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第五章
071:シルヴィ
「リィンというのね…。良い名だわ」

目の前の女性が微笑んだ。色素の薄い茶の巻き髪に白い肌。イリアス族特有の容姿。その隣に座っている老人も赤茶の瞳をしている。ルセロが茶器を持ってこちらへやって来た。
ここは町のはずれにある赤い屋根の民家の一室。レーヌ国の首都の片隅で、イリアス族がひっそりと暮らしていた。

「ここには私達を含めて六人のイリアス族が暮らしているのよ。他の二人はまだ小さな子供で、一人は壮年。今三人はお使いに出ているわ。皆ばらばらに、それぞれ国中を放浪していたの。血は繋がっていないけど、私達は家族よ」

あなたもよ、リィン。

リィンは胸が熱くなり、ぐっと口元を結んだ。彼女はレドナと言い、この家族をまとめている家長だ。ふっくらとした輪郭で、白のブラウスにふんわりとした薄青のスカートが柔らかな印象を与えてくれる。イリアス族の女性と出会ったのはいつ以来だろうか。それに彼女は母様と同じ年だ。もし母様が生きていたら、きっと彼女のような女性なのではないだろうか…。
感極まるリィンの肩に手を載せて、ルセロが隣の席に腰を下ろした。向かいに座るレドナも優しいまなざしを向けている。そのレドナの隣にいる老人も黙って目を伏せていた。同じイリアス族なら言わずとも分かる。どれだけの迫害の中を今まで生きて来たのか。温かな沈黙が部屋を満たした。

「しかし…そうか。シルヴィも、ゼストも逝ってしもうたか…」

老人が静かな口調で呟いた。

「ええ。けれど、私達にリィンを残してくれました」

「僕は、誰も護れなかった…」

「リィン。それは違うわ。人にはそれぞれ時があるのよ。あなたの時は、いずれ訪れる。
 さあお茶が入ったわ、いただきましょう」

それから色々な事を語り合った。今までどうやって過ごしてきたのか、何があって現在に至るのか。このレーヌではイリアス族に対しての差別や偏見も皆無に等しいと聞いてリィンは驚いた。旅を続ける同族の人々も、数名ここを訪れて去っていったという。

「ここに残るのも去るのも、その本人の意思によるもの。私達は気高き自由の民よ」

「うん…」

「イリアス族は、いずれ静かに滅んでゆく種族だ」

老人が訥々と語り出した。

「イリアス族の女性は少ない。それに元来、子を為す事が困難であるのだ。ここまで数を減らした今、自然と他の種族と交わり溶け込んで、やがてこの紅い瞳も、この『力』も全てが跡形もなく消えて亡くなるだろう。イリアス族の最後の生き残りとして、その終焉を見届けてゆきたいと思っている」

リィンはじっと老人を見つめた。彼もリィンを見つめ返す。何て冷静な瞳だろうか。皺だらけの顔に、悲壮なまでの決意が見て取れる。たくさんの同族の死を、時には自分よりも若い者達の死を、見つめ続けた結果なのだろうか。超越している。生の喜びも、死の恐怖も…。

「嫌だなあ、オーディル爺は。いつも暗いんだから」

ルセロが軽やかに笑った。

「ティルガもゼストも、僕にとったら英雄だ。格好良いもの」

「ねえリィン、あなたさえ良ければここに居て良いのよ」

「…ぼ、僕」

「そうだ、リィン。ここにいて?ここにいれば、もう大丈夫だよ」

ルセロが明るい表情でリィンの顔をのぞきこんでくる。リィンは彼に微笑んでからレドナに顔を向けた。

「僕は、ここには居られません」

「何故?」

「ラディスを護ると決めたから…」

「それは、ルキリア族の、彼の事ね?」

「あの少年がまだ生きていたとはな…」

老人が感慨深げに呟いた。

「リィン、どうしてだい?ここにいれば危険はないんだよ。僕らもいる。人として安心して暮らせるんだ。きっと君の家族もそれを一番に望んでいたはずだ」

ルセロがリィンの小さな手を取って、身を乗り出して語りかけてくる。

「ルセロ、よしなさい。あなたの気持ちも分かるけれど、リィンの心が大事なの」

やんわりとレドナが制した。

「でも…」

リィンはしっかりとした声音で続ける。

「僕は、ラディスを護ると決めた。あの人と一緒に生きてゆくと決めたんです。それがどんなに辛くて困難であっても構わない。そこから逃げてしまうよりは、ずっと良い。ラディスが、今の僕の居場所をくれた。僕に新しい家族をくれた。僕に生きる意味をくれた。ラディスが、僕の全てだから」

