、と、ひとりうなずいた。

 そして、男はおもむろに、かっ、と目を見開き、健司を見つめ、

「だから、今回もその習わしに従って、この短刀をきみに譲りたい!」


「えっ!」


 健司は驚きの声を上げた。

 いきなりのことだったので、健司は戸惑っていた。

 男は短刀を鞘に収め、

「どうか、受け取ってほしい」

 そう言って、短刀を健司に差し出した。

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。そんなこと急に言われても困りますよ」

 健司はあわてて男に言った。

「なあに、遠慮することはないよ。わたしもこの短刀は、ひとからもらった物だ」

 男はにこやかな笑みを崩さず、さらに短刀を健司に向かって押し出した。

「こ、困りますよ」

 健司はさらに身を引いた。

「頼む。受け取ってくれ。きみがわたしを助けたのは、なにか縁があってのことだ。きみにはこの短刀を受け取る資格がある、ということなんだよ」

 男は短刀を、健司の胸の前にずい、と差し出す。

 健司は男の顔を見た。


 男は真剣だった。


 冗談で言っているのではなさそうだ。

 健司は短刀に目を移した。

 短刀は男の手のひらの上に、静かに乗っている。


「本当に、いいんですか?」

 健司は男の顔を見つめながら、小さく言った。

「いいとも!」

 と、男がうれしそうに言った。

 その言葉に嘘はなさそうだ。

 健司はゆっくりと手を差し出し、短刀を受け取った。

 短刀が健司の手に渡ると、

「ああ。これでわたしも安心したよ」

 男が安堵の表情をつくった。

「本当にこんな貴重な物、もらっていいんですか?」

 健司が男に確認するようにきいた。

「うん。その短刀はそうやって、代々縁のある人間を渡り歩いて行く物なんだよ。いままではわたしが持っていたが、これからはきみの物だ」

 男が穏やかな笑顔のまま、健司に言った。

 健司は短刀を見つめた。

 短刀は両手にずしりと、重厚な手ごたえがあった。

 健司は短刀の柄に手を掛け、鞘から抜いてみた。

 銀色の刀身が現れる。

 刀身には曇りひとつなかった。


 刀身からこぼれる光を見つめていると、健司は自分の心から、すべての恐怖が消えていくような気持ちになった。


「その短刀の使い方は簡単だよ。自分が変えたい物をイメージし、変えたい場所に突き刺すだけだ」

 と、男が言った。

 男の言葉に、健司は我に返った。

 健司は短刀を鞘に収めた。

 男は健司に背を向けると、

「じゃあ」

 と言って、歩き出した。

「あ、待ってください!」

 健司が男を呼び止めた。

 男が振り返った。

「あなたは何をしているひとなんですか。どうしてここに倒れていたんですか。それに、こんな物をくれたのに、連絡先も知らせずに行ってしまうんですか」

 健司は男に向かって、一気に言った。

「わたしは普通の老人だよ。もう、年金暮しだ。わたしには心臓に持病がある。たまに苦しくなるんだよ。今日は、特に苦しかった。もう、わたしも長くないのかもしれない」

 男は言い、遠い目をした。そして、健司の顔をまっすぐに見つめ、

「連絡先など、必要ないだろう。その短刀はもう、きみの物だ。だれからもらったなどということは、意味のないことだ」

 そう言うと、男は、ふたたび背を向けて歩き出した。

 健司は黙って男の背中を見つめていた。

 ふと、男が足を止め、健司に振り返った。

「そうそう。その短刀はね、『虹化粧』と言うんだ。虹のように美しく、完璧に自分を変えることができる短刀だから、その名前がついたらしいよ」

