4・1「紅色走馬燈」
私が持つ一番古い記憶は、赫い。
それは揺れる影、踊る熱。血ではなく、血すら燃やし尽くしてしまう炎の色。
何故燃えているのだろう?
――それは私が放火したから。
どうして私は火をつけたのだろう…………
*
「須藤さーん、お待たせしましたー」
年若の男、まだ少年と呼べる男が私の苗字を呼びつつ走ってくる。往来で大声を出すあたり行儀がなってないが、走る姿は軽やかでどことなく優雅だ。
季節は夏。巷を熱い風が吹きぬけ、耳を澄まさずとも蝉の鳴き声が聞こえる季節。まぶしい光の中、白く輝くワイシャツを彼はさっぱりと着こなしている。
そして彼は私の前で立ち止まる。はぁはぁと息を切らすことなく、一息で静の状態へ入る様もなかなか良い。
しかし――
「すみません、須藤さん。父がなかなかしつこくて」
「……どうして敬語を使うの? それに、私のことは名前で呼びなさいと言ったわよね」
私が咎めの気持ちを前面にこめて言うと、彼はやたら嬉しそうに破顔した。それにともない、私の目線とほぼ同じ高さにある琥珀色の瞳が細められる。
「それは、僕が謝っているからです。僕が謝っている限りは須藤のほうが身分は上。須藤さんはそういうことはっきりさせないと怒りますからね」
「……あんたは別の事で私を怒らせたわ」
彼の表情の変化を見る前に、彼の優面に拳を叩き込んだ。手加減はない。彼は顔を抑えて二・三歩後ずさった。
「い、いたぁ! 痛いよ、××!」
彼が私の名を呼ぶ。しかし、回想の中でその音は聞こえない。
「もっと殴ってもいいのよ、○○」
――私の口から出た彼の名も、私の耳に届かない。
彼は身をすくませ言う。
「結構です」
「ふん――行くわよ」
私は彼に先行して歩き出す。と、背後で彼の声が聞こえる。
「今日も怒った顔が良い……」
「何か言った?」
いいや、と彼は言葉をにごらせる。そして、長い赤のワンピースを翻しながら早足で歩く私に追いすがり、横に並んで彼は話しだす。
これは、そう、今は氷室・紅烏と名乗る私が現に生まれて十八回目の夏の話。私は華族でもある裕福な家に生まれ、結婚を先延ばしにしつつ気ままに生きていた。
私とともにある彼は、農家の実家と理系大学を行き来する貧しい学生であった。知性は人並み以上だったけれど、所詮庶民である彼は、本来ならば私と口を利くことすら憚られた。
時代は昭和の十九年。神の風が吹き荒れる狂気の夏。私は許されざる恋をしていた。
*
回想が途絶え、私は夢から覚める。
目覚めた場所は、すべてが灰色の部屋。灰色の寝具、灰色の天井、カーテンも灰色で仄明かりすら灰色だった。
「紅烏、目が覚めたかや?」
私のベットの横で、漆黒のガウンを着た糸鶴が椅子に腰掛けていた。私を看ていたのだろうか。
「――水を頂戴」
「相変わらず偉そうじゃの」
彼女は立ち上がり、近くの棚に置かれていたピッチャーからコップに水を注いだ。
ほれ、と水は差し出された。喉が渇いていた。勢いよく飲むと、口から水が溢れ裸の乳房の上に雫が落ちた。
その感覚で、無意識に視線が下に引き寄せられた。と、そこにある物を見た。
「何? この黒い布……」
灰色のシーツの下で私の身体を覆う黒い布。厚めの生地だがつやがあり軽いそれは、手に取ってみるとマントであることがわかった。
「サキがくれたそうじゃよ。鷲累殿が言っておった。妾がはがそうとしても、お主は嫌がって放そうとしなかった」
「私が……?」
サキのものだというマントを手に取り見る。私の胸の中に、思慕にも似た得も言われない感情が湧き上がってきた。
「……邪魔だわ。…………私のロッカーに入れておいて頂戴」
「あいや、心得た」
糸鶴は黒のマントを小さくたたんで膝の上に置いた。そして、私をじっと見つめはじめた。
「何? 何か言いたいことがあるの?」
私が視線を返すと彼女の緑の瞳が一瞬揺らいだが、しかし彼女は私を凝視しつづけた。
「一つ、尋ねたいことがある」
わざわざの前置き。
「だから、それは何って聞いてるの。殺さないから言いなさい」
私は瞳にさらに強い力を込める。だが、糸鶴も目を反らさない。まるで飼い主に挑む犬の瞳だ。