レドナはゆったりと微笑んだ。

「やっぱり…。あなたはシルヴィの子だわ。だってそっくりですもの、その強情なところ…」

「え?母様を知ってるの!?」

リィンは身を乗り出してレドナを凝視した。その時、微笑んでいる彼女の瞳が深紅に揺らいだ。

「…え…」

ぐらりとリィンの身体が傾いて、テーブルに突っ伏すように倒れ込んだ。ルセロが気を失ったリィンを優しく抱きかかえ苦笑する。

「乱暴だな、レドナは」

「こうでもしないとこの子は去ってしまうわ」

「さて、後は王子様が助けに来るのを待つばかり…」

ルセロが軽々とリィンを抱き上げ、その柔らかな栗色の髪に口付けた。

「どうも損な役回りだ」

「仕方ないわ。これもリィンの為」

シルヴィの娘の為よ。

レドナは静かに窓の外へ視線を投げた。美しい私の親友。幾度となく、私を救ってくれた彼女。あなたの娘の為ですもの。ねえ、シルヴィ…。

レドナの脳裏に鮮やかに浮かび上がる記憶。彼女やイリアス族が、いまだ奴隷としてあの忌まわしい施設で暮らしていた日々の事。虐げられた毎日の中で、生き生きと輝くシルヴィの笑顔…。

◇◇◇◆

「もう、どうしてこんなになるまで『力』を使ったりしたの!」

シルヴィはレドナの腕の中で、弱々しく笑っている。

「ち、違うの。お姉ちゃんは私を助ける為に『力』を使ったの…」

シルヴィに縋りつくように泣いている少女が叫んだ。少女の服はところどころ破れていて、その白い肌が露わになっていた。身震いするような恐ろしい想像が容易に頭に浮かぶ。傍にいた婦人が少女にシーツを被せてやり、震えている肩を抱いた。

「ひどすぎる…。私達は一体いつまでこうやって、ここで地獄のような毎日を送らなければならないんだ。死んだ方がましだ…」

男性が部屋の片隅で頭を抱えて俯いた。もう涙を流す体力さえ残っていない。薄暗い小屋のような部屋の中で、皆漆黒の首輪を嵌められて震えていた。
イリアス族の『力』を抑え込む為だけに作られた、漆黒の首輪。これをつけたまま『力』を発動すると自らの体内にも甚大な被害が出る。この施設で働かされているイリアス族を隷属させる為、ここに収容される前に奴隷の焼印を押され、さんざん痛めつけられた後に嵌められるのだった。

「あんな奴らに負けてたまるもんですか…私は絶対に屈しないわ」

ゆらりとシルヴィが身体を起こした。彼女だけが、この首輪を恐れずに『力』を発動させる。この強制労働施設の中でも、彼女の存在は大きかった。はっとする程に美しい容姿の為にすぐに目をつけられたが、そのどす黒い横暴な触手を『力』で跳ね返してきた。ルキリア族も恐れて手を出さない。レドナも何度となく彼女に助けられている。しかし、そのせいでシルヴィの身体はいつだってぼろぼろだった。

「さあ、夕食にしましょう」

「こんなもの、人間の食べるものじゃない」

薄汚れた床に無造作に転がる干からびたパンと、ぼろぼろの皿にうっすらと注がれた具のないスープ。忌々しげにそれを睨みつける仲間達をよそにシルヴィは笑った。

「ないよりましよ」

レドナは心配で仕方なかった。シルヴィは強い。だけれども、あんな華奢な身体で何度も『力』を発動させては命が持たない…。
皆に食事を勧め、子守唄を歌って寝かしつけてからシルヴィは静かに小屋を出て行った。レドナがその後に続く。

