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日本各地の時代小説シリーズ

【再投稿前】秋月のまじない

作者: 友理 潤

 それは将軍も神君家康公から秀忠公へと代替わりし、いよいよ徳川の治世が盤石になろうかというその頃のこと。


 政治の中心である江戸の街から遠く離れた筑前国の秋月という地に、惣右衛門という初老に差し掛かった男が静かに余生を過ごしていた。そして彼は、この日もとある石の前に立って静かに祈りを捧げていたのである。


 拝むというのではなく、祈るとしたのは、彼が敬虔なクリスチャンであったからだ。しかし、どんな信仰を持っていたとしても、石の前に立てば思わず手を合わせてしまう。


 そんな不思議な力を石からは感じられた。


 そして、石に手を合わせた誰もが、由来する二人の侍の事を思わざるを得ないのは、秋月の地に住む者たちにとっては、もはや生活の一部と言えよう。

 その意味において惣右衛門などは、新参者と言えなくもないが、彼とて例外ではなかったのであった。


 そんな惣右衛門の横顔に、近くの山から下りてきた秋風が優しく触れて過ぎ去っていく。

 

 それを合図にと、彼は顔を上げてその山の方へと目を向けた。

 霊峰と呼ばれている古処山。

 かつて難攻不落とうたわれた城が立っていたのだが、今は見る影もなくうっそうと木々に覆われている。

 ここらが紅葉の名所とうたわれているように、山のあちらこちらが燃えるような赤に染まっているのが目に入ると、惣右衛門の胸の内は心なしか踊るようであった。

 

「そろそろ…かのう…」


 そう彼は誰ともなしに呟いた。気付けば辺りは橙色に染まりだしている。彼は暗くなるその前に自分の屋敷に戻ることにした。


 ここらは古くから「筑前の小京都」と呼ばれるほどに栄えた町。それでも遠い京の地に比べれば、自然も豊かでのどかな街並みが続いている。

 春になれば桜が咲き誇り、秋になれば紅葉に燃える… そんな風光明媚な景色と、人々の営みが絶妙に織り成す光景は、この地ならではのものと言えるかもしれない。

 その地をかみしめるようにして惣右衛門は歩いていた。

 

 そんな時だった。

 

 ふと、彼の横を何かが通り過ぎたのである。

 

 彼は不思議に思い、通り過ぎたものが何であったか目をこらすが、何もなければ、誰もそこにはいない。

 

「はて… 気のせいであろうか」


 と彼はつぶやいた。辺りは徐々に暗くなり、陽を失った風は彼の体を冷たくする。冬の訪れすら感じさせる空気に、ぶるっと身震いした惣右衛門は、もう一度帰り路を急ぐことにした。しかしそんな彼の横をまた別の何かが通り過ぎたのである。その時彼の耳にははっきりと「お待ちくだされ!」という声が聞こえたのだ。

 

 こうなるともはや気のせいではすまされない。彼はつられるようにしてその何かが通り過ぎたその方角に向かって駆け出した。それが何なのかは未だに分からず、それを知ったところで何があるわけでもないのも分かっている。それでも彼は、ある種の使命感のようなものにかられて、二つの何かを追いかけていった。

 そしてついにその二つの気配が消えたその場所までたどり着いた。

 そこは彼が毎日手を合わせる、大きな石のある場所。

 そして、この場合「消えた」という表現は正しくない。なぜならその二つの気配は未だにそこにただずんでいるのだから。それでも彼がそう思えたのは、それが彼の目の前ではなく、彼の手が届かぬ前方の上空にふわふわと浮かんでいたからである。

 惣右衛門は、この時点でこの二つの気配がなんであるかについて、鋭く勘を働かせていた。

 そして、上がった息を整えながら、彼はゆっくりと目を閉じる。もはや目で何かを見ることは、全くの無意味であることを十分に理解しているからであり、この二つの気配について、少しの間だけでも想いを馳せることにしたのだった。

 

 

………

……

――負けるな! 這い上がれ!


