アイラ、リディアの友となる1
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昨夜は興味深い経験と情動が多かった故、忘れぬよう竹簡に書いて残そうと思いついたのはいいとして……少々量が多い。夕餉の後にも書かなければならぬな。
「バルカ様。アイラ・ガン様がお一人でお越しです」
「……何? ―――分かった。直ぐに通せ。最も良い茶と菓子を用意しろ」
珍しい。アイラは何かを恐れるかの如く滅多に我が君から離れないのに。ま、何を恐れているかは予想出来るが。
しかし要件は何だ。昨夜関係なのは間違い無いとして、それ以上は分からん。……もしやダン様の使者か。
来た。下僕は……宜しい。獣人相手でも礼を払っている。
「リディア、話があるの。今いい?」
「座ってくれアイラ。ああ、お前は茶を置いて下がれ。呼ぶまで誰も近づけるな。―――で、話とは?」
「……どうしてダンの子を産もうと思ったの?」
「あの場でも言ったが私は当主となった。出来るだけ早く子が欲しい。この機を逃せば次は何時になるか分からないだろう?」
「……うん。貴族なら後継ぎが居ないとね。でもそれ一番の理由じゃないでしょ? リディアならダン以外にも候補は考えてたはずだし」
「―――。実は幼きころより好意を抱いてはいてな。そして此度やっと思いを遂げられたという訳だ。あのような方ゆえ難儀した」
「そうなんだ。何かリディアとダンって似ててお似合いだと思う。でも……やっぱり一番じゃない。どうして誤魔化すの?」
「誤魔化すと言われても至極ありふれた話だろうに。なら逆に尋ねよう。アイラは何が一番の理由だと考えている?」
「……怖かったから。ダンが。衝動に突き動かされるくらい」
―――これだからアイラは侮れん。いや……彼女なら分かって当然か。
「分かっているのに尋ねないでくれ。私が間抜けではないか」
「だって、誤魔化すなんて思わなかった。怖いから、ダンの子供を産んで油断させようと思ったの?」
相変わらず直接的な人だ。だからこそダン様も共に住もうと思ったのであろう。今はもう少し言葉を選んで欲しいが。
「せめてダン様にとって大事な者となりたくて。とでも表現してくれ。して、この質問が本題か?」
「ううん。リディアは友だから、迷ったけど忠告しようと思って。……子供を産んだらダンが何かしても許してくれるとか、もっと……油断させて弱みを握ったり勝とうと思ってるなら止めた方が良い。リディアでも勝てないよ。死ぬだけ」
! 閨で何か失言をしたか。どのような謝罪なら怒りを和らげられる? 無様に犬のように……いや待て。このような言葉を頂けるならまだ確認出来る程度の余裕はある。
「―――私にそのような考えがあると、何故思う?」
「? リディアの考えは分からないよ。だから念のために言っておかないとって」
「……待ってくれ。アイラはダン様の意を伝えに来たのでは? ……念のため? ならアイラ自身も、私にそのような意があると確信してる訳ではない?」
「あ……ごめん。違うよ。僕が来たいと思ったから来ただけ。ダンは此処に居るのも知らない。今夕食を作ってくれてるんじゃないかな。……驚かせてごめん」
「いや、私の勝手な思い込みだった。謝罪はいい。……心の臓が止まったかとさえ感じた故、次は言い方に気を付けて欲しいとは思うが。それより参考とする為教えてくれ。どうして勝てないと?」
「どうしてって……リディアは、ダンがテリカたちを殺そうと決めたのは何時だと思う? それとも君にはダンも話してたの?」
「―――。何もお伝えくださってはいないさ。さて、それを問うならば誓ってくれ。今からの話カルマたちは勿論、君の友フィオもダン様にさえ一言たりとも漏らさぬと」
「最初からそのつもり」
「なら答えよう。グローサが来て受け入れを願った時だ。あの者が話している最中から、どうやって殺すかを考えていたのではとさえ考えている」
「やっぱり。じゃあ、あの時僕とリディアも騙してたんだね。全部テリカたちを油断させる為に」
「騙してたは甘え過ぎであろう。我々が及ばなかったと考えた方がよい。その言いようだと、アイラも何も言われて無かったのか? あの場で最も重要だった君には話していたと思っていたのだが」
「……朝、『もしも自分が議場に出て来たら背中を守って欲しい』というのと『カルマの命令と違う事をお願いしたら聞いてくれますか?』とだけ。ダンは主君なんだから当然従うって答えたよ。その後を考えるとあの言い方じゃ余り信用してくれてなかったみたいだよね……」