 男はそれだけ言うと、また背を向け、歩き出した。

 健司は無言のまま、小さくなっていく男の姿を目で追っていた。


         3


 健司は部屋に戻ると、男からもらった短刀を眺めていた。

 仕事は休むことにした。

 男から、あんな衝撃的な変身シーンを見せられたら、仕事どころではなかった。

 健司は、男から短刀を渡されたあと、そのまま自転車で自分のマンションへと戻った。

「うーむ……」

 健司は、短刀を目の前にかざしながらうなった。

 まだ、今朝の男のしたことが、本当だとは思えなかった。夢でも見ているようだ。

 しかし、目の前に男からもらった短刀がある。

 これは現実の証拠だった。

「イメージを浮かべながら、短刀を突き刺せば、イメージしたとおりに体が変わる」

 と、男は言っていたが、それを試す勇気がまだ健司には出ない。

 健司は鞘に収めていた短刀を抜いてみた。

 刀身が薄暗い部屋に、妖しくきらめいた。


 瞬間、


 ぞくり……


 と、健司の背筋に冷たいものがはしった。

 同時に、すべての恐怖が、健司の心の中から消え去った。

 健司は、短刀の切っ先を、ぴたりと自分の喉元に当てた。

 健司の目の前に、ポストカードがある。

 ポストカードには、絵が描かれていた。

 エドヴァルド・ムンク作、『叫び』だ。

 このポストカードは、趣味のいい健司の友人が、暑中見舞いとして送ってきたものだ。

 絵の中には、橋の上で両手を頬に当て、なにかを叫んでいる人間がいる。

 健司は頭の中で、その人間の顔をイメージした。


 そして、ためらうことなく、


 ざくり!


 と、短刀を自分の喉元に、深々と突き刺した。

 健司の喉元から、鮮血がほとばしった。

 痛みはまったく感じない。

 喉元から吹き出した鮮血は、健司の顔を覆い、ごわごわと少しのあいだうごめいたかと思うと、すぐに鮮血の中から『叫び』の顔が現れた。

 健司は引き抜いた短刀を手にしながら、もう一方の手で、自分の顔を撫でてみた。

 ぶわぶわとした、不思議な手ごたえがあった。

 健司は興奮気味に、近くにあった手鏡を取った。

 鏡に、自分の顔を映してみる。

 まるで、骸骨のような白い容貌に、歪んだ口がそこにあった。

「おお! すごい!」

 健司は飛び上がってよろこんだ。

 変身しているため、声は健司のものとは違っていた。もっと、低い、無機的な声だった。

「なんてことだ。本当に変わっちまった!」

 健司は叫び、手鏡で自分の顏をまじまじと見つめた。

「これはすごいものをもらったもんだ」

 健司は興奮して、手にした短刀を見つめた。

 いままでは、老人がこの短刀で変身したことに半信半疑だったが、健司は自分が実際に変身したことで、短刀の力に確信が持てた。

「元に戻ろう」

 と言って、健司はあらためて自分の喉元に短刀を突き刺した。もう、短刀を自分の体に刺すことに、抵抗はほとんどなくなっていた。


 健司の顔が元に戻った。


 健司は手鏡を取って、自分の顔を映してみながら、

「うん、よしよし」

 と、ひとりうなずいた。

 突然、健司の携帯電話の着信音が鳴った。

 健司が電話に出ると、

「ああ、おれだけど」

 と、聞き覚えのある声が響いた。

「おお、坂下か」

 健司が応えた。

 電話の主は、坂下康蔵だった。

 坂下康蔵は、健司の高校時代からの友人だった。年令は、健司と同じ、二八才だ。

 康蔵は仕事をしていなかった。死んだ康蔵の両親が資産家で、その遺産はすべて康蔵のものになっていたので、働く必要がなかった。「働くのは金のためで、金があれば働くやつなんていないよ」と康蔵はよく言っていた。

