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第五章
077:≪番外編≫愛しの月
夕暮れ時の診療所。最後の患者を送り出し、診察室の片付けを終えたラディスとチェムカが居室の扉を開く。夕餉の美味しそうな香りが鼻先をかすめ、チェムカはほうと息をついた。

「はああ。今日もよく働いたべ!それにしても、やっぱりクレイとソアがいないとちっと大変だべなあ。忙しくて参っちまう」

「今頃二人はメークラインの美味しい料理でも食べているのかしらねえ」

てきぱきと配膳を続けていたニコルが前掛けで手を拭いながら、うっとりと遠くを見つめて呟いた。

「あそこはルキリアで一番人気の観光地だかんなあ。何でも夜になると湖のほとりに点々と灯がついて、とっても素敵なんだってよ。あたすも一回は行ってみてえなあ!」

「ほんとよねえ。あたしも行きたいわあ。死ぬまでには一度…」

ニコルとチェムカが口々に言い合い、じとっとした視線をラディスに向ける。

「…おいおい。もうそんな金は残ってないぞ。あの二人は特別だ」

そうなのだ。この診療所の主であるラディスを、影ながら常に支え続けていたクレイの婚約者がレーヌ国からやって来て、仲間が一人増えたのだ。チェムカは最初にソアと対した時、何だかクレイの分身と話しているような錯覚を覚えて、初めて会った気がしなかった。受け答えに無駄がなく、聡明な雰囲気の彼女は背の高いすらりとした美人なのに、さっぱりとしていて男らしい。チェムカもニコルも、あっという間にソアを気に入ってしまった。
そして今、クレイとソアは婚前旅行に出掛けている。この場所に診療所を開いてから、一日も休まずに動き続けている主と行動を共にするクレイ自身も、今までにこのような長期の休暇をとった事はなかっただろう。

「先生も奮発したわねえ。メークラインなんて、いっちばんお金がかかる観光地じゃないの。あたしが若かった頃から、ずっと人気のある場所ですもの」

ニコルの言葉にラディスが笑って答える。

「休みがとれるのは今のうちだからな。これから先は嫌でも働いてもらわなきゃならん。あいつの為というよりは、ソアの為に用意したんだ」

「なるほどなあ。クレイって下手すると式も挙げないって言い出しかねねえもんなあ。…で、先生。あたす達も勿論そのうち連れてってくれんだべなあ。ねえ?」

チェムカが同意を求めるようにニコルを見やると、ニコルも大きく頷いてそれに続け、

「そうよ。あたし達だって、先生に随分尽くしてると思うんだけどねえ!」

と言って、二人はラディスに満面の笑顔を向けた。彼は二人と視線を合わせないようにしながら聞こえないふりをしつつ、呟いた。

「それはそうと、リィンはどうした?まだ使いから戻ってないのか?」

「あら。そういや遅いわね。もう戻って来ても良いはずなんだけど…」

その時、居室の扉が開いて金色のふわふわとした髪がのぞいた。

「わお。良い匂い。ちょうど良かった」

ルキリア貴族らしく上等な服に身を包んだエンポリオが、にこにこ顔でやってきた。彼の笑顔を見ていると、チェムカはいつもキツネを連想してしまう。その彼の後ろにリィンもいた。