もしも、か。あの人らしい。アイラがカルマらに明確に伝える可能性を少しでも減らしたかったと見える。
「アイラなら態度に出ると思われたのではないかな? それでグローサが来た時から決めてたのなら?」
「ダンは……僕らが考えるような信頼を誰にも持たずに、あのテリカたちを皆殺しにしたって事になる。テリカたちは強かった。レイブンと同じくらいのも居たし、全員を相手にしたら僕だって逃げるしか無かったと思う。戦場でどうにかしようとしたらもっと厄介だろうね。それに頭の良い人もいっぱいいたんでしょ? テリカ自体虎の娘だって聞いた通りだとあの時見て感じた。それが名前さえ知らない相手の所為で、一瞬後には戦う事も出来ずに全員網の下なんて。僕を配下にした時もそうだったけど、ダンが殺すと決めた相手は、死ぬのが決まらないと殺意を向けられてる事さえ分からないんだ。僕は怖くて震えたよ。周りに知られないよう抑えるのに必死な位に。それにあの時、カルマが文にどう応えるか決めるまで部屋から出て来なかったのはなんでだと思う?」
「逃げる為だ。カルマの出方と我等の反応次第で即レスターから姿を消すつもりだったのではないかな。他の領地で倉庫番からやり直すのを、全く苦にしない等カルマたちには想像も出来まいが」
「うん……。ケイ人は皆誇りと立場を大事にするもんね。出て来た後もダンは縄で手足を縛られたテリカたちにさえ決して近づかなかった。用心深いなんてもんじゃない。ダンと戦って勝てる人間なんて居るの? しかも議場に帰った時、テリカたちは諦めてた。どうやったら死ぬ寸前まで噛みつきそうだったテリカを諦めさせられるのかも僕には分からない。リディアは分かる?」
「分からぬ。私ならあそこまで観念させたならば、カルマとの関係もあるし配下とするのも考えた。が、庶人が蚊を叩き潰すのと同じ程度にしかお悩みで無かった。裏切りを恐れたか、私には読めない理由があるのかは知らぬが。
なぁアイラ、笛が鳴り網がテリカらに飛んだ時、蜂が群がるように見えなかったか? そして出てきたダン様は、網にかかった虫の前に現れる蜘蛛に。虎を虫にするなどあの方以外に出来ようか。始末の仕方も虎を殺したのに毛皮たる配下さえ残さず、正に虫を叩き潰すが如くだ。しかもカルマにへりくだってみせたあの態度。本意を欠片さえお見せにならなかった。我が君の素晴らしき事、月の無い夜空の如しよ。
私は体の芯まで凍るような恐怖と、我が目の確かさを、この人が己で見つけた主君である事を大声で誇りたいという興奮によって、表面を取り繕うのさえ困難であった。部屋を出た後にやっと自分の下着が濡れてると知り、気付かぬうちに粗相をしたのかとさえ一瞬思った程。そしてそのような方が居ると天下で知るは我等二人のみ。どうだアイラ。笑えてくるであろう?」
「笑えないよ……。カルマとグレースはダンがした事の半分さえ分かって無いんだよ? リディアとダンが自分たちの立場を弱くする奴らを排除しようとしたとか、もしくは草原族の邪魔になりそうなテリカを殺して恩を売ろうとしたのかもなんて思ってる。ジンがダンに従ったのもテリカを邪魔だと思ったのと、僕が居たからだって」
「それも間違いではなかろう。アイラがテリカたちを殺そうとしたら止めるのは不可能だった。ダン様がジンへ自分がカルマの動きに口を出せるのは、アイラを配下としてるからだと伝えたなら、ジンに事の真偽は判断出来ぬ。……アイラ? どうしたのだその表情は。何か間違ったか?」
「……ううん。何でもない。気にしないで」
ふむ。聞いても答えそうにない。そしてこの態度なら……。
さてどうすべきか。人に話せばどうあっても秘密が漏れる可能性は高まる。
しかし……昨日の出来事でアイラはダン様の信頼を更に勝ち得た。常に一緒に居るアイラは私にとって最後の頼みの綱となり得る。
それでも良策とは言えぬが……。
「アイラ、こう考えてるのであろう? ダン様はジンに要請出来る。或いはもっと強い強制力さえ持ってるのかもしれないと。草原族の者はダン様を愚弄している。しかしジンに対してだけは力を持っておられるはずだ」
「ああ……凄いよリディア。どうして分かったの?」
「カルマらは詳細を知らぬ故分かる道理は無い。しかしあの人がかつて草原族の作った茶を売るのを助けたのはバルカ家だ。あの時茶の売買で得た金銭は食料で数万人が数か月食えるほどの物。今だから言えるが身の丈を超える金を得たオウランは、周りからの嫉妬により滅ぶかもとさえ考えていた。それを対処出来る賢さを持つオウランなら、自分たちでは決して繋がりを持てないケイの貴族と繋げてくれたダン様を大事にするはず。他所から来たテリカを殺す手伝い程度なら要請出来よう。今トークで獣人が暮らせている最大の理由であるカルマの意思を大きく反するは無理でも、あの程度なら何とかなる」
