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第四章
041:嫉妬の渦
それから事あるごとに、ベルシェはラディスの診療所を訪れるようになった。今も勉強の為といって診察室に詰めている。

「随分大きくなられたのねえ。ロンバート先生の娘さん。もう二十七になるのだそうよ」

ニコルが食器を拭きながら感慨深げに呟く。ベルシェは最近まで、レーヌに留学していたのだそうだ。
無事に大学校を卒業して、今は研修期間だという。通常は医師になる為の学問を修了した後、先輩医師の元で二年間の実務経験を積んで、初めて免許取得となるのだ。

「ふうん…」

リィンはニコルが拭いた食器を棚へ片付けながら気のない返事を返す。実は気が重い。あれから彼女は何かとつっかかってくるのだ。やれ掃除の仕方が悪いだの、汚れたシーツを早く洗えだのと怒鳴られてばかりである。しかしベルシェはニコルやクレイがいるところでは決してその本性をあらわさない。全く、女らしいといえば、らしいのだが。

「あら、何だか元気ないわねリィン。お昼ご飯足らなかったかしら?」

「えっ。べ、別にいつも通りだよ」

その時、ばたばたと廊下を駆けてくる足音が近づいてきた。その勢いのまま扉が開かれ、ばたん、と大きな音を立てて閉じられた。扉にチェムカが張り付いている。

「チェムカ。どうしたの?」

「んもお!あーのベルシェっつう人、何とかならねえかなあ!」

チェムカが盛大なため息をつきながら叫んだ。リィンとニコルはぽかんとチェムカを見つめる。

「あんな狭い診察室に居られちゃ困るんだわ。助手はクレイで十分だし、それにあたすの受付の仕事もやろうとすんだわ!知らねえのに!そのたんびにクレイに注意されてっけど、ちっとも聞いてないし」

心底憤慨した、と言わんばかりにチェムカが鼻息を荒くしてまくしたてた。チェムカの愛嬌ある顔は怒っているのに何だかあまり迫力がなく、リィンとニコルは思わず笑ってしまった。

「んな!なーんで笑うだか!」

「だって、ねえ」

ニコルは口元を押さえてほほほ、と笑い、リィンも悪いと思いながらくすくすと笑ってしまった。

「う、うん…。なんか、可愛い」

「…はあ、もう」

チェムカも眉をハの字にしながら、ふふふと笑い出した。

「ああ、そうそう。リィンにお使いを頼みたくって来たんだったわ。これ、ここの住所に配達してきてくれねえ?先生が届けるの忘れてたっつってんだわ」

見ると手に小包と紙きれを持っている。リィンはうん、とそれを受け取り、マントを羽織って部屋を出た。内心とてもありがたい。ベルシェが来ている時はずっと緊張しっぱなしなので、まだこういった使いをこなしている方が気が楽だ。廊下を歩いてゆくと、長椅子に座って順番を待っている人がまだまだいる。そこから玄関を出て、少し歩いた時だった。

「待ちなさい、リィン」

リィンは心の中で舌打ちした。見つかったか…。
振り返るとやはり、ベルシェが腕組みをしたままこちらへ歩いてくる。

「何か」

「あなた、いつまでここにいるつもり?」

ベルシェは唐突に言って、またリィンに侮蔑の視線を投げる。

「…そっちこそ、いつまでそう言ってるつもりですか」

リィンは負けていない。イリアス族というだけで、軽蔑をする人間に遠慮なんかするつもりもない。それにベルシェは、ロンバートの娘である。ラディスとロンバートが始めているこれからの新しい診療スタイルに、彼女は本当に賛成したのか。それさえも疑問に感じてしまう。
ベルシェはぐっと口元を噛みしめて、それから嗤った。

「まあ良いわ。あなたの口の聞き方を怒っても仕方ない事だものね。だってあなたはイリアス族で、まともな教育を受けていないんですもの」

リィンは押し黙ったまま両手を握りしめて屈辱に耐える。

「何か勘違いしてない?ラディス先生があなたに優しいのはね、あなたがイリアス族だからよ」

…そんなの分かってる。

「それになあに、その格好。汚いわね。それに短い髪。ほんと、男性にしか見えない」

そう言って嘲笑った。ベルシェは巻き髪を一つに束ねてはいるが、その髪は手入れが行き届いており、今日は薄い桃色のブラウスになめらかな生地のスカートを履いている。

「先生にだって女性として見られてないわ。それに野蛮よ。女性というのはね、そんな恐ろしい剣を腰に差したりしないのよ。まさか人を傷つけたりしているんじゃないの?ああ怖い」