「シルヴィ待って。あなた…本当に、この首輪が外せると思ってるの?私聞いたのよ…。あなたが数人の仲間達とその事を相談し合ってるって」

シルヴィが月明かりの落ちる荒野で微笑んだ。レドナは一瞬見惚れてしまう。
まるで月光の化身のような瑞々しく儚い、美しい彼女。

「出来るわ。きっとこの毎日にも終わりが来る。信じていて、レドナ」

「ねえ、あの医者に何か言われたんでしょう?彼を信頼しすぎるのは良くないわ。だってあの人は、イリアス族のくせにルキリア族の味方をしているのよ」

きょとんとした表情でシルヴィがこちらを見つめている。

「でも私達の診察をしてくれるわ。それに彼のお陰で新しいシーツや服が届くようになったのよ」

「そうだけど…」

「それに私、彼が好きなの。初めてだわこんな気持ち。愛おしくて仕方ないの。辛くても生きていれば、良い事もあるものね…」

真っ直ぐな彼女の心が、レドナには眩しかった。

「シルヴィ」

遠くの影が、その名を呼んだ。すらりとした長身。

「今行くわ」

「待って。あんまり無理はしないで。お願いよ…」

「ありがとう。私は大丈夫。ねえ待っていて、絶対にその日が来るから。決して諦めないで」

彼女の飴色の髪が夜風になびいた。二つの影がレドナから遠ざかってゆく。

ある日、突然に歴史が動いた。

「レドナ、行くわよ」

皆が小屋の中で静かに息を殺してレドナとシルヴィを見守っていた。レドナは固く目を閉じて、ゆっくりと頷く。緊張で震えてしまう。シルヴィが白く細い指を黒い首輪にかざし、その瞳を深紅に染め上げた。ギィン、と高い金属音が鳴り、イリアス族の人々を苦しめていた漆黒の首輪が、真っ二つに割れて床に転がった。

「…は、外れた…」

レドナが掠れ声で囁き、震える手で自分の喉元を触った。ああ…本当に、こんな日が来るなんて…!
シルヴィの瞳がレドナを真っ直ぐに見つめ、それから微笑んだ。
周囲からどよめきが上がる。

「どう?何ともないでしょう?この首輪にも脆い部分があるの。そこを見定めて、鋭く『力』を放つのよ。さあどんどんいらっしゃい!」

別の小屋でも若いイリアス族がシルヴィと同じようにして皆の首輪を外している。自由を手に入れた人々は監視員の制止も聞かず、歓喜の涙を流しながら走り出す。その時、少年が小屋に駆け込んで来てシルヴィに向かって叫んだ。両目からぼろぼろと涙を流している。

「シルヴィ!もう間に合わないよ!ティルガが、ティルガが処刑されるっ!!」

少年はその場に泣き崩れた。あれは確か、シルヴィの弟…。

「うわあああ!!ティルガああぁー…」

壮絶な叫び。レドナは息を飲んだ。ティルガ…。それは確かあの青年医師の名だ。はっとしてシルヴィを見やった。

「駄目よゼスト!しっかりしなさい!このまま皆の首輪を外すのっ!!」

弟を叱咤する彼女の瞳は、涙で濡れていた…。

「そ、そんな…」

「レドナ、お願い、皆を外へ導いて!」

それから全ての顛末を知るまでの間の記憶が、レドナには途切れ途切れにしか残っていなかった。シルヴィの声に導かれるように必死に駆けた。それは皆同じだった。ともすれば行き先に迷ってしまいそうな程の激しい感情と動揺に混乱しつつ、理性を保っていられたのは、シルヴィが力強くその先を指し示してくれていたお陰だった。数日後に奴隷解放宣言があり、それからしばらくしてイリアス族の人々は世界に散っていった。北の町を目指す人々も多くいた。その旅の途中でシルヴィが教えてくれたのだ。あの青年医師がイリアス族を救う為に何を行い、何故処刑されなければならなかったのかを。そして彼がいなければ、彼のあの特別な『力』と、シルヴィがいなければ、首輪を外す事も出来なかったのだ。二人の覚悟がなければ、イリアス族の未来はなかった。レドナは愕然として、涙を流した。

どうして愛する人を亡くしてまで、私達は自由を求めなくてはならなかったのかしら。他の人達は何の苦労もしなくても手にしているものなのに。私達が何をしたのかしら。同じ人間なのに、どうしてこんなに、命の重さが違うのかしら。

この世界はとても不公平ね…。

シルヴィは愛情深い女性だ。彼女もまた泣きながら、しかしにっこりと微笑んだ。レドナが今まで見て来た中で、一番美しい微笑みだった。ねえレドナ…私の中には新しい命が宿っているの。

人って不思議ね。生まれては死んでゆくのよ。そしてまた、新しい命を紡ぐ。
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