「なにやってんだ、いま?」

 と、康蔵が電話の向こうからきいた。

「なにもしてないよ。部屋でごろごろしてただけだよ」

 健司が言った。

「仕事は?」

 と、康蔵がきくので、

「休んだ。今日はちょっと、かったるかったからね」

 健司は答えた。

 虹化粧のことは言わないほうがいいだろう、と健司は思った。自分以外の人間に軽々しくしゃべってしまうと、虹化粧を盗まれてしまう可能性があるからな、と健司は判断した。

「ちょうどいいや。遊びに行こうぜ」

 と、康蔵が言った。

「いいよ。いまからか?」

「そうだ。いつ出られる?」

「すぐ出られるよ。どこに行くんだよ」

「どこ、ってことはないんだけどね。ちょっと、会おうぜ」

 康蔵は言い、電話の向こうで、くくく、と小さく笑った。

「どこで会うんだ?」

 と、健司がきいた。

「××駅までこいよ。おれが車で迎えに行ってやるからさ」

 康蔵が言った。


         4


 駅に着くと、康蔵がすでにきていた。

 康蔵の車が路肩に停まっている。

 健司は康蔵の車のサイドガラスを手で、こんこん、と叩いた。

「よ」

 と、康蔵が運転席から、健司に向かって片手を上げた。

 健司は康蔵の車の助手席に乗り込んだ。

「待ったか?」

 健司が康蔵にきいた。

「いや、今きたとこだよ」

 康蔵は言い、車を発進させた。

 時刻は、昼の11時半になるところだ。

「めしでも食おうぜ」

 ハンドルを握りながら、康蔵がいうと、

「そうだな」

 健司がうなずいた。


 健司と康蔵を乗せた車は、近くのファミリーレストランに入って行った。

 テーブルにつき、料理を注文すると、

「実はな、春日井……」

 康蔵が顔をぐっ、と近づけて、健司に言った。

「ん?」

「相談があるんだよ」

「なんだよ、あらたまって」

 健司が、笑いながら言った。康蔵とは高校時代からの知り合いなので、いきなりかしこまって相談事を持ち出されると、健司は少々戸惑った。

「言いづらいんだけどよ」

 康蔵は言い、グラスの水を少し飲んだ。

「なんだよ。遠慮するような仲じゃないだろ」

 健司が笑顔のまま言った。

「うん」

 康蔵はうなずいてから、

「実はな、人をひとり殺したんだよ」



「は?」



 健司はぽかんとした顔で康蔵を見た。康蔵の言葉が、すぐには理解できなかった。

 康蔵はあくまで、真剣な表情を崩さず、

「人をな……ひとり殺しちまった」

 声を低めて言った。


 健司はしばらく、無言のまま、康蔵の顔を見つめていたが、

「本当なのか?」

 やっとそれだけ言った。

 康蔵は、こくり、とうなずき、

「本当だ」

 と言った。

 健司はテーブルに視線を落とした。思いのほか冷静なのは、まだ康蔵の話を信じ切れていないからかもしれない、と健司は思った。


「殺した、って、誰を殺したんだよ」

 と、健司が康蔵にきいた。

「おれと、同棲してた、三島純子。知ってるだろう」

「ああ」

「あいつをった」

「お待たせしました」

 という声が、健司と康蔵のテーブルに聞こえた。

 ウエイトレスが、健司たちの注文した品を持ってきたようだった。

 健司と康蔵の会話は、しばらく途切れた。

 ウエイトレスは、料理をテーブルに並べると立ち去った。

 健司は、目の前に置かれたグレープフルーツジュースを一口飲んだ。カキフライ定食を頼んだのだが、とても手をつける気になれない。

「はずみだったんだよ」

 と、康蔵はうつむきながら、

「その日の朝に、ささいなことで、純子と喧嘩になってな。おれが、階段の上から突き落としたんだ。純子は頭から血を流して、死んだ」

 康蔵は、ふう、と小さくため息をついた。

 健司は無言で、テーブルの上を見つめている。

「純子の死体は、山に埋めた」

 康蔵は言うと、

「すっきりしたよ」

 そう言って、ははは、と笑った。

「本当の話なのかよ」

 健司が上目遣いに、康蔵の顔を見つめながら、

「とても信じられないんだけどね」

 と言った。

「信じられないのも無理はないな。よくある話じゃないもんな」

 康蔵は言い、テーブルの料理を食べはじめた。康蔵が頼んだのは、ツインハンバーグ定食だ。

「食わないの?」

 と、康蔵が健司のエビフライ定食を指さした。

「よく食えるな。おまえ仮にも、人を殺したんだろう」

「うん」

 と、康蔵はうなずき、なおも料理を食べ続けた。

「おかしいよ。人を殺した人間が、そんなにめしをばくばくばくばく……」

 健司は、呆れた顏で、康蔵を見た。

「まあ、殺した女は、特に愛していたわけじゃないからな。同棲していたとはいえ、もう、朝から晩まで喧嘩ばかりだったんだよ、最近は」

「でも、なんで、そんなことを、わざわざおれに言うんだよ」

「そこだよ」

 康蔵が、健司に向き直って、

「女を殺したのは、おれの家だったんだよ。おれに両親がいないのは知っているだろう。おれは両親の残した家で、あの女と同棲していたんだよ。女を殺したのが、おとといなんだ。女がいなくなった家に、二日ほど住んだけど、どうにも気味が悪くてな」

「そりゃあ、そうだろう」

 健司がうなずいた。

「あの家も売りに出そうと思ってるんだ。その金で、どっかマンションでも探そうかと思ってるんだけどよ。家が売れるまで、おまえんとこに泊めてくれよ」

「なに!」

 健司は、目を見開き、

「おまえを、おれの部屋に泊めろって言うのかよ!」

「そうだ。いいだろ」

 康蔵が、にこり、と笑った。

「し、しかしだな。普段ならともかく、おととい人を殺してきた人間をだな……」

 健司は、しどろもどろになっていた。

「いいじゃないか。おれとおまえは、高校時代から一〇年以上ものつき合いだ。こんなことを頼めるのはおまえしかいないんだよ。なーに、家が売れりゃ、すぐに出て行くよ。おまえに迷惑をかけることはない」

