1・1「迷い猫」
たくさんの靴の音。
たくさんの人の顔。
あふれてうねる、人いきれ。
うねってあふれる、街の灯り。
街は明るい。赤や黄色、勿忘草色に躑躅色の光達が踊っている。ボクが歩く大通りには、暗いところは一つもなく、文字だって、色だって、何だって昼間のようにはっきりと見ることができる。
でも、見上げた空の星は幽か。人よりちょっと良い目を持っているボクでも、こんな地べたからは数えられるくらいの星しか見えない。
見えない。見えない。
そして、見えないのは星だけじゃない。
すれ違う人達の顔。みんな、何を考えているのかわからない。疲れた顔の大人達。若い人間達は笑っているけど、心は閉じられて瞳に光るものがない。
みんな心を殺して生きている。
怖いと思った。どうしてみんな生きているの? そんな誰とも分かり合えることのない世界で。きっと、この人達にとっては‘生’だなんて牢屋みたいにしか感じられないんじゃないかな。望みを失くして、ただガツガツと生きている。まるで、何かの罰みたいに。
街に来たのは初めてじゃない。人ごみの中を歩いたのも、これまで何回かあった。
でも、その時はボクは一匹じゃなかったよ。いつもご主人様の腕の中で、誰かに踏まれないように、大切に抱きかかえられて歩いた。
――ご主人様、どこにいるの?
飼い猫は、飼い主を探して歩く。
ボクは、どこにいるの?
ボクは一匹。周りには数え切れないくらいの人がいるけど、ボクは孤独だった。ボクを見る人がいない訳じゃない。けど、その目は珍しがるものばかり。ボクを気遣ってくれるものじゃない。
ショーウィンドウに映るボクの姿。背は日本の女の人にしては少し高い。髪は灰色で、瞳は金色。肌はちょっと茶色。他の人間とは違う。でも、ボクが変なのはもっと別なところ。
耳。頭の横についてるけど、灰色の毛が生えててとがってる。
それに尻尾。こっちも髪の毛と同じ灰色の毛が生えている。ボクの思い通りに動かすことができる。
半襦袢と、その上に市松模様の着物。下の丈は膝上で、袖も短くされている。パンツは穿いている。服装も、古めかしくて周りから浮いている。
――寂しいよ。
サキはどうしているんだろう。ネガイと一緒だから寂しくないのかな。
でも、ボクは独り。寂しい。
*
テレビモニターがたくさん置いてあるところに来た。電気屋さんの前。何も映してないテレビ、スポーツを映しているテレビ、一番多いのはニュースを、それも同じやつを流しているテレビ。
「昨夜起きた北海道××市の大規模火災の続報が入りました。市の約八分の一を消失させたこの火災ですが、救急隊により新たに四百五十六名が遺体で発見されました。これでこの火災による死者は二千三十六名、重体が千百二名、行方不明者が三千九百九十一名となりました。救急隊は自衛隊との連携を強め、行方不明者の迅速な救助に臨む姿勢です」
――嘘だ。
理由も根拠もないけど、ボクはそう直感した。ニュースで言っていた街で火事なんて起きてない。もっと別な災害が、そう……
……降着。
頭の中に、そんな言葉がとっさに浮かび上がった。けど、ボクにはそれが何のことだかわからなかった。
直感したことはそれだけじゃなかった。もう一つ、その災害にはご主人様――ツミが関わっているのだと、ボクは感じた。
なんて、恐ろしいことなんだろう。
道を早歩きで行き交う人達は、このニュースに目を留めない。でも、何人かの人は足を止めてこれを見ていた。
「最近多いよな、こういう事件」
「一体、これで何人死んだんだ?」
「この街にも起こらなきゃ良いけど」
「――いっそのこと、全部壊れちまえばいいんだ、ハハハ……」
見れば、このニュースを耳にした人は、みんなちょっとずつ表情が変わってる。
やっぱり、ご主人様は悪いことをしてるんだ、と思った。サキから少し聞いていたけど、実際に現に来て耳にすると衝撃がある。
ご主人様のやってること、人は死んでしまうし、生きてる人の心にも何かの戸惑いを作っている。みんな、静かに暮らしていたのに。
――ご主人様は、何をしたいんだろう?