 ふと頭上から少年特有の高い声が響いてきた。その方に視線を向けると、そこにはよく日に焼けた少年の笑顔。彼は大きな石の上から懸命に下へその小さな手を伸ばしている。どうやら少年が乗っているその石は、惣右衛門が毎日手を合わせるあの石のようだ。その石が今彼が見ているこの景色では、小高い岩山の上にある。小高いと言っても大人が少し手を伸ばせば届いてしまうくらいのものだが、今石の上にいる少年にとっては、さながらそびえ立つ壁のようなものであったであろう。

 その岩山を正面にして、惣右衛門は立っていた。彼はふと周囲を見回す。目に入ってきた景色はどれも見慣れたものであり、どうやらそこは秋月の地には間違いないようだ。しかし、辺りは暗くなっていたはずなのに、太陽は空高くにあり、その陽射しも秋の柔らかさはなく、真夏特有の刺すような厳しいものだ。この事から彼は追いかけてきた二つの気配の遠い記憶の中に入り込んだことを直感したのである。

 

 そこに「うう…」という半べその声が聞こえてきた。惣右衛門はその方に目をやると、なんと石の上にいる少年よりも一回り体の小さな別の少年が、懸命にその岩山に挑んでいるではないか。

 とてもじゃないが一人で登り切ることは無理だとしか思えない。

 危なっかしくて見ていられぬと思った惣右衛門は、思わずその手を伸ばそうとするが、彼はその手を伸ばすどころか、動くことすらかなわなかった。どうやらこの景色の中の一部として、彼は今ここに存在しているようだ。

 惣右衛門は「むむむ…これは参ったのう」と、もどかしそうに唇をかみしめるその間にも、少年は苦しさのあまりに涙を流しながら岩山に挑み続けている。

 手は痺れ、力を込める為に止めていた息は行き場を失って、胸の内が破裂しそうなほどに苦しいに違いない。それでも彼は諦めることなく震える手を伸ばし続けた。

 

――負けるな! 這い上がれ!!


 その言葉こそ、少年が自分に唱え続けたまじない。それは幼い彼が、事あるごとに秋月の地の大人たちから聞かされていた言葉なのだろう。それを口にすることで、少年は誰にも負けない力が沸き上がるような錯覚に陥っていたのかもしれない。現に少年の小さな左手からは、つかんだ石を意地でも離さない固い意志を感じられた。

 

 そして…

 

――うあぁぁぁぁぁぁ!!!


 という腹の底から湧き出た叫び声とともに、石の上にいる少年の右手に向けて、左手を目いっぱいに伸ばした。

 

――ガシッ…!


 力強く握られた二人の少年の手。

 とたんに石の上にいる少年の体に二人分の体重がのしかかると、思わず全身が投げ出されそうになる。それをどうにかして抑えると、全身全霊の力を込めて少年を引きずり上げたのであった。

 

――はぁはぁ…


 しばらく息が上がって呼吸すらままならない二人の少年は、その石の上で大の字になって寝転がっていた。

 

 そして…

 

――ふ…ふははははっ!!


 と体の大きな方の少年が大笑いを始めると、小さい少年もまた

 

――ははははは!!


 と、先ほどの半べそなどどこかに吹き飛ばして大声で笑った。

 

――どうだ!? 俺たちに出来ぬことなどないっ!! 何だって成し遂げてみせるさ! はははっ!

 

――はいっ! どこまでもお供いたします! ははは!


 二人は、同じ『夢』を見て、瞳をきらきらと輝かせていた。その夢は決して「天下統一」だとか「上洛」などといった大それたものではない。

 ただ単に「壁があれば乗り越えてみせる!」という、これから先に訪れるであろう見えぬ障害に向かっての決意に他ならなかった。

 

 この二人の少年について、惣右衛門はその正体に気付いていた。

 

 体の大きな少年は、時の秋月家の次男にして、後の秋月家当主、秋月種実(あきづきたねざね)

 そして小さな少年は、種実の側近にして親友でもある、恵利暢尭(えりのぶたか)

 

 この二人は家名から取った地名である秋月の地において、象徴ともいえる大きな石の上に立って、その景色を眺めている。しかし景色といってもなんのことはない。見えるのはいつも通りの秋月の街並みだけだ。それでも彼らは言葉にならぬ充実感にひたり、この先の未来に想いを馳せている。そして、その未来にどんな事があろうとも「負けるな! 這い上がれ!」このおまじないがあれば、乗り越えられる。この時はそう信じてやまなかったであろう、清らかな川面のように、陽射しを浴びてきらきらと光る二人を見て、そのように惣右衛門には思えてならなかったのであった。

 

 

………

……

 ふと、惣右衛門の目の前が真っ白になったかと思うと、すぐに元の景色、すなわち小高い岩山の上に大きな石が見えるその景色に戻った。


 しかしその周辺は先ほどまでの穏やかなものから一変している。馬はいななき、甲冑のこすれる音が辺りを不穏な空気に変えていたからであった。

 あまりに物騒な雰囲気に、眉をひそめた惣右衛門は、ふと周囲を見渡す。すると辺りをうめつくす兵たちの姿が目に入ってきた。そして彼らの背負った旗印を見て惣右衛門は、はっとした。