 康蔵はのんきに言った。


         5


 結局、健司はその日、康蔵を部屋に泊めることにした。

 健司はマンションに一人暮しだった。

 健司のマンションは2DKなので、康蔵ひとり泊めるスペースなら十分あった。


 夜は別々の部屋に寝ることにした。

 寝具はひとつしかなかったので、健司がいつも寝ているベッドに康蔵を寝かせ、健司は隣の部屋のソファで眠ることにした。


 夜も深まった頃……。


 健司は目を覚ました。



 眠れなかった。



 いくら高校時代からの親友とはいえ、人を殺したという人間と、ひとつ屋根の下で眠るのだけの図太い神経は、健司は持ち合わせていなかった。

(やはり、警察に連絡するべきだろうか……)

 健司は迷った。

 健司は、ソファから身を起こすと、部屋を出た。

 隣の部屋では、康蔵が寝ているはずだった。

 健司はキッチンにある冷蔵庫を開けると、ビールを取り出し、グラスを持って、テーブルについた。

 健司はテーブルでビールを飲みながら、康蔵のいる部屋のドアを眺めていた。


(やはり……警察に連絡するべきだろう)


 健司は部屋に戻り、携帯電話を手に持った。

 だが、健司はどうしても、一一〇番を最後まで押せなかった。


 最後の〇が押せない。


「やっぱり、あいつを警察に売るなんてできない……」

 健司はしぼりだすように言った。

 携帯電話を手にしたまま、健司はその場にうずくまっていた。

 健司はしばらく、携帯電話の画面をぼんやりと見つめていたが、

「よし!」

 と、低い声でつぶやくと、顔を上げ、

「やっぱり、警察に連絡しよう!」

 決心した。親友を裏切るのは心苦しい。しかし、自分の正義に正直になろう、健司はそう思った。

 健司は携帯電話のボタンを押した。


 一一〇番。


 少しためらったあと、健司はついに最後の〇を押した。



「春日井……」



 ふいに声がした。


 健司の背後からだった。

 健司は驚いて振り返った。


 康蔵が立っている。


 康蔵は、暗い部屋の入り口にいるため、表情まではわからなかった。

 康蔵はじっと、健司を見ていた。

 健司の心臓は、爆発しそうに高鳴っている。

「まさか、警察に電話しているんじゃないよな」

 康蔵が感情のこもらない声で言った。

 健司はそれに答えることができなかった。

「春日井……」

 康蔵が、一歩、健司に近づいた。

「その電話はだれに掛けているんだ?」

 康蔵がまた一歩、健司に迫った。

 その時、健司ははっきりと見た。

 康蔵の右手には、短刀が握られていた。

 健司が老人からもらった、『虹化粧』だった。

 康蔵は健司の部屋に寝ていたため、虹化粧を見つけたらしい。

 康蔵はいまや、健司のすぐ目の前に立ちふさがっていた。

「もしもし、どうしました?」

 と、健司の携帯電話から、声がした。


 その声を聞いて、康蔵はすべてを悟った。


「春日井……」

 康蔵が、低い声で言った。

 健司はただ黙って、康蔵の顔を見つめていた。

 康蔵が健司に向かって動いた。


「ま、待ってくれ……!」


 健司が叫んだ。


 だが、康蔵は止まらなかった。


 康蔵の手にした短刀が、健司の腹に、深々と突き刺さっていた。


「あ……」


 健司は思わず声を洩らした。

 痛みは感じなかった。

