青草の銀河
柊に促され、二人でシャワーを浴びた。
もう、恥ずかしいことは、何もなかった。水の飛沫をいっぱいに浴びながら、軽いキスを交わし合った。
柊のしっかりとした青年の体が、まだ幼さを残す駿の体に何度も重なり触れた。
「先に俺の部屋へ行ってろ」
「柊は? 」
「すぐ行く」
駿は浮き上がった気持ちでリビングへ戻ると、そこに真璃がいた。駿は息を詰めた。
真璃は脱ぎ捨てられた二人分の衣類を爪先で蹴飛ばしていた。そして駿を睨み付けた。
「これから、柊の部屋でいったい何すんのよ」
真璃は駿のジーンズの抜け殻を投げ付けた。
「聞いてたんだ…あんただって、柊としてるんだろ。同じことをするに決まってるじゃないか」
「あんたの貧弱な体を抱いて、柊が満足する訳ないでしょ」
「やってみなきゃ、わからないよ 」
駿は頬を引きつらせて笑った。いつもは多くの雑多な意識と混在している違う自分が顔を出す。意地の悪い、攻撃的なもう一人の駿。
「柊は僕を抱き締めてキスをくれたんだ。素敵だったよ」
「柊が男を好きになるはずがないわ 」
「じゃあ、柊はどうして僕を抱いたんだと思う?」
真璃は駿を見ない。
「ねえ、柊。どうして…私より、この子の方がいいの?好きなの」
真璃の悲鳴に似た言葉は、いつの間にか駿の後ろに立っていた柊へ向けられていた。
真璃は柊に泣きそうな顔を見せた。今にも倒れそうな切なげな表情だった。
駿はその真璃の駆け引き用の嘘を見破っていた。でも、柊は違った。柊は動揺を隠せなかった。
そして肩を掴んで駿を振り向かせると、思い切り殴った。
「黙ってろ。俺がお前を抱くわけないだろうが。頭にのるな」
柊の声が掠れている。きっとそれは真璃への切実なポーズなんだろう。
駿とのことは、ほんの戯れなんだ。冗談なんだよ。俺のこと信じて。
逃げ出した真璃を慌てて追いかけた柊は、港で彼女を捕まえて、きっとそう言った。
駿はそれを南東に向いたはめころしの窓から見下ろしていた。破れた皮膚から滲む痛みが、顎へ伝う。
―ねえ、柊。いくら君が無かったことにしようとしても、僕にキスした事実は消えないんだ。
殴られたからだろうか。耳鳴りが始まっていた。駿はちらかっている服をのろのろと身にまとう。この部屋から早く離れたい。家へ帰ろう。母親の顔が浮かんだ。腫れ上がった左の頬をなんて言い訳しよう。
もうここには、いつもの臆病な駿しか存在しない。
なんであんなこと、許してしまったんだろう。どうしてあんな言葉を吐いたんだろう。後悔したって始まらない。終わってしまった事実が消せないのは駿も同じだった。
叫び出したかった。
家へ帰ろうとして鉄骨の階段から足を踏み外した。雨除けの透明の波板が視界の中でぐらりと揺れた。
そこで駿は目が覚めた。
そうだ、ゆうべは葉月と一緒だった。駿は葉月を探した。頭を無理やりに起こして吐き気に襲われた。
「無理するんなよ」
続きの和室から葉月の声がする。ゲームをしていたらしい。それらしい音楽が聞こえて来る。
「いいんだ。目眩は起こさなきゃいけないんだ」
耳の奥にある三半規管は体液に満たされている。体の平衡感覚を司っているのだが、剥れた耳石が迷い込み、体液を掻き乱す。その耳石を元の位置に戻すには、吐き気を堪えて頭を動かすしかない。
「辛くないのか。医者は? 」
「大したことはないんだ。でも入院しろっていう医者もいるから…大袈裟になるのは嫌だ」
薬も吐き気止めが処方されるくらいで、なんの役にも立たない。治まるのを待つしかないのだ。
「ゆうべのことだけど…。俺、お前とこの先どうこうなりたいとは思ってないから」
葉月はゲームのムービーに目をやった。
「そっ。だから…? 」
駿は何も期待などしてはいない。「しばらく」と言った葉月。「ずっと」ではないんだ。
マグカップにインスタントの珈琲の粉を入れ水道水を注ぐ。スプーンで掻き混ぜレンジに入れ、タイマーを二分に合わせる。扉を閉めると、中のテーブルが音をたてて回り始めた。二分が待てず、一分二十秒でレンジの扉を開ける。生ぬるい珈琲を啜る。
「気がすんだら、帰れよ」
「兄貴が来たら帰る。昨夜、連絡しておいたから。お前が倒れたって」
「よけいなことするんだな。来るわけがないのに」
駿は着替えると携帯をポケットに捩じ込み、スニーカーをサンダル履きして外へ出た。
「何処行くんだよ」
「散歩。ついてくんなよ」
アパートを出て左へ行くと幹線道路だ。両側には古くからの商店が建ち並ぶ。何軒か置きに、コンビニエンスストアやレンタルビデオショップ、貸しスタジオなどといった今時の店が点在する。
右へ折れると、住宅街だ。何処も住み慣れた我が家といった具合で、門扉や塀沿いに、鉢植えがハンギングされている。ヴィオラとスノーポールが質素な花嫁のブーケのように慎ましく、そして穏やかに風に揺れている。
休日らしく、カーポートで中年の男が車にワックスをかけていた。
平衡感覚が侵され、バランスがとれないで、こころもち斜めに歩く青年を怪訝そうに一瞥した。
駿を威嚇して、どこかで犬が吠えているが姿は見えない。
首輪をした猫がブロック塀の上で昼寝をしている。触ると背中をゾワリと動かす。暖かくて日だまりのようだ。
猫はいい。犬のように愛してくれと求めないから、面倒がなくていい。
駿も求めない。あの日から求めるのを止めた。
溢れるものは溢れるままにここにあるというのに…。
真っ直ぐ行くと、叔母の珠希の棲み処がある。旧い切妻の二階屋だ。この時期玄関に並んでいるのは、紫陽花の鉢植えだ。叔母は毎年花のついた鉢を求める。決まって隅田の花火だ。あの可憐で楚々とした白い花弁が駿は好きだ。
叔母の家の裏庭に白木蓮が植わっている。夢に出て来るのは、その木だろうと思う。
叔母の家の開いた門扉に頭を突っ込むようにして見た事のない車が停まっていた。新しい恋人でもできたんだろうか。
―よくやるよ。
駿は叔母の家の手前の路地を左へ折れる。しばらく行くと河だ。一気に空が広くなる。河の向こうには大学のキャンパスが広がる。
河川敷の堤は遊歩道になっている。駿は傾斜の草地に腰を下ろした。青草は日の光を受け、精一杯に草丈を伸ばしている。キンポウゲの黄色い小さな花がたくさん咲いて、青草の空の星屑だ。寝転ぶと空がぐるりと回り、甘い草いきれが鼻腔に広がる。
何にも阻まれない、果てしない空が広がっている。美しい空なのに直視できない。駿は怖くなって、手の甲で視界を覆った。
仰向けになって空を見て綺麗なんて奴の気が知れない。駿は怖くて空なんか翔べない。
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