 

「あれは大友の旗印… となると…」


 彼は思うところがあり、ふと山の方に目を移す。するとそこには彼の予想の通りの光景が広がっていた。すなわち古処山に立つ城のあちこちから煙が上がっていたのだ。その様から今この秋月の地で何が起こっているのか、惣右衛門は全て理解した。

 

 それはこの地を治める秋月文種(あきづきふみたね)、つまり先ほどの少年、秋月種実の父の事を、九州で覇権を握らんとする大友宗麟が攻め立てたということだ。

 時にして弘治3年(1557年)。秋月種実がまだ十三の時のことである。

 その大友軍の総大将は、戸次鑑連(べっきあきつら)、すなわち後の立花道雪。その軍勢は実に二万の大軍。

 なお、この戸次鑑連(べっきあきつら)なる男は、『雷神』と呼ばれたほどの猛将で、そのあまりに強さに近隣の大名たちですら畏怖し、遠く離れた甲斐国においては、かの武田信玄がその強さに惚れこんでいたという逸話すら残されている程の人物だ。

 その『雷神』率いる大軍の勢いはすさまじく、秋月家は支城を次々と落とされていくと、ついには城下町はおろか古処山城の麓にある秋月家の屋敷、秋月館すらまたたく間に大友軍の進撃に占拠されてしまったのである。

 こうなると残りは難攻不落とうたわれた古処山城のみ…

 その古処山城ですら、もはや陥落寸前といった様子が、少し離れた場所に立つ惣右衛門の目にもはっきりと見てとれた。

 

 そしてしばらくすると、「ワァッ!!」という大喊声が秋月の地を震わせる。

 

 どうやら大友軍が城へ総攻撃をしかけたようだ。こうなれば、わずかな兵で守る古処山城が『雷神』の猛攻に耐えられるはずもない。


 そして惣右衛門は知っているのだ。


 もうこの頃には、既に秋月家の嫡男である秋月晴種あきづきはるたねは戦に敗れ、自刃してしまったことを。

 そして、間もなく当主である秋月文種も、城の陥落とともに命を落とすはずであることも。


 それはまさに秋月の悲劇。


 しかしそれを目の当たりにしながらも、城から遠く離れた場所にたたずむ惣右衛門は動くこともかなわず、ただ心の中で手を合わせて、戦で命を落としていった者たちの冥福を祈るより他なかったのであった。

 

 そんな中のことである。

 

 幾人かの大人たちが、それぞれ少年たちをかつぎながら必死の形相で惣右衛門のいる方へと駆けてくるのが目に入ってきたのだ。

 惣右衛門は、「ややっ!これは!?」と目を丸くしながらその様子を見ると、そのかつがれている少年に見覚えがあることに気付いた。

 それは当主と嫡男を失った秋月家にとっては、最後の希望の光となるべき人、秋月種実だったのである。

 この時種実は戦場に立つにはまだ早い。そんな彼のことを一部の家臣たちが機転を利かせて、城から見事に脱出させてきたのだった。


 しかし、そんな彼の瞳からは、悔しくて、情けなくて、自然と涙が溢れている。


 彼の胸の内には、優しかった父と、死んでいった兄の笑顔が浮かんでいるに違いない。


 見慣れた秋月の街並みが、涙にかすれた視界におぼろげに浮かんでは過ぎ去っていることだろう。

 

 そして…

 

 あの大きな石… 自分なら何でも出来ると『夢』を見たその石の前を通り過ぎるその時…

 

――ふわり…


 と、彼の口を塞いでいた布が取れた。


 その直後、種実は叫んだ。


 それはまさに魂を震わせるような大きな声で。

 

 

――負けるな! 這い上がれ!! 俺は必ずや秋月の地に戻ってみせる!!



 と――

 

 それは秋月家が壊滅したその瞬間の光景。

 

 当主と嫡男が死に、城は焼かれ、兵は斃された。


 これ以上にないほどに、秋月は大友軍によって、完膚なきまで叩きのめされたのだった。

 

 しかし、惣右衛門は知っている。

 

 それはいかに屈辱にまみれようとも、絶対に諦めることなく這い上がる筑前の不屈の魂を――

 

 

………

……

 再び目の前が一瞬だけ真っ白になった惣右衛門の耳に聞こえてきたのは、再び兵たちの喊声であった。

 戦の絶えぬ時代とはいえ、こうも戦ばかりが起こっていたのでは、おちおち寝てもいられんな、そう彼は秋月の街の人々に同情をおぼえながら、その兵たちを率いる若武者を目にした。