 健司は自分の腹を、反射的に押さえていた。

 健司の目は、じっと、康蔵の顔に向けられている。

 康蔵は、悲しそうな表情で健司を見ていた。


 ふたりとも、無言だった。


 長い時間のようだったが、実際には一瞬のできごとだったのだろう。

 健司の腹に刺さった短刀から、大量の鮮血が迸った。



 だが……。



 その鮮血は、床を汚すことなく、健司の体を覆っていった。


「えっ?」


 今度は康蔵が声を上げた。

 健司の体から出た鮮血は、まるで生き物のようにうごめきながら、健司の体を這い登っていく。


「な、なんだ?」


 康蔵は叫び、健司から身を引いた。

 鮮血が、健司の全身を、すっぽりと包み込んだ。

 火山の中のマグマのように、真っ赤な体がそこにあった。

 やがて鮮血は健司の体の中に、引き潮のように消えていった。


「あ!」


 康蔵は大きな声を上げた。

 健司は、まったくの別人に、姿を変えていた。


         6



 健司は、若い女に、姿を変えていた。


 健司はうずくまったまま、康蔵の顔を見上げた。

 健司にはまだ、自分がどんな姿になっているのかわかっていなかった。


 康蔵はただ驚いて、健司の顔を見下ろしている。


 康蔵には、健司の変化した顏に、見覚えがあった。


「浅田ゆい……だ……」


 康蔵が小さくつぶやいた。

 浅田ゆいは、康蔵が好きなグラビアアイドルだった。

「こ、こんなことがあるのか……」

 康蔵はじっと健司の顔を見つめた。


 信じられなかった。


 すでに、健司の面影はどこにもなかった。


 若々しい白い肌。潤んだような、黒い大きな瞳。艶のある、美しい長い黒髪。


 いまや、健司の顔と体は、完全に、一五才のアイドル浅田ゆいそのものだった。以前と同じなのは、服装だけだ。


 健司は、康蔵のただならない様子に気がついた。

 健司は自分の両手を見てみた。

 きれいな、若い、女の手がそこにあった。

 健司は部屋の隅に立て掛けてある鏡に目をやった。


「あっ!」


 健司は声を上げた。すべての男の心を、やさしく撫でていくような、透き通った声だった。

 鏡の中には、健司もよく知っている、女性アイドルの姿が映っていた。そして、このアイドルは康蔵が好きな、浅田ゆいということもわかっていた。


 健司はすべてを理解した。


 康蔵は、健司を刺す瞬間、浅田ゆいの顔を思い浮かべたに違いなかった。

 そして、健司は浅田ゆいに変身した。

 ひとを刺し殺そうとするときに、好きなグラビアアイドルのことを考えているとは、なんてやつだ、と健司は思った。


「ゆいちゃん……」


 康蔵がつぶやき、健司に近づいてきた。

 先ほど、殺意を持って近づいてきた康蔵とは、明らかに違っていた。

 もっと、目がぎらぎらと獣のようになっている。



 健司は先ほどとは違う恐怖を感じた。



「ちょ、ちょっと待て、坂下!」

 健司は叫んだ。

 しかし、その叫び声は、一五才の女の子のものだ。

 康蔵は、その声にますます興奮した。


「か、かわいい……」


 康蔵は薄笑いを浮かべて、健司に近づいてくる。


 健司は後じさりながら、

「お、落ち着け、坂下! おれは、外見は変化したかもしれないが、これは、さっきおまえが刺した短刀の力なんだ。あれは虹化粧といって、刺したものが自分のイメージ通りに変わる短刀で……」