「ああおかえり。今ちょうど話をしてたところなのよ」

ニコルが台所に立って皿にスープを注ぎ、リィンがそれをテーブルへと運ぶ。

「ごめんごめん。僕がリィンを足止めしちゃってたんだ。それより、ねえ聞いてよ…」

エンポリオが席につきながら嬉しそうな表情を浮かべて、ラディスに話しかけた。どうやら彼もここで夕食をとる気のようだ。

「会社からここへ来る途中にね、チェムカの友達の、ええと何て言ったかな。あの二人組…」

「メリエナとミランけ?」

「ああ、そうそう。その二人と女の子達数人に囲まれちゃってさ」

「何だ。いつもの事だろう」

ラディスが興味なさげな相槌をうつ。そこへリィンが慌てた様子で言葉を挟んだ。

「エンポリオ!そんなくだらない事言わなくても良いだろっ」

「彼女達、何て言ったと思う?」

「よせったら!」

リィンの慌てっぷりにラディスもチェムカもぽかんとしたまま、エンポリオの言葉を待つ。

「僕とリィンって付き合ってるのかって聞かれちゃった!」

「ええっ!?」

チェムカは驚いて声を上げた。そんな…。あの二人にはリィンが女の子だって話してないはずだべ…。

「私達、エンポリオさんとリィンを応援しますってさ」

リィンはむすっとしたまま席につき、ラディスはこの話のどこが面白いのか?というような顔で、楽しそうに話すエンポリオを見ている。

「リィンが女の子だって分かってるって事かい?」

言いながらニコルも席につき、夕食が始まった。

「それがさ、違うんだよ。彼女達は僕らが男同士だと思ってる。だけどそれが返って楽しいみたいだ。僕とリィンだったら綺麗だから許せるんだって。ふふ。手を繋いで歩いているところを見られちゃってたようだよ」

チェムカは頭を抱えたい気分だった。メリエナもミランも良い子なのだが、可愛い男の子や綺麗な男性が大好物なのだ。この診療所は彼女達から目をつけられていて、チェムカが何度断っても遊びにやって来る。

「僕、俄然やる気出るなあ!彼女達の期待に答える為にも、やっぱり付き合った方が良いよね?」

エンポリオは優雅にグラスを傾け隣に座っているリィンに語りかけた。

「…何でそうなるんだよ」

むっつりとした表情のまま口いっぱいに料理を頬張るリィン。チェムカはちらりとラディスを盗み見るが、彼はこの話には全く興味がないようで、ニコルと明日の予定を話し合っていた。

何だかなあ…。

チェムカは一人、ひっそりとため息をついた。

リィンが好きなのはどう見たってラディス先生だべ。そんなの普段のリィンを見てたら誰だって分かっちまう。だけんども先生はリィンの事、どう思ってんのかなあ。わっかんないなあ…。

◇◇◇◆

「ねえラディス。聞きたい事があるの」

「何だ」

目の前の椅子に腰かけたユマがこちらを見つめている。ラディスは心音機を鞄にしまいながら、内心聞かれたくないと思いつつ返事をした。彼女はにっこりと笑っており、可愛らしい笑窪も普段どおりなのだが、何故だかその笑顔から非難めいたものを感じる。昼下がりの穏やかな日差しにブラウンの巻き髪が輝いて見える。ここのところだいぶ状態が良い。もう何の心配もなく通常の生活が送れるまでに心臓の具合も安定している。が、この事を本人に告げるとすぐ調子に乗って無理をするので、とりあえずは黙っておく事にする。

「どうしてリィンの気持ちを知っているのに、何も言ってあげないの?」

やはり…。聞かれたくなかった。

「どうしてちゃんと気持ちを伝えないの?ラディス。リィンが可哀そうよ」

何も言わずユマを見ると彼女もこちらを見つめていて、何かしらの答えを聞くまでは許さないわよ、という雰囲気が伝わってくる。ラディスが苦笑いをして重い口を開いた。

「あいつの好きっていう感情は、家族愛に毛が生えたような程度だ」

「そうかしら…」

「もう少し時間をくれ」

彼の答えを聞いてユマが小首を傾げて困ったような笑顔を作った。

「もう…ラディスの悪い癖ね」

「ん?」

「思ってる事を半分も口にしない」

ユマが僅かに身を乗り出し、ラディスをぎゅっと睨みつけた。

「私には何でも全部話してって言ったでしょう?昔に約束したじゃない。兄さん」

遠い昔。まだ二人が幼い兄妹であった頃。

「一度にたくさんの事を考えて思案してる。思いや主張も一旦飲み込んでから綺麗に整理して、相手に分かりやすいように言葉にする。不要な事は言わない。昔からそうね。それって素晴らしい事だけれど、短所だわ」