 しかしその瞬間、少しだけ気を暗くした惣右衛門の体の中に熱い血がたぎったかと思うと、まさに目が覚めるような電撃が彼の背中を走ったのである。

 

「ほう…ついにきたか…」


 知っていることとは言え、惣右衛門は思わずそうつぶやいた。


 惣右衛門にしてみれば、先に秋月の地が大友軍に蹂躙されてからは刹那的なものであったであろうが、この若武者にしてみれば、それは永遠にも思えるほどに長い時であったはすだ。

 

 なぜならそれは実に四年の歳月が経過していたのだから。

 

 その四年前に秋月の地が失ったその声が戻ってきたのである。

 

――なんとしても秋月を我が手に戻すのだ!! みなのもの!!!突撃!!



――ウォォォォォ!!!


 地響きのような雄たけびとともに、一斉に兵たちが古処山城へとなだれ込んでいった。

 

 そう…

 

 その大号令をかけた若武者こそ…

 

 秋月種実。

 

 全てを取り戻す為、そして憎き戸次鑑連を討ち果たす為…

 

 彼は地獄の底から這い上がってきたのであった――


――負けるな! 這い上がれ!! 城を奪うのだぁぁぁ!!


 獅子のような咆哮とともに秋月種実は、自ら陣頭に立って古処山城奪還へと突き進んでいく。

 

 一気に山城を駆け上っていくその様子は、まさに龍が天に昇っていく様そのもの。


 父と兄、それに多くの家族を討たれ、敗走の屈辱にまみれた四年。その間片時も忘れることのなかったまじないは…


ーー負けるな! 這い上がれ!!


 それだけを胸に、少年は身を寄せていた毛利元就のもとで必死に働き、そして学んできた。


 そしてこの日、養父と言っても過言ではない毛利元就より、兵三千を借り受け、故郷を奪還しようと戦神となって舞い降りたのであった。

 それは遠い昔の明…当時は漢王朝末期において、父孫堅を討たれて江東の国を追われた孫策が、兵を借り受けてその地に戻ってきたに似たもの。そしてその孫策の隣には常に周瑜という軍師がいたように、秋月種実の隣には恵利暢尭の姿があったのである。


 もちろんこの時はまだ十二歳の彼は、秋月家で重きを成す家柄であっても、兵を率いる将としての参戦はかなわなかった。それでも彼は、種実の側を離れずに従軍し、あれこれと彼の身の回りの世話に忙しく動いていたのであった。


 なぜなら彼もあの日から「負けるな! 這い上がれ!!」という言葉を胸に臥薪嘗胆の日々を送ってきたからだ。


 彼らの勢いは凄まじく、城を守る大友軍はなすすべもなく三の丸から二の丸、そして本丸へと後退を余儀なくされていく。

 それもそのはずだ。大友軍は、九州各地に軍勢を送り出していることで、この秋月の地には寡兵しか置くことがかなわなかったのだ。そこに予想外の襲撃。完全に虚をつかれた大友軍は難攻不落の古処山城に頼らざるを得ない。しかし、今無敵の進軍を続けているのは、この秋月の地を知り尽くした秋月種実。もはやこの時点で勝負は決したと言えよう。


――坂田越後(さかたえちご)!!本丸一番乗りぃ!!


 種実の重臣の一人からそう大声が上がると、「ワァッ!!」と周囲は秋月兵たちの大歓声に包まれた。


 種実の顔にも笑みがもれる。


 しかしそれもつかの間、彼はキュッと表情を引き締めると、大きな声で告げた。


――皆のもの!!勝ち鬨を上げよ!!


ーーエイッ!エイッ!


ーーオオオオオッ!!


 古処山を震わせるような声が秋月の美しい空にこだます。


 それはまるで天で優しく見守る種実の父や兄、それにこの地で犠牲となった全ての人々に捧げる鎮魂の叫びのようであった。

 

………

……

 帰るべき人が帰り、どこか晴れやかな秋月の地。その景色の一部となっている惣右衛門の目の前に、城で戦後処理に忙しくしているはずの新たな秋月家当主、秋月種実の姿があった。


 彼はまだ少年であった頃とは違い、ひょいひょいと岩山の上に跳ねるようにして登ると、その石の上で大の字になって空を眺めている。

 

 と、そこに大きな声がかけられた。

 

――やっぱりここでしたか! 殿!皆が探しております!早く城に戻られてくだされ!