 必死に説明した。

 しかし、康蔵にはまったく聞こえていないようだった。

「ゆ、ゆいちゃん……」

 康蔵は、口の端からよだれを垂らさんばかりに顔を歪めながら、健司に近づいていく。

「ま、待て、待ってくれ……」

 健司は、尻をついたまま後じさる。

「ゆいちゃんっ!」

 叫びながら、康蔵が健司に抱き着いた。


「う、うわあ!」


 健司が絶叫した。


「ゆゆ、ゆいちゃん、ゆいちゃん!」


 康蔵は、健司にむしゃぶりついていった。康蔵は、健司の体をしっかりと抱き締め、唇を健司の首筋にぴったりと密着させていた。

「う、うわあ! やめろ、やめろ! 坂下! 正気に戻れ!」

 健司は必死に抵抗したが、力まで女になってしまっているため、康蔵の男の力の前では、まったくの無力と言ってよかった。

 健司は着ている上着を、康蔵に荒々しくむしり取られた。

「うわ、やめろ! 坂下、やめてくれ!」

 健司の訴えも空しく、康蔵はまったく力を緩めない。

 健司はTシャツと下着だけになっていた。

 服は健司のもののままなので、当然ブラジャーなどはつけていなかった。

 康蔵は、Tシャツの上から、健司の胸に顔をうずめた。


「ああー! いい匂いだ。いい匂いだよぉ、ゆいちゃん!」


 康蔵は恍惚の表情で、健司の胸で激しく息を吸い込んた。

「だ、だから、おれはゆいちゃんじゃないって! いいかげん正気に戻れって、坂下!」

 健司は叫び、なおも必死に康蔵を振り払おうとする。しかし、康蔵は健司の胸からまったく離れない。



「おお、おおお、おおおおおぉぅ……!」



 康蔵は、野獣のような雄叫びを上げ、健司の胸に顔をうずめたまま、両手で乳房を揉みしだいた。

「やや、やめろ、やめろって、坂下! やめてくれ!」

 健司は、声を限りに叫んだ。

 康蔵は健司のTシャツをまくり上げ、白くて若い胸をあらわにした。


「ひゃー!」


 康蔵は歓喜の叫びを上げ、べろべろべろべろと、狂ったように健司の乳房を舐め回した。

「や、やめろ、坂下! やめろ!」

 健司は叫んだ。しかし、健司の両手は、康蔵にしっかりと押さえ込まれているため、抵抗はできなかった。


 康蔵はすごい勢いで、健司の乳首を吸いはじめた。


「や、やめろ、あ……! さ、坂下、あっ……! や、やめろって、あん……!」

 健司は思わず感じてしまい、喘ぎ声を上げてしまった。


「うわ! き、気持ちわりい。変な声出しちまった」


 健司は自己嫌悪に陥ったが、なおも康蔵が執拗に乳首を舐めてくるので、

「あ、ああ……あ、あ……あ、あん……あ、あ、あああ……あん……!」

 本格的に喘いでしまった。



 小一時間ほど、康蔵が乳首を舐めていたので、健司は完全に気持ちよくなってしまい、全身がぐったりして、抵抗する気力が失せてしまった。



 康蔵はなおも、健司の身体を、舌と両手を使い、愛撫していった。


 健司は全裸にされていた。


 一五才の若く、美しい女の裸体が、薄暗い部屋に、まぶしいまでに白かった。


 康蔵は女の手指の先から、足のつま先まで、丁寧に舐めていった。


 夢にまで見てあこがれていたアイドルの裸だった。康蔵はいつまで舐めていても飽きることがなかった。

 しかし、康蔵はじらすように、女の性器だけには決して触れることはなかった。

 康蔵は女性器以外の部分を、執拗に舐め続けた。


 康蔵の舌が、何度も女性器に近づいては離れ、離れてはまた近づく。


 康蔵は、女の体の攻め方を、よく心得ているようだった。

 もう、健司はぐったりと脱力したように動かなかった。いや、動けなかった。


 康蔵の舌が、女性器のまわりを、ゆっくりと這っていた。


 健司の体は、性器まで、完璧に女のものになっていた。


 陰毛の薄い、きれいな性器だった。


 恥丘も若く、盛り上がっている。


 康蔵の舌が、クリトリスをとらえた。

 舌の平を使い、康蔵は上下左右に、小刻みに、素早く、舌を振動させながら、クリトリスを舐めた。



「あああああ……!」



 健司の口から絶叫が上がった。

 健司はもはや、自分の理性をコントロールすることができなかった。


「あああっ……あ……!」


 健司は女の体になって、初めての絶頂を迎えた。


 健司は全身を小さく痙攣させながら、

「はあ、はあ、はあ……」

 と、荒い息を吐いていた。

 康蔵は、猛り立った自分のモノを、健司の女性器の入り口にあてがった。


 康蔵がゆっくりと、健司の中に入ってきた。


「い、いてえっ!」


 健司が目を見開き、絶叫した。

 どうやら、健司は処女のようだった。変身して、まだ、だれにも貫通されてないので、当然と言えば当然だった。

 康蔵が進入する度に、耐え難い激痛が、健司の股間を直撃した。男だったときに、野球のボールが当たったのとは、また違う痛みだった。男のときは内側にめり込むような痛みだったが、いまは外側に引き裂かれるような痛みだった。