「…お前にはかなわないな」

ラディスが穏やかな笑顔を向け、二人は微笑み合う。

「俺は自覚しているつもりだ。俺の言葉や行動は、相手に大きな影響を与える。良くも悪くもな。だからこそ、あいつは俺を拒めないだろう」

「何か不都合でもあるのかしら?想い合っている二人なのだから構わないでしょう?」

「リィンは…。あいつは、俺がどんな事をしたいと思っているのか分かっちゃいないさ。これっぽっちも疑わない。…何度寝込みを襲ってやろうと思った事か」

ユマが目を丸くして可憐な指先を口元に当て、そういう事ね、と小さく呟いた。

「あいつの気持ちが俺に追いつくまで、猶予を与えているところだ。無理強いして嫌われたら目も当てられない。あまり急かさないでくれ…。俺にだって我慢の限界がある」

「あら。随分と紳士なのね?お兄様」

「その通り。お前の兄は理性が服を着て歩いているような紳士なんだぜ、妹よ。
 そういえばジェイクから聞いたぞ。シャルナンの花祭りにワドレットと行くらしいな」

「ええ。いけない?最近体調も良いし、ずっと二人で行くのを楽しみにしていたのよ」

ユマがラディスの言おうとしている事を予測して、一度にそこまで言った。

「二人きりというのがいただけない」

腕を組んでそんな事を言うラディスを、ユマは苦笑しながら眺める。

「お父様もラディスも少し過保護すぎるわ。私、もう二十三になるのよ?」

「まだ二十三だ」

ユマはゆったりとした微笑みを向けてため息をついた。
ラディス自身も分かってはいるのだが、ジェイクが彼女をとても大事に想っているのも知っている為、つい余計に心配してしまう。しかしそんな彼女はいつだって、ジェイクとラディスを大きな愛で包んでいる。女性とは偉大なものだ。
大きな出窓から外を見下ろすと広い庭を掃除しているジェイクとリィンが見える。二人とも腕捲りをしてズボンも膝まで捲りあげて、青々とした芝に水を捲いて楽しそうに笑っていた。穏やかな昼下がり。

「ふふ。可愛い。ああ…何だかラディスが腹黒く見えるわ…」

ユマの独り言は、聞こえないふりをした。

◇◇◆◆

書斎で仕事に没頭して、気付いたら真夜中だった。凝り固まった肩を揉みほぐし茶を淹れようと階下へと向かう。やはりクレイがいない為に仕事は山積みで、ここ数日の睡眠時間は二時間あれば良い方だった。事務処理や経理。膨大な資料や報告書や手紙に目を通し、必要に応じて様々な対応策を立ててゆく。その他にも諸々の雑務があり、通常は二人で分担して片付けている。それを診療を終えた後にこなすのは骨の折れる作業で、猛スピードで処理をしているが時間がいくらあっても足りない。必然的にこの数日間は寝室で寝ていないのだが、これも返って好都合だった。

何せ今、リィンの無防備な寝姿でも見ようもんなら間違いなく襲う自信がある。

暗い廊下を歩き居室の扉を開くと中は煌々と灯が入ったままで、リィンがテーブルに伏して眠っていた。ラディスはため息を一つこぼし、茶を淹れてから隣の椅子にそっと座った。すやすやと気持ち良さそうに寝入っているリィンの寝顔を眺める。ふっくらとして透き通った頬を手の甲でなでて、柔らかな栗色の髪を梳いた。