「お主は、何故あの男、ツミに惚れたのじゃ?」
にらめっこで先に目を反らしたのは私だった。
灰色のシーツに目を落とすと、先程の夢が私の脳裏に去来した。
「ツミは……私の初恋の人に似ているの」
糸鶴が呆気にとられた声で言う。
「初恋……。お主にしては、いやにセンチメンタルな名詞じゃな」
「そうね。もう、四十年位前のことかしら。現では六十年以上前ね。夢に行くと現での記憶がおぼろげになるし、現に戻ってきてもそれは元に戻らなかったから、もう彼のことは名前すら思い出せないけど。
ツミと彼はよく似ていたわ。甘い顔、やわらかい声に華奢な指。瞳の色すら、二人とも珍しい琥珀色だった。振る舞いも、好みも。――二人とも、私が怒っているところを見ては秘かに喜んでいたわ」
――そういえば、彼は私の肌を見ることはなかった。
眼を閉じると、走馬燈は再び流れ出す。赫い記憶。揺らめくところはまるでパトランプのようで、私の胸を懐かしさと不快さで掻き乱す。
*
一夏の恋とは、一夏に終わるもの。
疎開先であった私の家のある村の、その近辺に空襲があった残暑の候、私の恋人は赤紙を受け取った。
「今まで無かったのが不思議なくらいだからね。やっと来たか、ぐらいな物だよ」
まるで他人事のように、飄々と彼は言った。
私は自分の頭に血が上るのを感じた。
「なに冷静に言っているのよ! 死ぬのよ? 恐くないの!?」
彼はにこやかにかぶりを振った。
「恐くはないかな。恐がっても無意味だし。――それより、もう君に会えなくなる方が寂しいよ」
彼は私の顔に手を伸ばす。覚えず流れていた私の涙を、彼は指ですくい口に運んだ。
「僕は君のことが大好きだよ。良くわからないけど、愛していると言ってもいい。――もっと君のことを好きになりたかった。でも、それはもうかなわぬこと。それが、哀しい」
しかし彼はほほえんでいた。
私は言葉を失った。けれども必死に彼の言葉に答えたくて、ついにはこんなことを言っていた。
「――抱いて。最後なら……私を抱いてよ」
彼は両腕を私の腰に回し、唇を重ねた。貪るような、情熱的な口づけだった。
しかし、彼は私の耳に囁く。
「君と寝ることはできない。別に君に誠実さを示したい訳じゃないけど、僕は君を抱くことができないんだ。まだ、自分の気持ちが良くわからないから。……このまま君を抱けば、ただ君を汚してしまう気がするから」
私はその言葉を拒むように、彼の胸を押して自ら離れた。
「私の気持ちは――私の想いどうなるの? あんたはそんなお綺麗な想いのまま死ねばいいのかもしれない。でも、私は……!」
揺らぎはじめた私の視界の中、彼の瞳は静かに私を見つめていた。自分の言ったことに一切の不安も不満もない、そう視線は語っていた。
「ごめん――というのは卑怯かな。でも忘れないで欲しい、僕にとって一番大切で恋しい人は、君だということを」
――私はその言葉、声と息づかいすら未だに憶えている。
**
そして彼は戦火に散った。
**
彼の死亡通知を、私はわざわざ彼の両親を訪ねて確認した。彼の両親及び姉妹達は、華族・須藤の姓を持つ私が来たことに驚きを隠さなかった。
通知には、彼が‘見事に’敵空母に突っ込み大破させたとあった。
それからしばらくの間、私は部屋にこもりきりになった。気持ちを整理する時間が欲しかった。あの時の私はそれなりの冷静さというものを持っていた。私は死んだ者のことをいつまでも引きずって生きるのは止めようと思った。
私の両親は、私が自身の家柄とまったく不釣り合いな庶民の男と付き合っていることを知っていた。それは私の両親がこの恋が一時の物であると思ったからで、事実その通りであったが、しかし私がなかなか立ち直らないのを見て俄に焦りはじめた。いくら私のわがままを許していた両親とはいえ、やはり私がいつまでも婚姻を結ばないのは家の評判に響くと思ったのだろう。
ある夕刻、晩餐を前にして女中に呼び出された私は、屋敷の中に見知らぬ男がいるのを見た。中肉中背、スタイルは悪くないがにやけ顔の不快な若い男。
私の許婚だった。両親は、明後日の吉日に婚姻するように告げた。
