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金色の眸に映る世界 作者:秋保千代子
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三日目(1) 救えない娘

 爪を操る男は今、比陽ひようを襲ってこない。りんに話しかけてきた背の低い男もまた、離れていった。二人とも突如やってきた別の二人組に気持ちが向いているようだ。
 よって、逃げるなら今。

「起きて、比陽」

 肩を強く揺すると、瞼が持ち上がり、ぼんやりと金色の眸が見えた。

「しっかりして。逃げるのでしょう?」

 まっすぐに見つめ、強く言い切る。すると、一気に眸の輝きが増した。

「そうだった」

 背中を擦りつつ、彼は立ち上がる。
 また少しボロボロに汚れた服を見下ろしてから。
 ニッと笑って差し出された手をもう一度取り、田の中を突っ切り始める。


 駆けられるだけ駆けて、田園も丘も抜けて。月明りがまともに届かない森の中でようやく足を止めて、木のほらに潜って眠り。


 ぐう、と腹が鳴って目が開いた。
「お腹空いたぁ……」

 横で比陽も呟いたので、体を起こして、洞から顔を出した。
 空が高く澄んでいる。目の前で垂れた枝で揺れる白い花は、甘くかぐわしい。
 踏み出した足はじっとり濡れた土にゆっくりと沈んだ。

「木の実でも探しましょうか」
「そうだね。以前まえみたいに見つかるかなぁ」

 狭く立ち並ぶ木の幹に手をついて、次の一歩をまた泥に取られながら、進む。触れた皮の硬さも、見上げて見つめる花も葉も、知らないものが時折交じる。

「本当に遠くまで来たんだ。わたしが住んでいた山とは全然違う」
「そうなんだ」
「知らない木ばかりだから。ちゃんと食べられる物を見つける自信がないわ」

 うーん、と唸って一度足を止めた。
 ぐるりと見回す。濡れた土の上には足跡が残っている。それは自分たちのものだけでない。
 他にもこの森に入り糧を得ている人がいるのだろう、と思った矢先に、人影が木々の隙間を抜けていくのが見えた。
 曲がった背中で、脇に籠を抱えた男だ。

「大分街から離れているのにね。来る人がいるんだ」
「あの人達、ここにわざわざ、わたしたちと同じように木の実を探しに来ているの? 田んぼがあるのに、それだけでは食べる物が足りないのかしら」
「ね。俺から見ても沢山実っているって感じがしたのに」

 そう喋りながらまた進むと、もう一人、二人、さらにもっと人とすれ違う。性別のみならず、年の頃もてんでばらばら。
 やがて、森の端に出た。

 ここにはさらに人がいた。
 木の蔭に座り込んでいる人がいる。土の上を歩き回っている人がいる。
 だが、自分の育った村と比べると、明らかにおかしい。
 音が全く響いていないのだ。
 話し声も足音も、当然仕事の音など何もしない。
 見回せば、人の手が入っているものの気配も少ないと気づく。家も、柱と呼ぶのも躊躇ためらわれる細い木の枝の上に、大きな木の葉がおざなりにかけられているだけのもの。壁など無い。床も無い。むしろが敷いてあるのが贅沢に見えるほどの有様だ。
 無論、畑を耕すための鍬や、温かい食事のための鍋など見当たらない。

 二人顔を見合わせる。

 また、ぐう、と腹が鳴る。
 どすん、という衝撃も腰に受けた。
 はっとして振り返る。視線を落とす。すぐ後ろに、小さな体が転がっていた。小さな、痩せた、子どもだ。

「ごめんね、怪我はない?」

 がばっとしゃがんで、手を伸ばす。それをぱしっと叩いて、子どもは言った。
「大丈夫」
 のそりと立ち上がり、服に泥をつけたまま、歩き出す。それを慌てて追う。

「待って!」
「なんで?」

 立ち止り振り返った子どもは思いの外強い視線を持っていた。

「はやくおかあさんのところにもどらなきゃ」

 瞬く。凜は腰をかがめて、子どもをまじまじと見つめた。
 乾いた頬。萎んだ腕の中には乾いた枝と落ち葉を抱え込んでいる。服は裾が切れて、ところどころ穴が開いていた。
 ぎゅっと胸の奥を掴まれる。

「――お母さんと暮らしているの?」
「そうだよ」
「今、どうしているの?」
「ねんねしてる」
「そう――他の家族は?」

 にこっとして問うと、何度も何度も瞬かれたのちに、答えが返ってきた。

「おとうさんは、まえのおうちからいなくなった。おにいちゃんやおとうとも、いつのまにかいなくなってた」
「……うん」

 顔を伏せる。
 それで会話は終わったと思われたらしい。子どもはまた歩き出す。
 凜と比陽はもう一度顔を見合わせて、その背を追った。
 ぺた、ぺた、と足跡を残して進んだ先には、ここでは普通の形の『家』がある。後ろをついてきたのを気づいていたのかいないのか。

「ここはね。あめにぬれないいいおうちよ。ねえ、おかあさん」

 そう言って、子どもは葉の蔭に横たわる人の形をした塊に寄り添った。
 人の形をした、乾いているのか、ぐずぐずにふやけているのか、分からない、それ。ぶん、と音を立てて虫が飛んだ。
 手で口を押えて。

「君…… お母さんは」
 もう死んでいる。その一言を、吞み下す。

 凜と比陽が黙っている間に、子どもはするりとその人形の横に滑り落ちた。
「おなかすいたでしょ、おかあさん」
 ゆらゆらと、肩の辺りを叩いてゆする。
「おかあさん、おきて。たべましょう」
 片膝をついて、比陽もその子の肩を叩く。
「君、お母さんは……」
「おかあさんは、ねんね、してるの!」

 金切声。比陽はビクッと身を引いた。
 凜は唾を呑みこんで、それから同じように膝をついた。

「うん…… そうよね。だから、ゆっくり休ませてあげましょうよ」

 そっと顔を覗きこむ。削れた頬の上で、ぎょろりと、曇天の眸が動く。そこから目を動かさずに。

「あなたこそ。お腹空いてないの?」

 問うと、子どもは既に老いさらばえてしまった掌で 、丸く突き出た腹を撫でた。

「わかんない」
 眉が寄る。
「何か食べ物……」
 と視線を巡らせて、唇を噛んだ。


 何処に食べられる物があるというのか。


 ころん、と子どもが地面に転がる。ひたり、ひたり、滴が泥に吸い込まれていく。
 やがて、葉の屋根の下、人影は二つとも動かなくなった。
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