温かい。呼吸をしている。生きている…。

その温もりが指先から伝わってくる。柔らかな膨らみのある形の良い唇が薄く開かれ、息をしている。

「んん…」

リィンが目を覚まして、すぐ傍にいる彼に驚いて目を丸くした。

「…何だよ」

「何にも?」

ゆっくりと身体を起こし頬を僅かに染めて、リィンが不機嫌な声で続ける。

「人の寝顔見ながらお茶飲んで、優雅なもんだな」

「寝起きで突っかかってくるなんて、お前も元気だな。こんなところに寝てないでちゃんとベッドで寝ろ」

「ふん…」

隣に座るリィンは俯いたまま、ぼそりと呟きを落とした。

「ラディスは、僕がどこの誰と何しようが別に気にならない」

「…何の話だ」

その華奢な細い首に視線を落とす。簡単に折れてしまいそうだ。

「最近、知らない女の子が僕に話しかけてくるんだ」

リィンがぼそぼそと話し始めた。きっと話がしたくて、ここで待っていたのだろう。

「今や有名人だからな。知ってるか?町の奴らはお前の事を、イリアス族を真の解放に導いた英雄だと言ってる。…お前を男だと思っているからなあ」

「僕は、男だ」

そう断言するリィンに少し驚いた。

「…そうか?」

「そうだ」

リィンは俯いたままで一度もこちらを見ない。

「リィン」

ラディスが静かに名を呼ぶと、リィンは慌てたように一気にまくしたてた。

「僕は男だっ。それで良いんだ!今までそうやって生きて来たんだから!どうせ胸だってないし、今更女のように生きるなんて出来ないしっ…」

ああ、そうか…。
こいつは決して媚びるような真似はしない。自分の態度を見て何かしらの決断をしたのだろう。恋とか愛とか、捉えどころのないその淡い感情をきっぱりと切り捨てるつもりでいる。…何ともいじらしい。

「だからっ!前に言った事、あ、あれは忘れてくれ!あ…いや、覚えてないんだったら良いんだっ」

膝の上にある両手がぎゅっと握り締められている。耳まで真っ赤だ。

「ぼ、僕は男なんだから…。僕は男で、ラディスの護衛なんだからっ…す、好きとか嫌いとか、そんな感情…必要ないんだ」

独り言のようにぶつぶつと呟く。まるで自分に言い聞かせているようだ。

「…リィン。あいにくだが俺は男にキスをするような趣味は持ってないんだ」

びくりと細い肩が震えて、リィンがやっと顔を上げてラディスを見た。怯えたような困惑の表情。彼は椅子ごとリィンを包み込むように身体を寄せて、その赤茶の瞳を真っ直ぐに見つめた。

「リィン、好きだ」

リィンの大きな瞳が更に大きく見開かれる。

「う、嘘だっ!信じない!」

「…おい」

「だってあんたは人気者で、大人で、僕じゃなくっても相手はたくさんいる…」

ラディスはゆっくりと瞳を伏せて息を吐き出す。

一番愛しい女に、何故伝わらないのか。
こんなにも欲しい女が目の前にいて、俺がどれだけ自分を抑え込むのに必死になっているか…。

「そんなのは関係ない。俺はお前が好きだ」

リィンの背中に腕を回し顎に手をかけ上向かせる。

「ラディ…ッ」

強引にその唇を奪った。
今まで抑えていた感情を、愛おしさを隠さず熱を込めて口付ける。

「…ん、う…っ」

腕の中にある華奢な身体が強張り、両手で必死にラディスを押し返そうとしている。

逃がすものか。

強く抱き締めて逃げ惑う舌を絡め取り、激しい感情のままリィンを求める。
リィンの理性も感情も、全てを奪ってしまいたい。その艶やかな髪も紅い瞳も、白く滑らかな肌も細い手足も、全てだ。その全てが、欲しい。

「…ンっ…ッ」

息もさせぬ程何度も深く口付ける。リィンの全身から力が抜けてゆき、縋るように身体を預ける状態に変わった。ゆっくりと顔を離して見つめると、リィンは真っ赤な顔で苦しそうに息をついてこちらを見上げた。涙の溜まった瞳が深紅に揺らいでいる。彼はリィンの薄く開かれた口元を指先で拭い、静かに囁いた。

