フレールの竜(3/7)PDFで表示縦書き表示RDF


フレールの竜
作:南条武都



赤き竜


 白狼は、緑の海を泳ぐように滑らかな動きで、道をたどっていった。
 人間が通れる道を選び、先へ先へと進み、進んでは立ち止まって、彼らが追いつくのを待つ。
 その足元ではほとんど音がせず、あまりにも静かなものだから、時折本当にそこに狼がいるのか、と自分の目を疑ってしまうほどだ。
 白狼の導くまま、ほとんど夢うつつの状態で歩く男達が我に返ったのは、踏み出した足の下で、ばしゃん、と水がはじけたときだった。
 見下ろすと、いつの間にか地面がじくじくと湿り気を帯び始めていた。視界を遮る枝を押しのける。奥にいけばいくほど、地面がぬかるんでいくようだった。
「……近くに沼でもあるのか?」
「さぁ……そんなものがあるとは、聞いてなかったが」
 白狼は、ぬかるみの中で振り返って彼らを待っている。男達は再び足を動かして、濡れた地面を歩き始めた。
 不思議な事に、先に進むほど、男達の靴には水気を帯びた泥が跳ねてこびりついていくのに、白狼の体には少しも汚れがつかなかった。
 どれほど進んだのか、時の流れは分からなかった。土は湿り気を増し、時には大きな水たまりが道をふさぐため、よける事もままならなくなっていく。ぐっしょりと濡れた靴にうんざりしながら、白狼が潜り抜けた枝を払いのけた男達の目の前に、突然湖が広がった。さ、と冷たい風が頬をかすめ、涼やかな水の音が耳を打ち、火照った体が鎮まっていく。
 だが、涼しさを感じると同時に、男達は息を飲んで体を硬直させた。ざわ、と腕に鳥肌が立つ。
 赤竜が、そこにいた。
 燃え盛る炎を思わせる膚に、そこに在るだけで他を圧する巨体。男達の気配を察していたのか、赤竜は長い首を持ち上げて、彼らをじっと見据えている。ゆったりと動かした太く長い尻尾が、水面を揺らして、ばしゃりと音を立てた。
 赤竜を中心として広がる湖。
 空の青と、赤竜の赤い膚が湖に映りこんだその光景は、あまりにも目に鮮やかで、とても現実とは思われない光景だった。
「……フレールの竜……」
 呆然とその言葉を呟いたのは、その竜が、先ほどのおとぎ話の赤竜を思い起こさせる威容だったからだ。
 彼らが竜を目にしたのは初めてではないが、これほど大きく、そして静かに端座する竜には、出会ったことがない。
 鱗に覆われた体は屈強で、こうもりのように皮膜の張った羽根は広げたら、光を遮ってこの辺りを闇に包み込んでしまうだろう。
 木の幹ほどもある太いかぎ爪を有する巨体は威圧的だ。しかし、今にもその口から業火を吐き出しそうなほど迫力があるというのに、不思議と静謐な雰囲気を漂わせている。
 赤竜は闖入者に動じる様子もなく、ゆっくりと首を足の間に下ろした。ぶふぅ、と鼻息をもらすと、それが水面を揺らす。
 白狼が頭と尻尾を下げ、湖の中へ入っていった。小さな波紋をいくつも作りながら、赤竜の元へ歩み寄った白狼は、何事かを赤竜に告げた。それを聞いていた赤竜は一度、目を閉じる。
 白狼はそこで己の役割は終わったと言うように、するする池を渡り、森の奥へと姿を消した。
『西の村の遣いだそうだな』
 ざらざらとして聞き取りにくくはあったが、赤竜は腹の底に響くような低い声を発した。
『ここまで来るのに、随分骨を折ったであろう。ここに危険は無い。しばし休んでいくと良い』
「……は……」
 思いがけず労わりの言葉をかけられ、男達は一瞬呆けた。これほど人間らしい言葉を、恐ろしげな風貌の赤竜からかけられるなどと、誰が想像するだろう。
 何の冗談かと相手を見返したが、赤竜は敵対する様子も無く、穏やかに彼らを見下ろしている。
「あっ、いや、そういう訳にはいかねぇよ。あんたが無事ならそれを早く村人に伝えて、安心させてやらないとな」
 慌てて手を振り、じりじりと後ずさった。いくらなんでも、面と向かって語り合いたい相手ではない。怖気づいて、用は済んだとばかりに、さっさと帰ろうとした男達だったが、
『……いや。わしの命はそう長くない。村人達の心配も、杞憂ではなかろうよ』
「!?」
 深みのある声が淡々と告げた事に、思わず足が止まった。一瞬恐れを忘れ、まじまじと赤竜を見上げる。端座する赤竜の威圧的な外観に、これといった変調は見られない。
 しかし、穏やかに微笑んで彼らを見下ろす赤竜には、悟りきった雰囲気が漂っているようにも感じられる。
「あ、あんた、病気かなんかなのか?」
 男達は再び赤竜に向き直り、半信半疑でそう尋ねた。これほど生命力にあふれた生き物を、殺す病気などあるのだろうか。
 赤竜は笑みをますます深くして、
『そういえば先ほど、懐かしい名が聞こえたな。……人間達の間では、フレールの竜がおとぎ話になっているそうだな?』
 急に違う話題を切り出してきた。構えた男が思わず肩を落とす脇で、話をしていた方の男が、驚きに目を見張る。
「あ、あれは実話なのか? あんた、あの竜を知ってるのか」
『長き時を生きる我らにとっても、余程昔の話だ。人間達にはとうに忘れ去られたものと思っていたが……』
 そこで、赤竜はふうっと息を吐き出した。
『人間は不思議なものだな。同族と意味も無く殺し合い、残虐の限りを尽くすかと思えば、己のためにもならぬ事に命を投げ出す。種族の違うわしを気遣って、様子を見に来るような輩もおる』
 男達を見下ろす赤竜の瞳は、水の照り返しを受けてきらきらと輝いている。男達はなぜか恥ずかしくなった。赤竜の言葉があまりにも真っ直ぐ、なんのてらいも無く降ってきたからかもしれない。
 赤竜は男達が困ったように顔を合わせる姿に笑い声をもらし、
『――先ほどの話だがな。人間達の間で伝わっているものをこぼれ聞いたが、語られておらぬ事があるようだな』
「え?」
 何のことかと、男は首をかしげて、訝しげに相手を見上げる。赤竜は息を漏らして、体を動かした。ずぞり、と巨大な尻尾が動き、足が胴体を持ち上げる。
『村を救った娘は、その村にとどまらず、再び赤竜のもとへ戻った。そして、赤竜の神子みことなったのだ』
 赤竜が立ち上がり、これまでその巨体に遮られていた向こう側、木々の影が落ちて薄い闇に覆われていたその場所から、人間の女が現れた。
 まさか人がいるとは思わなかった男達は驚きに息を飲み、同時にその女に見とれてしまった。
 女は、色がすべて抜け落ちたかのように、全身純白だった。
 すんなりと伸びた手足や、身にまとった服の合間からのぞく胸元が、光を受けて細かな輝きを放つ。腰まである長い髪は白銀、瞳は透き通るような青。その目は、不思議なことにあの白狼のそれと同じだった。
「……ようこそ、いらっしゃいました」
 ゆるゆると穏やかな言葉を発したその女は、裸足のまま池に足を踏み入れ、赤竜の傍まで歩み寄る。
 そして、いたわるように赤竜のごつごつした膚に触れ、ふわりと微笑んだ。












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