夢同士の戦争をなくす、それが目的だってサキは言っていた。でも、このまま行けば現はぼろぼろになってしまう。きっと、ご主人様はその事に気付いている、気付いていないはずがない。そして、そのためにご主人様が何をするのか、ボクにはわからない。
ボクは知りたい。ご主人様のすること。見ているだけじゃなくて、関わっていく為に。
だから、行こう。寂しいけど、どこへ行けばいいのかもわからないけど、とにかく行こう。
深呼吸するみたいに、息を大きく吸う。
大きな音を立てて走る車の排気ガス、人間達が頭に付けている薬、道ばたの糞やゴミ、食べ物屋さん……たくさんのにおいの向こう、ボクは一つのにおいを嗅ぎ取った。
妖化した――夢に住んでいた人が化け物のようになること――人達のにおい。
狙われている命を感じて、ボクは走り出した。
身体が軽く、普通の人間では無理と思う速さでボクは走った。
走る先は大きめの公園。
街の光から遠ざかり、周りはちょっとずつ暗くなってくる。この目は人間のものとあまり変わりがないから、色のない暗闇にちょっと戸惑う。
でも、ボクは止まらない。ようやく見付けた目的地に縋り付くみたいに。夏の虫が、灯火に寄せ付けられるみたいに。
暗がりの中に浮かぶ影、木立と遊具のものの他に、人の大きさのものが五つ。
猫の耳を澄ます。聞こえる息づかいからして、普通の人間は一つだけ。あとはみんな妖化した人間。四人の妖化した人は、その一人を取り囲んでいた。脅かすみたいに。
でも、その普通な人も全然騒いだりしてなかった。変だと思ったけど、ボクはとりあえず周りの妖化した人を倒すことにした。
走り続けた勢いのまま、ボクは地面を蹴って飛び上がる。高さ二メートルちょっとから、敵と定めた人の後ろ頭に跳び蹴りを入れた。
蹴る瞬間に足を右に振ったので、ボクは彼に邪魔されることなく一人だけの普通の人間、女の子の横に着地した。
「――大丈夫? 怪我してない?」
ボクが女の子に聞くと、彼女はボクに驚いて身をすくませながら、でも答えた。
「い、いいえ。それより、あなたは――」
この人達は、とボクは言いかけて、止めた。
残った三人が目を紅く光らせている。ゴツゴツした岩みたいな顔に、怒りや惑いを浮かべている。
――あ、そういえば。
今倒した一人に意識を向ける。死んでないかな、と心配したけど、ちゃんと息をしているみたいだった。妖化も解けてないし、気を失っているだけみたいだ。
ボクはここで誰の命も失わせるつもりはなかった。ツミは誰かを殺さないと自分たちを守ることができなかった。でも、ボクは違う。ここをうまくやり過ごして女の子を連れて逃げるだけで良いんだから。
「えっと……とりあえず説明はあと。少し暴れるから、後ろに下がってて」
ブレザーにひだのスカート、制服姿の女の子は黙って頷いた。
三人の意識はボクにある。言葉こそ話さないけど、ギラギラした視線はとても人間くさい――言うなればチンピラ。
と、そんな風に冷静に分析してみるけど、実際のところボクはそんなに戦い慣れているわけじゃない。猫時代でもなるべく他の猫と喧嘩しないようにしてきたし。
だから、ボクは先手を打つ。駆け引きなしの戦いのために、この身体の高い能力で相手が反応する前に攻撃する。
「いっくよー!」
十歩くらい離れた相手の胸に、握り拳を突き出して跳びかかる。
妖化してる相手の身体は固い。けど、身体を一本の棒のようにし、鳥のような速さで突っ込むボクの一撃は彼の胸を大きく軋ませて、彼の身体を吹っ飛ばした。
着地と同時に、左右斜め後ろから拳が飛んできた。残ってる二人が、腕を伸ばしたんだ。
高く跳び上がってかわす、紙一重なんてできないから。
地上三メートルくらいからとんぼをきって一人の頭を蹴飛ばした。
着地。ボクに蹴飛ばされた人も、地面に倒れて落ち着いた。
最後の人は腕を四本にして、それをめちゃくちゃに振り回しながらボクに迫ってきた。
「う……これは読むしかないのかな」
いくら高く飛んだり走り回ったりしても、それだけで攻撃するのは難しいと思う。
足元を見る。彼の振り回す手は地面にも届いているけど、すこしは隙がある。
「――今!」
スライディング。彼の鱗の生えた足を横に払う。
倒れる。四本の腕は身体を支えない。