 そんな彼の事を見つけたのは、やはり彼の事を知り尽くした恵利暢尭であった。彼は頭上を見上げながらそう声をかけると、空からひょこりと種実の顔が現れる。そして、種実は暢尭の顔を覗き込むと、屈託のない笑顔で答えた。その顔は年頃の少年そのもので、とても惣右衛門が遠目に見たの戦神の生き写しのような若武者と同一人物とは思えないものだ。

 

――よお、暢尭! お主もここまで登ってこい!


 そう声をかけられた暢尭の顔がさっと青ざめる。なぜなら彼は未だにこの岩山を一人で登り切る自信がないからだろう。その事に気付いてか種実は続けた。

 

――はははっ! 俺が手伝ってやるから登ってみよ! 負けるな! 這い上がれ!!


 種実がぐいっと身を乗り出して目いっぱいに手を伸ばす。暢尭はその手を見つめた。


 その手を目がけて、一歩また一歩と岩山を登り始めた暢尭。


 すぐに息が上がり、早くも手が震えている。


 いかにも危なっかしいのは、一昔前の光景とさして変わらない。それでも彼はその頭上に彼を包みこむくらいに大きな手が待っている事を知っており、その手のことを心から信頼しているのが、惣右衛門の目にも明らかだった。

 

 そして…

 

――負けるな! 這い上がれ!!


 その変わらぬまじないを二人して唱えている。このまじないこそが、彼の心と体を強くしていくのだ。

 

 そして暢尭は、どれほど手足を動かしたか分からなくなったそのうちに「ガシッ」と強く種実の手を握った。

 その瞬間に彼の体は強い力によって一気に岩山の頂上にある大きな石への上へと引き上げられたのであった。

 

――なあ、暢尭。 見てみろ! これが秋月の景色だ!


 まだ息が荒い暢尭に対して、種実は眼下に広がる景色に指を差してそう促す。

 暢尭はその指につられるようにしてその方へ目線を向けた。

 

 眼下の景色を臨む二人。

 

 その目には、見慣れた景色が鮮やかに映っていることだろう。

 

 透き通った清流の野鳥川。その川岸に積まれた石垣。そしてそこにかかる野鳥橋。少し先には町に凱旋してきた時も通った杉の馬場道。その奥には彼らの住む秋月の館、そしてそこへ続く瓦坂――

 

 数年前までは当たり前だったその景色は、何ら変わったところはない。それでも彼らには今はその景色が、愛おしくて仕方ないのではないか。夢見た望郷の宿願を果たした実感が自然と胸のうちを熱くともすと、種実は声にその熱を移して言った。

 

――暢尭。俺たち戻ってきたんだな


――ええ、殿。確かに戻ってきました


――ここからまた始まるんだな… 俺たちの新たな日々が


――ええ、これからまた始まります


 そんな当たり前のことだけを暢尭に問いかけてくる種実。しかしはっきりと言わなくても惣右衛門にも十分に彼の心が伝わっていた。

 

 この地を愛しているのだ。


 そしてもう二度とこの景色を手放さないことを心に誓い、『夢』に描いていたのだ。

 

 しばらく言葉もなくその景色を見つめていると、乾いた秋風が彼らの頬をなでた。暢尭の体から汗がすっと引いたのだろうか、思わずぶるっと身震いが出る。その様子を見て、種実がにこりと笑う。どこにでもある、少年たちの光景。その光景に惣右衛門は鼻にツンとする痛みを覚える。それはどこか懐かしく、そして儚さを感じさせるものであったからだった。

 

 しかし次の瞬間には、種実の顔つきはみるみるうちに変わってきた。

 

 その顔はまさに鬼。

 

――この地をなんとしても大友から守ってみせる…!


 この言葉に惣右衛門は目を大きくした。なぜなら今や九州の覇権を掌握している大友軍。その気になれば五万の軍勢を動かすことすらかなうであろう。

 未だにわずか三千の兵しか動かすことがかなわない秋月家など、歯牙にもかけない小さな存在でしかないはずだ。

 しかし種実の目はそんなことなどまるで意に介している様子はなかった。

 彼は本気で思っているのだ。

 

――必ずや、父上と兄上、そして死んでいった多くの者の想いに応えてみせる!


