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第四章
044:決裂
それから数日が過ぎて、右腕の傷もふさがり体調もだいぶ回復してきた。しかしまだ本調子には戻っておらず、休みながら家の仕事を片づける状態だった。この日は休診日であったが、ラディスとクレイ、リィンは朝から書斎にこもっていた。資料を国の機関に提出しなければならないとかで、膨大な蔵書を元にその資料をまとめる作業を続けているのだ。

「リィン。これじゃない。同じ題名だが作者がリナルドの方を持ってこい」

高く積み上げられた書物の奥から、ラディスの声だけが聞こえた。
リィンはため息をついて梯子を降り、本を掴む。クレイも反対側の書棚に張り付くようにして目当ての本を探していた。ラディスが書いたメモを元に、この広大な図書館ともいうべき書斎の本棚から、本を引き抜いては彼の机へ持っていくという作業は、地味に疲れる。

「ちょっと休憩しない?」

「しない」

リィンが仕方なく梯子を昇ろうとした時、ばたばたと階段を駆け上がる音がした。クレイも気づいて扉を見ている。

「リィン!」

勢いよく扉が開いて、現れたのはエンポリオだった。外出用の外套を羽織ったまま、ずかずかと部屋を横切って来る。

「エンポリオ、どうしたの」

がしりとリィンの両肩を掴んで顔を覗き込んでくる。紺色の瞳が心配そうにリィンを見つめた。

「イグルに襲われたって聞いてね。驚いたよ…」

ほっと息を吐き出す。

「どこか行ってたの?」

「…ロンバートと別の町の病院へね。提携する為さ。うまくいったよ。ラディスは人使いが荒いよ」

むっつりとしながらエンポリオが答え、そこでやっとラディスが椅子を横へずらして姿を現した。

「良くやった。さすがだな。お前の口先も時には役に立つ」

「そうだろ?僕って案外賢いからね。それでさ、ご褒美をくれない?」

「何だ」

エンポリオがリィンを引き寄せて言った。

「リィンをしばらく僕の護衛にして」

「は?」

リィンは意味が分からずにエンポリオを見上げた。何でそんな事する必要があるんだ。ラディスは表情を変えずにぼりぼりと顎を掻きながら答えた。

「良いだろう」

「なっ…」

「やった!じゃ、リィン。僕、馬車で待っているからね。用意しておいで」

エンポリオは満面の笑みを向けて、上機嫌で部屋を去っていった。

「い、嫌だよ僕。物みたいにそんな…」

「ラディス様…」

クレイも困惑している様子だ。

「たまには気分転換も良いだろう。あいつの所の方が、身体もゆっくり休める事が出来る」

「僕は平気だよ!」

「お前は少し休んだ方が良い」

歯牙にもかけない。クレイが口を開こうとした時、部屋の変化に気付いた。
ぐらぐらと本棚の中にある書物が揺れている。はっとしてリィンを見ると、瞳が紅く揺らいでいた。

「…何だよそれ」

怒りを含んだリィンの声。それに対し、いたって冷静なラディスが言う。

「おいおい、別に永遠に向こうに行けっていうわけじゃないだろう」

「あんたはいつも冷静で、いつも正しい…」

クレイは慌てて本棚を両手で押さえながら言った。

「リィン。少し落ち着いて…」

「あんたは良いよな!強くてさ!いつも自信満々でっ…」

ラディスは無表情のままリィンを見ている。リィンの苛々が募る。

「あんたには、わかんないんだ。あんたみたいに強くなりたいけど、そうなれない人の気持ちなんか!」

「何の話だ」

「知らないよ!馬鹿!」

ラディスの目の前、うずたかく積み上げられた書物が、どっと彼の方へ崩れ落ちていった。

「うおっ」

「ラディス様!」

ラディスは膨大な書物の下敷きになり、リィンは怒って部屋を出て行ってしまった。
階段を駆け降りて、そのまま玄関を飛び出し馬車に乗り込んだ。奥に座っていたエンポリオが驚いている。

「早く、行こう」

リィンが低く呟いて、エンポリオは不思議そうな顔をしながら従者に声をかけて馬車は動き出した。

◇◇◇◆

エンポリオの住居は、ワドレット達研究員が寝泊まりする建物と同じだった。彼はその一室を使っている。簡単に皆に挨拶をして、リィンはエンポリオに連れられるまま部屋にいた。