「…伝わったか?」

微笑みながらリィンの赤く染まった頬を撫で、ラディスは席を立った。

◇◆◆◆

「っあー!らでぃすだ!」

「らでぃすだあー」

表で遊んでいた弟達がラディスに気がついて大声を上げた。長身の彼が大きな診療鞄を肩に担いでこちらへ歩いてくるのが見える。

「これっ!先生をつけろって言ってるだろが」

扉を開いて表に出たチェムカは小さな弟達をたしなめた。

「先生、いつもすんません。今日なんかせっかくの休診日だってのに…」

そう言うと、ラディスは抱きついてくる子をかかえ上げて笑った。

「ちょうど往診の帰りだから気にするな。…随分重くなったな」

「ラディス、僕の宿題見てよ」

「あたしも抱っこしてー!」

わらわらと子供達がラディスを取り囲み、チェムカの母が前掛けで手を拭いながらぺこりとお辞儀をして、子供達に声をかける。

「ほれほれ、みんな部屋に入って一列に並ぶだ!先生は忙しんだから、手間かけさせちゃなんねえぞ」

ラディスは定期的にチェムカの家族の元を訪れ、子供達の健康診断を行っていた。これはチェムカの父が亡くなった後から今まで、ずっと変わらずに続けられている事だった。時間のある時は宿題を見てくれたり剣の稽古をつけたりしてくれる。そのせいなのかチェムカは周囲の友人達や皆が言う程、ラディスに憧れたりもしないのだった。どういうわけか彼に対して異性の男性だという意識が持てない。

今も小さな弟達を診察しているラディスを見ていると、全く別の感情が湧き上がってくるのだ。

何だか、父さんみてえだ…。

そんな年ではないし、ましてやこんなに綺麗な父親もいないだろうと分かっているのだが、ついそう思ってしまう。チェムカは苦笑する。

「パウラは最近どうだ?」

診察を終えたラディスは、チェムカの母が淹れた茶を立ったまま啜って言った。

「もうすっかり良くなってきてるだ。子供達の面倒もよーく見てくれるしな。今は近所の食堂にお手伝いに行ってんだわ、昼の忙しい時間帯だけ。そこでも働き者で重宝がられてんだ」

「そうか…。色々と助かった」

「それを言うのはこっちの方だべ」

それから様々な話題でひとしきり会話をし、子供達と挨拶を交わしてラディスは診療所へと帰ってゆく。

「先生っ」

その背中を追いかけてチェムカが押し殺した声で呼び止めた。青い瞳が彼女を見下ろす。

「どうした?」

「先生はリィンの事、どう思ってんだ?」

あまりの突然の問いに、がくっとラディスがつんのめった。

「…お前まで何だっていうんだ」

「だってよお、あたす心配なんだもの。リィンって真っ直ぐだろ?傷ついたりでもしたら可哀そうだ」

「全く…。あいつの周りにおせっかいな奴が集まってるのか、あいつが皆をそうさせるのか…」

思いつめた目で見上げているチェムカに、彼はにっこりと微笑んだ。

「リィンなら大丈夫だ。俺がついてる」

どうとでも捉えられるようなその言葉に、チェムカは首を傾げる。

「人の心配より自分の方はどうなんだ?」

「あたすは…今んとこ好きな人とかいねえもの」

「もし良い奴がいたら連れて来いよ。俺が見てやる」

彼の物言いにぷっと吹き出して笑ってしまった。ほんと、父さんみてえだ。彼はチェムカの銀髪の頭にぽんと手を置いて遠ざかってゆく。

「いつもあんがとね、先生」

◆◆◆◆

重苦しい空気が診療所を満たしている。幸か不幸か今日は休診日で終日二人きりだった為に、何とも言えない気まずい重みは夜になるにつれ、その容積を増しているようだ。ラディスは怒涛の如く仕事を片付け、普段よりも長めに風呂に浸かった。珍しく疲弊している。夜も更け、ぱらぱらと雨が窓を叩く音が聞こえて来た。寝室に向かうか逡巡しつつ濡れた髪を布で拭いながら、二階へと続く階段を昇ろうとした時だった。驚きのあまり心臓が飛び出しそうになる。