あの程度と言っても、獣人と我等の戦いの歴史は長く簡単には信用されぬ。諸侯ではなく個人でとなると正に驚くべき話。
茶だけでは少々難しいようにさえ思える。アイラへと同じく、獣人に対して全く拘りを見せない態度が信頼に結びついた。と言ったところだろうか。
「……それ全部推測だよね? リディアは酒の席でもジンとは挨拶くらいしかしないもん。ジンに直接聞かないの? カルマたちはダンをどう思うか聞いたりしてたのに。ほら……敵を知り、己を知ればって言うんでしょ? 後は虎穴に入らずん……何とかとか」
「ふん。言ったのはフィオか? そんな真似をすればダン様を探る事になるではないか。私は誓った。ダン様を探らぬと。―――いいや。例え誓わずとも探らぬ。恐ろしいからな。アイラもオレステとウバルトに勝った後の宴を覚えているだろう? あの時酒の席で私たちが少し話を漏らしただけで、あの方は一瞬我を忘れてお怒りであった。あの方があそこまで怒るのは見た事がない。あの怒りを買うなど私は御免だ。
大体虎穴に虎の子が居ると誰が保証してくれる? 加えて虎の子を手に入れようと虎に勝てるのか? 私はその言葉は好かぬ。あの言葉によって分を弁えず蛮勇を振り起し、無様に死んだ愚か者は河の砂利よりも多いに決まってるのだ。私は探らぬ。知ろうとして敵であると見なされるは、知らぬより幾十倍も危うい」
「ああ―――リディアは本当に賢いね。でもカルマたちは……知ってるでしょ? ダンを探ってる。しかも一番探ってるのはフィオなんだ。そりゃダンは何も見せないから甘く見ても仕方ないけど、だからって……。僕心配で、怖くて仕方ない。何時かダンが僕にも分からない内にカルマたちをどうするか決めてしまったら。せめてフィオだけでも……。彼女は僕の最初の友なんだよ。孤独だった時、フィオだけが親しくしてくれたから。リディア、何か知恵は無い?」
「無茶を言う。第一カルマらは勿論フィオもこの乱世を生きる群雄の一人。己が天命は己で決めよう。私ならフィオとの縁を切り、事あらば己が首を取るとダン様に……。そんな顔をせずとも分かっている。しかし大変な難題だぞ。しかもフィオ・ウダイ。彼女のような直情的な人間をダン様は御嫌い、いや危険視しておられるしな。まぁ、分が悪い物でいいなら案はある」
「どんなの? 何でもいい。教えて」
「もしもの時に備えてアイラが一層の忠義を尽くせ。そうしたアイラが望めばダン様が許して下さる可能性はある。どうもあの方の底には優しい物もあるようだ。もっともお決めになられたなら、万に一つの危険性さえ無くさぬとその可能性も現れぬだろうが」
「―――優しいのは知ってるよ。でも、それで判断を変えるとは思えないんだけど……何かあった?」
「昨日のダン様を見てだよ。あの方はな、よくもまぁ其処までと思うほどに気を回す人だった。最初から最後、いやその後までそれはもう親切懇切丁寧。まるで私が世に一つしかない宝物であるかの如く。事の前に夫を持つ者に色々と聞いたが、どんな夫よりも優しかった。事が終わった後、自ら湯を取りに行って清めてくださった折など笑いを耐えるのに必死であったぞ。閨では相手をより深く知れるという噂は真だ。出来ればもう一つの噂、男は寝た女を自分の物だと思うというのも真であったなら有り難かったが……あちらは偽だろう。相手が悪いだけかもしれぬが」
そして不思議な点が一つ。ダン様は初めての経験だと言ったのに、指南書より遥かに多くの手管をご存知だった。
貴族の男が見る指南書も女の物と大して変わらないし、あそこまで多様な気の使い方は書かれてない。
それでいて行為自体は慣れてない風でもあった。奇妙な話だ。
「ただ本当のお名前は教えて下さらなかったがな。どうあってもつれない方だ」
「あ、ダンって偽名なんだ。……本人が言ったの?」
「言う訳なかろう。昔あの方が出した文にライルという名前が書いてあったのだよ。そして今はダン。何ともあの方らしい。ああ、調べたのではない。目に入っただけ。誤解の無いよう頼む」
「両方トークの官邸だけで何人も居る名前……。もう本当、凄いと言うからしいというか」
「うむ。所でアイラ、最初に言った子を成そうとも何かした場合許して頂けぬと言ったが、そう思った理由はあるのか?」