リィンはベルシェを見つめる。
彼女はリィンを怒らそうとして、言っているのだ。それは分かっている。

「何よ。私に『力』を使うなら使いなさいよ。イリアス族はやっぱり化け物だったって皆気づくわ!」

何も言わずフードを目深にかぶり、走り出した。

今までさんざん一方的な差別を受けて来た。でもそれに負けずに、生きて来た。
イリアス族は、気高き種族だ。父様と母様を心の底から尊敬している。だから、何を言われても負けない。自分が負けたらその大事な人達まで、くだらない奴らに汚されてしまう気がするからだ。

でも…。

リィンはベイルナグルの町をずんずんと突き進んでゆく。必死に歩いていないと涙が出そうだ。
女性としての自分をけなされても平気なはずだった。もうずっと男性として生きてきたのだから、今さらその事で何か言われても平気だと思っていた。なのに、胸を抉られたように痛い。呼吸が震える。

どうしてこんなに動揺してしまうんだ。

立ち止まり、目を閉じて深呼吸をした。すぐに動揺する自分が情けなかった。

女性で、腰に剣を差しているのは僕だけじゃない。グレイアだってそうだ。
それに僕は女性じゃない。そう決めたんだ。この剣はラディスを護る為のものだ。
それから…。

ラディスの大事なひとは、ユマだ。

僕が、ラディスにどう見られていようが関係ない。
女性として見られなくても、イリアス族だからでも、何でも良いんだ。

護衛として傍に居られればそれで良い…。

住所の書かれた紙を見ると、それは広場からすぐの所で迷わずに小包を渡す事が出来た。ベイルナグルの広場やその周辺では、リィンはラディスの護衛として知れ渡っており、以前ほど嫌な思いもしなくなった。優しい人ばかりではないが小包を手渡した婦人も、笑顔を向けてくれた。

何とか気持ちを持ち直したリィンだったが、ベルシェの執拗な攻撃は更なる追いうちをかける。

診療所へ戻り、裏庭で干していた洗濯物をとりこんでいる時にまたベルシェがやって来た。リィンを逃がすまいとするその表情は、恐ろしい。

「これ、洗ってちょうだい」

彼女は足元にガーゼをぽとりと落とした。リィンは無言でそのガーゼを拾う為に手を伸ばす。その白い手の上に、ベルシェの足が勢いよく落とされた。手の甲に鋭い痛みが走る。彼女は革靴を履いていて、その足でリィンの手をぎりぎりと踏みつけていた。容赦のない、真っ赤な憎しみがリィンを壊そうとしている。恐ろしい感情が爆発している。

「戻ってこなくても良かったのよ。あなたのかわりに私がここへ来るんだからね」

リィンは眉間にしわを寄せ、痛みに耐えながら言った。

「あ、あなたは勘違いをしてる…。僕はただの護衛だ。ラディスが決めたのなら、あなたがここに来たって僕は何も、文句は言わない」

ベルシェの力が僅かに緩んだ。素早く手を引き抜き、よろりと後ずさる。

「な、何よ!良い気にならないで!何様のつもり!?イリアス族だからって、ラディス先生に恩を着せているんでしょう?あなたなんか、イリアス族でなければ先生の傍にもいられないんだから!先生にふさわしいのは、あなたじゃないわっ」

あまりの辛辣さに、リィンはかっとなった。

「そんなの分かってるさ!でも僕は恩なんか着せてないっ。イリアス族を馬鹿にするな!」

「どうだか知れないわ!」

「それにラディスにふさわしいのは僕じゃないし、あんたでもないよっ。ラディスにはユマが…」

乾いた音が響く。ベルシェがリィンの頬を平手で打ったのだ。リィンは何が起きたのか分からず呆然とする。彼女は肩で息をしながら、苦しそうに言った。

「あなたなんか、嫌いよ」

革靴が芝を踏みしめる音。ベルシェが去ってゆく。
一人残されたリィンは、小さく呟いた。

「変なの…。僕に嫉妬したって、意味ないのに…」

ラディスが好きなのは、ユマなのに。
リィンの胸に、ユマのたおやかな笑顔が浮かんだ。

◇◇◇◆

一番星が輝く頃、ようやく最後の診療が終わった。ベルシェはあのまま帰ってしまったようで、ラディスとクレイが診察室で後片付けをしている。チェムカは一足先に居室へ戻っているようだ。リィンは診察室の隣にある応接室で、じっと息をこらして様子をうかがっていた。