「…幽霊かと思うだろうが」

薄暗い階段にちょこんと座ったまま寝入っているリィン。どうも昨日からこいつは変な場所で眠りたがる。仕方なくリィンを抱き上げ、心の中で起きないでくれと祈りつつ寝室へ向かう。そのまま静かにベッドへ横たえ、息を止めてそろりと身体を離そうとした時、彼の髪から水滴がこぼれてリィンの頬の上に落ちた。ぎゅっとリィンの眉根が寄り、ゆっくりと瞳が開かれる。

「あ…ラディス」

「ベッドで寝ろと言ったろう」

ラディスは長身の身体を伸ばし、ごしごしと布で髪を拭った。リィンが目をこすりながら半身を起こす。

「まだ夜中だ、寝てて良いぞ」

そう言い置いてそそくさとベッドから離れようとした彼の服を、リィンが慌ててむんずと掴んだ。

「ラディス。待って」

「…何だ」

「あ、あの…」

薄暗い部屋に雨の音が響く。ラディスは頭から布をかぶったままベッドの脇に腰を下ろした。全神経を全く別の事に向けようと努力する。そうでもしないと気が狂いそうだ。

「僕…あんたの事が好きだ」

「ああ」

「…昨日言った事、ほんとなの?」

「ああ」

「あんたは、僕のもの?」

ラディスは苦笑を洩らした。

「ああ。そうだ」

リィンが小さな声で、嬉しい、と呟いた。雨の音に鼻を啜る音が混ざる。リィンが泣いている。ラディスは腕を伸ばし、リィンの頬に触れて涙を拭った。濡れて光を含んだ赤茶の瞳が真っ直ぐにこちらを見つめている。顔を近づけ、触れるだけのキスをした。リィンは目を閉じたまま離れてゆく彼を追いかけるように顔を寄せ、それに応えるようにもう一度リィンに口付けた。一度目よりも長く、深く…。
心地の良い痺れが思考を止める。熱い息を吐き出しラディスが囁いた。

「…リィン、駄目だ。止められなくなる」

リィンはおもむろに彼の顔を隠している布を取り、柔らかく微笑んだ。

「情けない顔してる」

「ああ。死にそうだ。…お前に触れたくて仕方ない」

「…僕なんかで良いの?胸だってないのに…」

ラディスは笑ってリィンを優しく抱き締めた。

「あんまり可愛い事を言うな。それがお前のだってだけで興奮する」

「ほ、ほんと?」

「こんな情けない嘘は言わない」

ラディスの腕の中で、リィンは嬉しい、と呟いた。

参った…。骨抜きにされそうだ。

「それに、あんたをまた『力』で吹っ飛ばしちゃうかも…」

「ふん。望むところだ」

くすりと笑い合う。

ティルガ。すまない。俺はあなたの娘をもらう。
全力で愛す。俺の全てをかけて。











【番外編・完】
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
やっとこんなシーンに辿りつけた事で喜び勇んで書いた結果、長くなってしまいました。すみません。
これから最終部の執筆に取り組みます。きちんと書きたいと思っています。なので更新がまた遅れるかも知れません。。。
。一国のとある町で、ちっぽけな彼がたった一人で起こした革命の終着点。彼を愛するリィンはどのような選択をするのか。極限の状態の中において、本当に大事なものとは何か。本当の強さとは、必要な力とは何か。それを描きたいと思います。
では、いつも読んでくださる方々、本当にありがとうございます。あと少しだけ、お付き合いくださいませ。
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