 と…

 

 それまでは絶対に負けないし、蹴落とされても泥水をすすってでも這い上がり続けるつもりなのだろう。

 今までの彼がそうしてきたように…

 そして、彼の隣に座る暢尭。彼の目もまた燦々と輝いていた。

 彼は彼で決意を新たにしていたのだ。自分は種実の背中を支える存在になろう。

 そしていつか自分も種実に対して手を伸ばせる存在になりたい。

 そう決意した暢尭の目はどこまでも澄みきったもの。そしてその瞳には、種実の横顔だけが映っていたのだった。

 


………

……

 再び目の前が真っ白になった惣右衛門。


 その目に飛び込んできたのは、またしても大友軍の旗印であった。そして、彼の目の前を通り過ぎた人物を見て思わず「あれは…!」と声を上げてしまった。

 

 その人物とは…

 

 『雷神』戸次鑑連。


 惣右衛門は実際にその目で彼の姿を見た事はない。しかし、その異質とも言えるほどに周囲から抜きんでた闘志を、びりびりと全身に感じただけで、その人が『雷神』と呼ばれる唯一無二の存在であることは明白であった。


 彼もそして彼の周囲にいる屈強な猛者たちもまた一言も余計な口は聞かずに、黙々と軍を進めている。

 その圧倒的な存在感は、まさに百戦無敗の常勝軍に相応しい威容であった。

 

 この時、惣右衛門は今この場がどんな場面なのか、全く分からないでいた。つまり、この大友軍と秋月軍の激突の行方がどうなるのか、彼としては全く予想がつかなかったのである。

 しかし、この大友軍の陣容を見れば、勝敗など火を見るより明らか。

 なぜならその軍勢は、種実の父と兄の命を奪い、秋月家を完膚無きまで破壊しつくしたあの時と同じ程度の大きさ…すなわち兵数にして二万はくだらないはずだ。

 そして、恐らく古処山城に籠城している秋月軍はそれよりもぐっと少ない兵数なのだろう。そうでなければ、父と兄の仇である憎き戸次鑑連が自ら兵を率いてやってきたのだ。これほど直接勝負を挑む絶好の機会はない。しかし、そうはせずに城に籠ったということは、兵数の上では秋月軍が不利であると踏んだからに他ならないということは、惣右衛門でなくとも考えられることだった。

 しかも秋月軍にとって悪いことに、『雷神』の隣には、大友軍のもう一人の無双、吉弘鎮理よしひろしげまさの姿まである。

 それはまさに虎が翼を得たようなものであり、以前よりも格段に強くなったその軍勢を秋月軍は迎え撃つことになった事を意味していた。

 

 つまりどこをどう考えても秋月軍に勝ち目など、微塵も見当たらない。

 

「また、悲劇をこの目にせねばならぬのか…」


 惣右衛門はそう独り言をつぶやき顔に暗いものを浮かべた。

 もちろんそんな彼のことなど誰の目に止まるものではない。彼がただ茫然と大友の大軍が通り過ぎるのを見つめていると、ふと戸次鑑連は彼の目の前で足を止めた。そして、たった一言「陣を張れ」と自身の率いる兵に指示を出したのである。

 その指示は、さながら張り詰めた弓矢を放つかのようで、放たれた弓矢である兵たちは、一心不乱に陣を張り始めた。

 一方の戸次鑑連は、この間すらただの一言も発さず、その鋭い眼光を兵たちに向け続ける。その眼光はさながら戦場において敵に向けるものと全く変わらない突き刺すような殺気を帯びたもので、惣右衛門はその場にいないにも関わらず、後ずさりしてしまいそうなほどに、背筋に冷たいものを感じたのであった。

 

 さて一方の大友軍の先頭を行く吉弘鎮理よしひろしげまさは最後尾の戸次鑑連がその足を止めても、行軍を止めず、ずんずんと古処山城に向けて進んでいく。

 どうやら目の前に迫った古処山城の攻略は、吉弘鎮理よしひろしげまさに託されたようだ。

 わざわざ戸次鑑連が自ら出ていかずとも、秋月軍を鎮圧することなど、容易い事だという余裕の表れなのだろうか。それとも何か別の理由があるのか、惣右衛門に判断できるものではなかった。

 

 そして…

 

 ついに惣右衛門が見つめるその先で「ウオォォォ!!」という兵たちの声が、秋月の夏の空を揺らした。

 同時に分厚くなった雲から、ぽつりぽつりと雨が落ちてくる。それはまるで天が秋月に降りかかるであろう悲劇に涙しているようだと惣右衛門は感じた。

 

 しかし、惣右衛門の予想に反してなかなか決着はつかなかった。

 

 むしろ戸次鑑連の陣には、前線で傷を負ったと思われる大友兵たちが、続々と運ばれるまでになったのである。

 それは秋月軍がことのほか善戦していることを如実に表していた。

 

 こうして早くも五日間が経過した。


 なんと大友軍の主力ともいえる軍勢相手に、秋月軍は見事に持ちこたえているではないか。

 惣右衛門はにわかに興奮を覚えざるを得ない。

 