「まったくここは死にぞこないが多くてまいるな。…ああ、そういや夕飯は魚の煮付けと言っていたな」

「それは良いですね」

扉の開く音がして、続いて足音が遠ざかってゆく。室内がしんと静まり返ったのを確認して、リィンは診察室へ続く扉を開いた。頬の赤みは何とか引いたが、手の甲は皮がむけてしまっていてこのままでは痛々しい。ニコルが見たら心配してしまうに違いないので、診療が終わって皆で夕食をとる、この僅かな時間に薬を塗って何かで隠しておきたかったのだ。
急いで薬品棚に飛びついて引き出しを開く。様々な薬品があり、何がどれだか分からない。

「おい泥棒、何を探してる」

「うわあっ」

驚きのあまり、リィンは声をあげた。振り返るとラディスが腕組みをして仁王立ちしている。

「で、出て行ったんじゃないのかよっ」

「隣の部屋から胡散臭い気配がしたもんでな」

相手が剣の達人だと、やりづらい事この上ない。ラディスはずかずかと部屋を横切り、素早くリィンの腕をとった。手の傷をじっと見ている。

「これは?」

「転んだ」

顔はリィンの手に向けられたまま、目線だけをリィンに寄こす。青の瞳に見つめられ、居心地の悪い思いをしながらもう一度言った。

「転んだんだ」

「そうか」

ラディスは引き出しの中から小瓶を選び取り、リィンの腕を引いて椅子に座らせた。向かい合わせに彼も椅子に座り、手早く傷の手当をする。

「これくらい、自分で出来る」

リィンはふてくされながら言った。胸が苦しいのだ。怪我をしているのは手の甲のはずなのに、ぎゅっと胸がつかえる。そんなに優しくしないで欲しい…。

僕に優しくしてくれるのは、僕がイリアス族だから?
だって、ラディスにはユマがいるもの。ユマは優しくて、女性らしくて、綺麗だ。

ユマからもらった繊細な髪飾りは、大切に保管している。

僕なんかには逆立ちしたって似合わない…。

リィンは俯いた。
そんな事を考えてしまう自分が恥ずかしかった。胸がずきずきと痛んだ。

「ベルシェだな」

手を動かしながら、突然ラディスが言った。

「あいつは少し気が強いし攻撃的だ。特に俺にひどく執着している面があるからなあ。困ったもんだ」

ため息をつきながら慣れた手つきで薄手のガーゼを巻き、固定する。それからリィンの頬に手を伸ばし涙を拭った。

「最近、泣いてばかりだな」

リィンは歯をくいしばりながら、ぼろぼろと大粒の涙を流していた。

「…泣いて、ない」

「どれだけ負けず嫌いなんだ、お前は」

「う…」

俯いて涙を拭う。

僕は弱くなってしまったのかも知れない。
ラディスが分かってくれていたと思っただけで、ほっとしている自分がいる。

彼の両手がリィンの頬を包み、顔を上げさせた。

「大丈夫か」

「…うん」

ラディスの真剣な眼差しが、涙で潤んだ赤茶の瞳とぶつかる。

「リィン、俺を信じろ」

リィンはゆるゆると瞳を閉じて、消え入りそうな声で返事をした。

「うん…」

ラディスのその言葉は、唐突のような気がした。しかしリィンはラディスを信頼していたし、こうして彼が自分にも気を配ってくれていると分かっただけで、それだけで嬉しかった。
それだけで頑張れると思った。

リィンは多くを望まない。それは悲しい過去のせいだ。
もう失いたくなかった。シルヴィやゼストのように、いなくならないで欲しかった。

何も他に望まない。贅沢なんか言わないから。

だからずっと、ラディスの傍に…。
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