「い、いてえ! やめろ、坂下! やめろ!」

 健司は叫び、康蔵の頭を両手で、ばしばし、と叩いた。

 しかし、康蔵はすでに興奮がピークに達しているのか、まるで痛みなど感じていないようだった。


 康蔵が激しく腰を振り出した。


「い、いてぇんだって! 坂下! やめろ、やめてくれ!」


 健司は必死に叫んだ。

 康蔵はそんな健司の声にはかまわず、


「はふっ、はふっ、はふっ……」


 と、餓えた獣のような激しい息づかいとともに、いまや、めちゃめちゃに腰を振りまくっていた。


 健司はじっと目を閉じ、痛みをこらえながら、康蔵がはやく終わってくれるのを、ひたすら待った。



「あああああぁぁぁ……!」



 と、ひときわ大きな声とともに、康蔵が果てた。


 康蔵は健司の中に、したたか射精したようだった。


 康蔵がぐったりと、健司の上に乗りかかってきた。

「はあはあはあ……かわいかったよ、ゆいちゃん……」

 康蔵は健司の耳もとで囁き、健司の頬にキスをした。

「や、やめろ、気持ち悪い!」

 健司は叫び、そこで初めて康蔵を、自分の体から払いのけた。

 康蔵は、健司の隣に、ばたりと身を投げ出した。

 康蔵と健司は、精も根も尽き果てたように、荒い息をしながら、その場に横たわっていた。


         7


 康蔵は、健司の体を奪ったあと、すぐに短刀を手にして、起き上がった。

「この短刀はおれがもらっとくよ」

 と、康蔵が言ったので、

「なに?」

 健司は驚いて身を起こした。

 白い乳房を隠すことも忘れていた。

「その短刀はおれの物だぞ」

 健司は、康蔵に言った。

「思った通りに体を変えられる短刀なんて、こんなおもしろい物を、春日井だけの物にしておくなんて、不公平じゃないか」

 康蔵は言い、にやりと笑った。康蔵は虹化粧の力を理解しているようだった。

「不公平もくそも、それはもともとおれのもんだろ!」

 と叫び、健司は康蔵に飛びかかった。

「おっと、これは渡せないね」

 康蔵は言いながら、短刀を取り返そうとする健司を、ひらりとかわした。


 健司はぱたりと、床に倒れ込んだ。


 康蔵を見上げながら健司は、康蔵から短刀を奪うのは無理だろう、と思った。体が女になっている以上は無理だろう、と思った。康蔵とは力の差がありすぎた。

「坂下」

 健司が、康蔵に声を掛けた。

「ん?」

 康蔵は服を着ながら、健司に言った。虹化粧は口にくわえている。

「短刀は、じゃあ、お前にやるから、せめておれの体を元に戻してくれよ」

 健司が、懇願するような口調で言った。

「いやだね」

 康蔵はすぐに答えた。

「なんでだよ!」

「おまえの体を元に戻したら、おまえはこの短刀を取り返そうとするだろう」

「そんなことはないよ。それはおまえにやると言ったじゃないか」

 健司は無理な笑顔をつくった。

「信用できないね。おまえをその体にしておけば、おれから短刀を奪うことはできないからな。おれにとっちゃ都合がいいんだよ」

「おまえに都合がよくても、おれはよくないんだよ!」

 健司は怒りに声を震わせ、

「これから、ずっと、おれをこの体のままにしとこうってのかよ!」

「いいじゃないか。浅田ゆいなんていう、かわいいアイドルになれたんだ。おまえだってラッキーじゃないか」

 康蔵はのんきに言うと、ははは、と笑った。

「ふざけるな。元に戻せ!」

 健司は、康蔵に飛びかかった。

 康蔵は、いとも簡単に健司を押さえつけ、

「怒った顏もかわいいよ、ゆいちゃん」

 健司の両腕をつかんだまま、健司の耳もとに口を寄せて囁くと、

「ちゅっ」

 と、健司の頬にキスをした。

「うわ!」

 健司は反射的に顔を反らした。

 康蔵は、外見が浅田ゆいに変身した健司を、完全に女として見ているようだ。

「はあ……」

 健司はため息を洩らした。

 健司はとりあえず、服を着ることにした。

 康蔵に剥ぎ取られて、散らかされた衣服を集めて着るのは、健司にとってかなりの屈辱だった。


「じゃあな」

 康蔵が言った。

「え?」

 健司は服をつけながら、康蔵を見上げた。

「おれは行くよ」

 康蔵はかすかに笑みを浮かべ、

「一日だけだったけど、世話になったな。おれは出て行くよ」

 康蔵が背を向けた。

「ちょっ、ちょっと待てよ。どこに行くんだよ!」

 健司があわてて言う。

「寝首をかかられちゃ、たまらないからな。おれは別のところに泊まることにするよ。まあ、たまには会いにくるからさ、ゆいちゃんにね」

 康蔵は言い置き、部屋を出て行った。

「ちょっと待てよ! この体、元に戻していけよ!」