世界が息吹を失った。しかし私は、自分の運命を無感動に受け入れた。
許婚は晩餐の間中、私にしきりと話しかけていた。金持ちにありがちな、蒙昧な男。話すことは自分の思い出と自慢ばかり。これの妻になれば碌なことにならないだろうと思ったが、いまさらどうする気も私にはなかった。華族の家に生まれた者として、避けられざる事なのだから。
だが私は、許婚が婚姻を待たずして肉体関係を迫ってくるとは予想することはできなかった。
それも私がすっかり眠り込んでからのことであった。寝起きで力の入らない私をやすやすと押さえ込み、強姦するように私の処女を奪った。
気絶し、目覚めた。内股に残る白い精液と赤い血液を見たとき、心の中にはじめて憤りの想いが、そして故人への恋慕が湧き上がった。
――滅びてしまえ、なにもかも。
私は、生きている理由がないのに生きていられる人間じゃなかった。
そっと寝室から抜け出し、物置へと向かった。この夜、不思議とただ一人の女中もおきていなかった。
灯油を持ち出し、ありったけ屋敷の壁に沿ってまいて歩いた。屋敷は大きいし油の量も半端ではなかったが、体力のある私にはそう難しい仕事というわけでもなかった。
屋敷を一周すると残りの灯油を一斗缶に詰めて、玄関から私の部屋まで万遍なく撒き続けた。そうして部屋にたどり着くと、用意していた松明に火をつけて窓から投げ捨てた。
火はあっという間に広がり始めた。屋敷を包囲し、玄関を破って侵入した赫い猛威に、狂乱する家の者たちの声が聞こえた。
死は怖くなかった。火がいよいよ私の部屋の戸をなめたとき、私は開放感から知らずとほほ笑んでしまうほどだった。
*
「だが……お主は死ななかったんじゃな」
糸鶴が言った。
そのとおりだった。わざわざ言うまでもない、わかりきった事。――私はあの時、火炎の中から夢へと飛ばされ、以来四十年近くサキ達と暮らしツミと出会った。そして夢を去りまた現へと来た。しかし、このことはいまさら語る必要もないだろう。
「……妾が、なぜ今になってこの事を訊ねたか、わかるかや?」
簡単な質問だった。
「私が負けたからでしょ。私の……私の狂気がどこに由来するのかを、今まで知りたくてしようがなかった。でも――」
「――聞けば、お主の心は揺らぐ。聞いた者を痛めつけるか、自分を痛めつけるか、どちらかじゃった。妾も故あって〈月の子〉を狩る者。いたずらにお主を惑わせて、こちらの戦力が低下する事は避けたかった。――じゃが、今となってはその気遣いもない。むしろ聞くべきときであったと妾は思う。お主が、敗れた戦場にまた挑むために」
言い終えると、糸鶴は席を立ち部屋に私一人を残して去った。
――私の心は脆く弱い。
根拠もない一つの感情に身をゆだね、私は戦い、狂い続けた。私は狂女だった。そして、狂った刃は鋭くとも、脆かった。
私がツミに焦がれたのは、初恋の男に似ていたのが第一の理由。けれども私は、ツミと過ごした三年間、いちいちその事を思うことはなかった。ただひたすら、幼い少女のように私はツミに恋し、彼は黙って私を受け入れた。
何の為に戦っていたのか。何の為に想い続けていたのか。それは変わりゆく世界に無関係で、ただ私個人のためだった。この世界がどうなろうと、知ったことではなかった。
しかし、その想いもくじかれた。今は言葉通り、‘燃え尽きた’といった気分。憎しみも、子供っぽい恋も、天上にある蒼月に届きはしないのだと悟らされた。
する事もないので、ベットサイドに置かれていた灰色のローブを着て部屋を出た。あまり憶えのない建物の中、適当に歩いていると談話室に着いた。そこに二人の男がいた。
「おぉ、〈火巫女〉殿。お加減はよろしゅうか?」
漆黒の守護者の一人である魔術師。彼は日本人だが、所属は日本ではない。……まあ、こいつのことはどうでもいい。
「鷲累。手合わせして頂戴。身体がなまったから」
黒髪黒眼のもう一人の男は、今は普通の黒いスーツを着ている。だが、黒ずくめな雰囲気には人を威圧する物がある。
「……わかった、支度するか」
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