「ここで僕、何をしたら良いんだ」

「ん?特に何も。僕の傍にいてくれるだけで良いんだよ」

にっこりと笑顔を向けてくる。この笑顔がキツネに似ているんだなと、リィンはぼんやり思った。

「やっぱりちょっと体調が良くないみたいだね。顔色が悪いよ。少し寝た方が良いね」

「うん…」

リィンは俯いて黙り込んだ。リィンの様子にエンポリオが気づいて、その手を取って優しくなでる。白い肌はきめが細かく、肌触りが良い。

「ラディスは、僕の事嫌いになったんだ…」

「どうして?」

「僕の事、面倒になったんだよ」

ぽとりと涙が落ちた。

「ああ、リィン。可哀そうに。ラディスってば、本当にひどい奴だな」

こんなにこじれてしまう原因を作ったのは彼自身なのだが、そう言ってリィンの華奢な肩を包んで抱き締めた。
リィンは弱ってる。
エンポリオは内心ほくそ笑んだ。

それから少し部屋で休み、リィンはこの建物の中を歩いて回った。二階には扉がいくつかあり、それぞれの部屋になっているようだ。エンポリオの部屋は一番奥で、他の部屋よりも少しだけ大きい。一階には共有の居室と風呂やトイレ、炊事場がある。ここでは研究員達が交代制で食事を作っているというので、リィンはその食事作りを請け負った。エンポリオの言うとおりに彼の傍にいるだけなんて、リィンには耐えられるはずもない。

「わあ、美味しい。こんな美味しい食事はいつ以来だろう」

エンポリオが感激の声をあげた。横長のテーブルに全員が座って夕食をとっている。研究員達は全部で八人、それぞれ楽な格好に着替えており、こうしてみると皆若い。それでも中にはラディスより年上の人もいるという。

「大げさだよ」

リィンはオーブンで焼いた肉を切り分けて皿に盛りながら答える。ニコルの料理を手伝っているので、簡単なものなら苦もなく作れるようになっていた。

「いえいえ、ほんと、美味しいです」

話しているのはワドレットだ。黒の短髪に銀縁の眼鏡で、牧歌的に穏やかな表情。他の者達も頷いている。イゴーは少し太り気味の青年で、ムノアはひょろりとした女性。目元が神経質そうだ。しかしエンポリオとワドレット以外はあまり声を発しない。少し不思議な光景だった。

「ここの皆は、はにかみ屋が多くてね。気にしなくて良いよ」

エンポリオがグラスに口をつけて微笑む。
全ての料理が行き渡った事を確認して、リィンも席についた。今頃ラディス達も夕食をとっているだろうか…。でもあの様子じゃ、きっとまだ仕事にかかりきりだろう。

「リィンさんて、ラディス先生の護衛をしているんですよね」

ワドレットが聞いてくる。

「うん。あの、僕に敬語なんか使わなくって良いよ」

あはは、と頭を掻いて彼は続ける。

「先生には敵が多いから大変でしょう。何とかならないかといつも思うんですが…」

「自業自得さ」

リィンはあっさりと告げて食事を口に運ぶ。それを見ながらエンポリオがにやりと笑った。

「それより、みんなの方が大変だろ?ラディスが無理な事ばっかり言って、ワドレットなんかいつも怒られてる」

いやあ、といってまた頭を掻く。

「あれは、私がいけないんです。お恥ずかしい」

彼の敬語は口癖のようだ。クレイと似ている。

「この会社にいるのは全員医師の勉強を修了していてね、志願して研究員になっているんだよ。ラディスとレーヌ国が進めている研究の、ルキリア国支部みたいなものさ」

「ラディス先生の発想は面白い」

「そうだ、あのレンドルムとの相関関係は実に興味深い…」

皆が急に饒舌になり話し出した。しかしリィンには全く意味が分からない。ちんぷんかんぷんの内容だった。

「もう…。この人達、いつもこれさ」

「この会社に入って来た人達は、いずれ辞めていきます。残るのも自由ですが。次にはまた新しく医者になった人が入ってくるんです。一種の学校に似ているかもしれませんね」

エンポリオとワドレットがリィンの相手をしてくれている。ここで様々な理論や技術を学び、巣立ってゆくのだという。医師になる者や、薬品の調合を専門に行う調合士になって、レーヌ国に渡る者もいる。

「だから私がしっかりしないといけないんですが」

「ラディスはちょっと厳しすぎるよ」

ワドレットが眉を下げて笑った。

「でも、あれだけ私達の事を見てくれる人もいません。何か失敗した時も、必ず力になってくれます。私達の意見も最大限に尊重してくれるんです」

「そうかなあ」

「ここは彼の信者の集まりだよ、リィン。何を言っても無駄さ」

「…私がもっとしっかりして、ラディス先生を安心させてあげなくては」

そう言ったワドレットの瞳はきらきらと輝いていた。リィンはおや、と思う。彼は意外と打たれ強いのだろうか。
何だか場違いな程、希望に満ち溢れている瞳だった。
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