「これはもしかしたら…!」


 と、抑えきれぬ感情を言葉に乗せた。

 

 ところが…

 

 それは突然のことであった…

 

 今まで五日間、ただの一言も発さなかった戸次鑑連が、口を開いたのである。

 

 それはわずか三文字。

 

――行くぞ


 その聞く者の肝を縮ませるほどに低い声に、惣右衛門は思わず吹雪の中に立っているかのような寒気に身震いした。

 しかし周囲の兵たちは弾かれたように一斉に動きだしている。その様はまるで木々に止まっていた鳥たちが一斉に羽ばたく様に似たもの。しかし野鳥と異なるのは、誰一人としてただの一言も発することなく、整然と行動しているところであり、その部分に惣右衛門はある種の畏怖と諦めを感じたのである。

 

「これでもう秋月は終わりだ…」


 そんな風に惣右衛門が口を半開きにして眺めているうちに、戸次鑑連の待機している陣の前に、一頭の駿馬が連れられてくる。すると戸次鑑連は不自由な足にも関わらず器用に馬上の人となって、城の方へと雨を切り裂く風のごとく駆けていったのだった。

 

 

――雷神、動く…



 この一報は既に古処山城内にも届けられていることだろう。秋月軍にとっては悪夢のような報せであり、人々を絶望の淵まで追い込むと、今までたまりにたまった不安の叫び声が城内の至るところから響いているのが惣右衛門の目にも浮かぶ。


 そして、そのわずか後には次々と山のあちこちから煙があがり、ちょうど三の丸があるあたりからも火の手が上がったのである。

 

 まさに電光石火――

 

 その圧倒的な強さと速さは、見惚れてしまうほどの神々しい美しさすら感じる。

 しかしその天下無双の軍勢から猛攻を食らっている古処山城の人々にしてみれば、恐怖の悪魔以外の何ものでもないに違いない。

 

「どうか… せめて安らかに…!」


 惣右衛門はそう心で祈り続けた。

 

 そして、こうなればもはや城の陥落は時間の問題だ。

 

 惣右衛門は眉間にしわを寄せながら静かに目を閉じた。再び繰り広げられるであろう、大友軍の蹂躙から目をそらすように…

 

 しかし次の瞬間…

 

 そんな彼の耳元で、爆発したような大声が響いてきたのである。

 

――負けるなぁぁぁぁぁ!!! 何がなんでも這い上がれぇぇぇ!!


 思わずぱちりと目を開いた惣右衛門。なんと彼はこの時ばかりは、古処山城の城門の上空にいたのだ。それはまるで彼に眼下に広がる光景を目に焼き付けよと、何者かに言われているようでならなかった。

 

 その光景とは、二の丸へと続く城門を背にして、まさに背水の陣を敷いて奮戦する秋月兵の一団。そこに容赦なく猛烈な突撃を繰り返す戸次鑑連の軍。この両者の壮絶なぶつかりあいが、繰り広げられていたのである。

 

「これは… なんと…」


 その想像を絶するほどの凄まじいぶつかり合いに、思わず惣右衛門は息を飲む。

 

 そして秋月軍の中央にあって声を枯らす種実の獅子の如き猛々しい姿は、惣右衛門の目にもはっきりと見て取れた。

 そしてその声に応えるように、秋月軍の兵たちは、いくら槍で叩かれようとも、前へ前へと大友軍へと押し返そうとしているではないか。

 先ほどから降り始めた夏の熱い雨は足元の土を柔らかくし、弾ける泥は彼らの全身をこげ茶に染めている。

 

 雷神の軍は強い。

 

 それは言葉にすることが出来ぬ程の強さ。

 

 その軍勢が息もつかせぬ程に彼らに槍や弓矢を浴びせる続けているのだ。

 

 日本広しと言えども、この猛攻を受けて退かずにとどまる兵があろうか。

  

 しかし…

 

 蝉しぐれは鼓舞の声。

 

 何度倒されても這い上がるは、筑前の魂。

 

 故郷を守る覚悟と、家族を斃された者の反骨の精神。

 

――負けるな!! 這い上がれ!!


