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第一章
010:連鎖する悪意
昼過ぎにニコルは約束があるといって診療所を後にした。たまに近所の主婦達に料理を教えているのだという。最後まで今日は休みにしてリィンの傍についていようかと言っていたが、当のリィンに大丈夫だから行って欲しいと言われ、しぶしぶ出て行った。ラディスはそのまま書斎での仕事にかかりきりで階下には降りて来ず、クレイは応接室でたくさんの小さな紙束を相手に何やら計算をしているようだ。リィンは家の裏庭にある井戸の傍で、洗濯物を干しながら考え込んでいた。

帝国政府。帝国軍。この国の中枢機関の要職には必ずルキリア皇族が就くようになっている。帝国軍を率いる最高位に、国王の息子アルスレインが元帥として君臨している。それはこの国の国民であれば、誰もが知る事実である。リィンが幼い頃にいたイリアス族の町を襲ったのも、ルキリア帝国軍だ。罪人の討伐という名目でリィンの母を処刑する為の襲撃だった。
それにどの町でもイリアス族は帝国軍に監視され、肩身の狭い思いをしていた。それは今でも変わらない。
百年たっても尚、何も変わっていない。ルキリアがイリアスを迫害し人権を奪ったまま、シルヴィが命がけで解放に導いた事実さえ蹂躙し嘲笑っているのだ。
先程の軍人がリィンに向けた目は、人を人とも思っていない、侮蔑の色が濃く滲み出ている何とも浅ましい人間の目であった。リィンはこれ以上にない程の屈辱を味わったのだ。心はだんだんと暗闇に沈んでゆく。その時、人の気配を感じて顔をあげた。
誰かが裏庭へ近づいてくる。見た事のない男で、その格好で素性の良くない者であるのが分かる。猫背で目つきも悪く、口が斜めに曲がっていて、年齢も定かではない。彼はリィンを見つけ口を開いた。

「なんだ、捕まってねえじゃねえか」

ひひひ、と空気を吸う音のような奇妙な笑い声をあげた。

「…どういう意味だ」

リィンはその猫背の男と対峙する。

「おっと。『力』使うんじゃねえぞ。訴えるぞ」

男はその場で立ち止まり、勢い良く唾を吐きだした。

「前からあいつが気に入らなかったんだよ。若造のくせに偉そうにしやがって。あいつの綺麗な顔をナイフで切り刻んでやりてえんだよ俺は」

どうやらラディスの事を言っているらしい。この男からぞっとするような嫉妬と憎悪を感じて、リィンは全身に鳥肌が立つのを感じた。

「あいつは狡賢い奴だ。皆騙されてんだ。何が≪黄金の青い目≫だ。いけすかねえ!皇族から追放された汚れた野郎だってのに」

小刻みに肩を揺すり、ぶつぶつと呟く。

「一体何が言いたい」

リィンは気味が悪くなり、眉間にしわを寄せた。

「あいつの味方する奴も同罪だ。俺が帝国軍に通報したんだよ。恐ろしいイリアス族が紛れ込んでるってな。今までずっと付け入る隙を狙ってたんだ。全員処刑されちまえば良いんだよ」

口の端に泡をつけたまま男は喋り続ける。

「お前のおかげで面白くなりそうだぜ。ひひひ」

男が一歩リィンに近づく。口を曲げて笑っている。

「よく見たらずいぶんとかわいらしい顔してんじゃねえかよ。ええ?」

「…それ以上近づくな」

「あ?」

「ここの人達に何かしたら許さないぞ」

リィンは俯いたまま低く呟いた。猫背の男は身体を大きく反らせながら笑った。

「へえ。奴隷のくせに、いっぱしの口きくじゃねえか。僕ちゃんよ」

男を見据えリィンはゆっくりと発音した。

「…お前を殺す」

怒りに瞳の色が紅く揺らぐ。男はその瞳の色とリィンの殺気にたじろぎ、後ずさりながら声を荒げた。

「な、何だその目は!」

「お前を殺す事ぐらい、訳ないさ」

一歩ずつ男に近づく。
それに比例するかのように、男は後ずさる。

「いいか、『力』を使ってみろ!イリアス族なんて即刻処刑されるんだぞ!」

「そんなことにはならない。そんな暇与えない。お前はここで簡単に絶命する。死体はその森に放り込んでおけば、イグルが片づけてくれるさ。誰もお前がどうなったかなんて知る事はない」

「てめえ、何言ってやがる!いい加減にしろ!」

唾をまき散らしながら男が叫ぶ。

「僕はイリアス族だ。それがどういう意味か分かるか?触れなくてもお前を殺す事ができる。好きに騒いだら良いさ。もうあとわずかな命だ」

男は顔をこわばらせ、呆然とリィンを見つめる。

「もう一度言うぞ。ここの人達に何かしたら僕が許さない。お前を殺してやる。身体をめちゃくちゃに引き裂いてやる。どこにいても見つけ出す。どんなに逃げても追いかけて殺す。イリアス族を甘く見るな!」

男は慌ててその場から逃げ出した。

「ちくしょう!化け物め!」

リィンは肩で息をしながら、小刻みに震えていた。
様々な感情がリィンの小さな身体の中で沸騰し、今にも爆発してしまいそうなのを必死でこらえている。そして今『力』が使えない状態であった事に心から感謝をした。もし、『力』が使えていたとしたら、確実にリィンはあの男を殺してしまっていただろう。

自分はここにいたらいけない。

それだけがはっきりとリィンの頭の中で反響していた。
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