 健司の声も、まったく届いていないかのように、康蔵は無言で玄関を出ると、夜の中へ消えて行った。


         8


 翌朝になっても、康蔵は健司の部屋には帰ってこなかった。

「このまま、坂下が戻らないと、おれは一生、女の体で生きていかなきゃならないじゃないか」

 健司は部屋の中で頭を抱え、絶望的につぶやいた。

「なんとしても、元の体に戻らないと」

 健司は決意した。

「なにがなんでも、坂下を探し出して、虹化粧を取り返してやる!」


         9


 健司は、一週間、康蔵の行方を捜しまわった。


 しかし、康蔵を見つけ出すことはできなかった。


 一ヶ月経っても、健司は康蔵を見つけ出せずにいた。

 健司は浅田ゆいの姿のまま、一ヶ月を過ごしたことになる。

 しかし、健司のことを浅田ゆいと気づいた人間はいなかった。

 浅田ゆいは、グラビアアイドルと言っても、それほどメジャーではないので、街を歩いていても、それと気づかれずに済んだようだ。


 康蔵も見つからず、元の体に戻ることもできず、自分の部屋でひとり悩んでいた健司だったが、

「ひとりで考えていても、ますます泥沼にはまり込んでいくだけだ!」

 と、思い、

「誰かに相談しよう」

 健司は決心した。

 しかし、健司にはあまり友人が多くなかった。こんな複雑な問題を相談する友人となると、さらに少なくなった。

「困ったな……」

 健司は腕を組んで考え込んだ。

 女になってしまったからには、女に相談したほうがいいのだろうか。いや、こういった非現実的なことは、女より男のほうがいいだろう。具体的な解決策を出してくれそうな、頭のいい男はいないだろうか。

 健司は必死に考えた。


「思い当たらない……」

 健司はがっくりと肩を落とした。自分の交友関係の狭さに、自分で驚いた健司だった。

「こんなことなら、学生時代にもっと友達作っとくんだった」

 いまさら後悔しても遅い健司だった。

 健司の実家は、鹿児島なので、簡単に家族に会いに行く、というわけにもいかなかった。声が完全に変わっているので、電話ではまず、信用されないだろう。

「家族に相談することもできないか……」

 健司はため息をつき、

「しょうがない」

 元気なくつぶやくと、

「出かけよう。気晴らしに」

 健司はとぼとぼと外に出た。


         10



 外はいい天気だった。


 だが、健司の気分は晴れなかった。体が女になっただけで、こんなに気分が落ち込むとは思ってもみなかった。自分ではどうにもできない問題のため、余計にフラストレーションがたまった。

「坂下のやろう、どこ行ったのかなあ」

 健司は吐き捨てるように言い、イライラとした気分で歩いた。


 川のほとりを歩いていると、向こう岸に、見覚えのある人影を発見して、健司は、


「あっ!」


 思わず声を上げた。

 向こう岸に、老人がひとり歩いている。

 健司に虹化粧をくれた、あの老人だ。

 健司は、急いで橋を渡り、老人に追いついた。

「おじさん!」

 健司は老人に声を掛けた。

 老人が振り向いた。

「僕です。おじさんから、虹化粧をもらった者です」

 健司が言うと、

「おお!」

 老人は笑顔になり、

「でも、どうして女の子になっているんだ?」

 健司にきいた。


 健司は老人に、いままでの経緯を、事細かに説明した。


「なに!」


 老人の顔色が変わり、

「きみは、友達に虹化粧を盗まれたのか?」

「え、ええ……」

 健司は答えた。老人の勢いに圧倒されそうだ。

「それはまずいな……」

 老人は顎に手を当てて、考え込んだ。

「はあ……」

 健司はわけもわからず、老人の顔を見つめている。


 老人はしばらく沈黙したあと、


「虹化粧はな、持ち主が、このひと、と見込んだ人間以外は、使ってはいけないんだよ。それ以外の人間が使うと、虹化粧はただの短刀になってしまうんだ」


「えっ!」

 健司は驚き、

「で、でも、おれがいま、こんな女の子の姿になっているのは、坂下がおれに虹化粧を使ったからですよ」

「それは、刺されたのがきみだから、問題ないのだよ。その坂下という彼が、自分の体なり、きみ以外のだれかに、虹化粧を使ったら、虹化粧はただの短刀になるだろうね」

 と言う老人に、健司は返す言葉がなかった。


 健司は呆然と、その場に立ちすくんでいた。


         11



 首に短刀を突き刺した、坂下康蔵の死体が見つかったのは、その翌日だった。














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