 その言葉はもはやまじないにとどまらず、彼らの『夢』となって刻まれていく。

 

 立ち上がる。 立ち上がる。 立ち上がる。

 

 その姿に胸を打たれたのは、いつのまにか二の丸の城門の前まで駆けつけてきた、城内に待機していたはずの惠利暢尭だけではない。城内の誰もが悲嘆の声などどこぞに飛ばし、懸命に声援を送り、倒れて動けなくなった者を助け、死に物狂いで戦う兵たちの為に、湯と握り飯を用意し始めていた。

 

 こうして攻防に関わる全員が戦いに明け暮れると、もはやどれほど時が経ったのかなど、計る者は誰一人としていなかった。

 

 朝が来て、苛烈な戦いが始まり、夜が来る。

 

 その繰り返しが、さも当たり前かのように続いたのである。

 

 そしてついにこの時がきた。

 

 それは…

 

 

 

 秋月軍に援軍現る――

 

 

 

 その報せが秋月軍に届くことはなかったが、大友軍の中ににわかに走った動揺と、陽が暮れる前に攻撃の手が止まったことで、そのことは火を見るより明らかであった。


――引くぞ


 この戸次鑑連の一言によって、大友軍は撤退を開始した。

 

 攻め際も引き際も、兵は神速を尊ぶの教えを忠実に体現できるのが、戸次鑑連の強さのゆえんであろう。

 波が引くかのように古処山城から消えていく大友軍。

 

 こうして彼らが完全に姿を消したその瞬間…



 ついに秋月軍の勝利が決したのだった。

 

 

――ワァァァッ!!


 誰ともなく歓声が上がる。

 そして、皆抱き合い、勝利を喜び、涙していた。その様子を見て、惣右衛門もまた目尻に光るものを浮かべていた。

 

 それは惣右衛門も知らぬことであったが、壊滅に追い込まれたあの戦から、ちょうど十年のことであった。

 

 兵も城も、そして大将すら失ったあの十年前。

 

 それでも生き残った者は誰一人として、諦めなかった。


ーー負けるな! 這い上がれ!!


 この秋月のまじないを胸に刻み、愛する故郷を守る為に戦い抜いたのである。

 

 そしていかに絶望的な状況に追い込まれようとも、彼らは一歩も引く事なく、その不屈の魂を貫いたのだった。


 これぞ筑前の魂。


 それを祝福するかのように、いつの間にか雨は上がり、雲間から一筋の陽射しが差し込まれていた。

 

 その光を身に浴びて、まぶしく輝いている秋月種実と恵利暢尭。


 二人は高々とその右の拳を天に掲げたのだったーー



………

……

「…様! 惣右衛門様!起きてくだされ!」


 肩を揺すられながら、自分の名前を耳元で叫ばれた惣右衛門は、ゆっくりと目を開けた。


「わしは…」


 口に出しながら周囲を確認すると、既に夜の帳は下りて、辺りは漆黒に包まれている。そして彼は、自分が大きな石にもたれかかるようにして、寝てしまっていたことに気づいたのである。


「こんなところで寝てしまっては体が冷え切ってしまいます!早く戻りましょう!」


 それは惣右衛門の世話をしてくれている少年であった。どうやら彼は暗くなっても一向に戻らぬ惣右衛門の事を心配して辺りを探していたようだ。若干息が切れているのは、彼が必死に駆け回っていたことを表していた。

 惣右衛門は素直に「これは心配かけて、すまなかった。では早く戻るとしよう」と、少年に頭を下げると、その少年の手を借りながら、ゆっくりと立ち上がった。


 もうこの時には、辺りに秋月の地を愛した二人の侍の気配は感じられない。


 それでも惣右衛門は、その石に軽く頭を下げる。そして、一言だけ漏らした。


「心配はいらんからのう」


 そんな彼の真横を山から下りてきた冷たい風がすうと通り過ぎる。ぶるっと身を震わせた彼は寒さをしのぐ為に、体をこすりながら、自分の屋敷へと急いだのだった。

 

 




2017年7月に九州北部を襲った豪雨によって被災された皆様にお見舞い申し上げます。

全ての方々へ勇気と希望をお届けいたしたく、心を込めて綴りました。

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[良い点] 立ち上がれ 立ち上がれ 立ち上がれ という言葉が響きました。 他者にも自分にも、言い聞かせてきた言葉です。 とても共感しました。 友理さまの想いが伝わってきて、胸が熱くなりきました。…
[良い点] 「何だって成し遂げてみせるさ」という少年の言葉が気に入りました。子供らしい無邪気さを見せる一方で、出来ない事は無いという強い意志を感じました。特に笑いながら宣言しているところに、器の大きさ…
[良い点] 素敵なお話をありがとうございます。 ここ近年の大きな災害には、同じく心が痛みます。 何かしてあげたくても、家族のいる身では募金くらいしか出来ず歯がゆく思っていました。 小説で心を届ける…
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