ボクは鱗の二本足を掴んで投げ飛ばした。
「それー!」
脳しんとう、胸骨かんぼつ、頭がい骨骨折、全身強打。
みんな重傷みたいだったけど、生きてはいた。妖化していれば回復力も高いはずだから、ボクは手当てすることなく女の子だけ連れてその場を離れた。
七色の光に飾られた大通りを横切り、建物の間で立ち止まった。
「――追ってくる足音はしないね。もう、大丈夫かな」
自分の手下とも言える妖化した人が倒されて、ツミは何と思うのかな。まさか出てくるとは思わなかったけど、現実に出てこないとなるとやっぱりちょっとだけがっかりした。
そして、あの人達。あの人達はどうなるのかな。傷が治ってそのままどこかに帰ればいいけど、誰かに見つかったり鉢合わせたりしたらどんな事になるのだろう。また、誰か普通の人を傷つけたら嫌だなと思う。そういえばさっきのテレビみたいにニュースを変えてしまう人がいるのだから、もしかしたら現にも妖化した人間というものを知っている人がいるのかも知れない。その人達が彼らを……殺してしまうのかな。
そんな事を考えていると、目の前の女の子は怪訝そうな目でボクを見ていた。まずはこの女の子をどうにかしないと、と思ってボクは考えるのを止めた。
女の子は濃いめのお化粧をしていた。新橋色のアイシャドーがされた黒い瞳の目で、ボクを挑みかかるように見ている。
「あなた、何なの? さっきの奴らは人間じゃなかった。あなたの動きも、普通の人とは思えなかった。――助けてもらって言うのもあれだけど、あなたは何者なの?」
口紅をぬった紅玉のような唇を突き出して、彼女はボクを問いつめた。
――やっぱり、怖いよね。
絶え間のない雑踏の音が、失望と手を取り合ってボクの心に押し寄せる。
「……人のいる場所をたどって帰ってね。いろいろ危ないことがあるみたいだから」
ボクが質問に答えなかったことが気に入らなかったのか、女の子は眉を顰めた。けどボクは、さようなら、と言って彼女に背を向けた。
「待ってよ」
待たない。
ボクは彼女と違う。どちらかと言えば、彼女を襲ったあの妖化した四人と同じ者だから、彼女と一緒にいてはいけないと思う、やっぱり。
「待ちなさいよ!」
その瞬間、お尻に強い痛みが走った。
「痛い!」
女の子はボクの百十センチメートルくらいの尻尾を引っ張っていた。尻尾を掴まれたままでは振り返れない。ボクの背中に向けて、彼女は怒鳴るように言った。
「別にあんたのことキモイとか言った訳じゃないでしょ! 答えづらいことがあるんだったら答えなくても良い。でも、これだけは答えて――あなた、帰る場所はあるの?」
――帰る場所。
ふと、ボクは猫だった頃にご主人様と暮らしていた家を思い出した。兄弟もお母さんもいなかったけど、お父さんはいた。人一番悲しみに弱い人だったけど、お父さんは今も元気にしているのかな?
何にしても、今のボクには帰る場所どころか寝る場所もない。
「家に来てよ……。お礼、したいから」
女の子の声には、寂しいような、切ないような、そんな感じがあった。ボクの尻尾を掴む手も、なんだか縋り付くみたいな……。
「手、放してくれる? それ――本物だから」
「え……ご、ごめん」
女の子とボクは向かい合う。じっと、窺うようにボクを見ている。
「私、別に怖がっているわけじゃないからね……」
黙りこんだ彼女に、ボクは笑って見せた。
「ボクの名前は、チヨ。ただのチヨだよ」
「――乾・優見」
ボクたちが黙ると、車の走る音が遠く聞こえた。眠らない街。優見の瞳に踊る街の光たちは、ちょっとやわらいで見えた。
「うち、お父さんもお母さんもいないから……誰もいないから……――」
「――行こ?」
優見の手をとった。銀の指輪がはめられたその手は、とてもやわらかかった。
――友達になれるかな?
もちろん、ご主人様を探すのなら彼女とは別れないといけない。……それ以前に、ボクはまずサキと合流しないといけないんだけど。
でも、そんなこととは関係なく、ボクはこの出会いがうれしかった。手を結んだとき、胸の中に走ったのがさよならの予感だとしても、ボクは優見と会えたことをとても喜んだ。
優見がボクの手を引いて案内してくれる。
街の明かりが、雑踏が、怖くなくなった。
|