あの日
―七年前。
桜はとっくに終わり、木蓮が羽を緑に変えていた。形良く剪定されたツツジがセロファンのように薄い花弁を絢爛と咲かせていた。
駿は春先に十六歳になり、学校にも少し慣れて来た頃だった。
駿と夕也は、幼馴染みだ。夕也の家は駅の西通りで酒屋を営んでいた。親の商売柄が関係して、夕也と葉月は以前から顔見知りだ。それが三人の繋がりだった。
しかし繋がりはそれだけではないようだった。
「覚えてる?俺のこと」
駿は葉月と初めて言葉を交わした日、こんなふうに唐突に尋ねられ、戸惑った。駿は首を傾げる。
幼い頃の記憶は、あやふやなディテールが入り交じり、輪郭の無い水彩画のように滲んで見える。まるで頼りない夢のようだ。
「ごめん。覚えてないんだ」
「だよな。でも兄貴は覚えてるみたいだぜ。そんな口振りだったな」
葉月の兄柊は、三年の文系のトップクラスにいた。クラスの生徒は、一応に有名私立大進学を目指していた。
かといって柊は、机にかじりついて勉強するというタイプじゃない。
まだ剣道部の主将を退いていなかったし、バンドも組んでいた。そのヴォーカルだった真璃とは付き合っていた。
退屈な授業はエスケイプする。それでも成績が良いので教師はあまりとやかく言わないようだった。
その柊は、部室で吸っていた煙草がバレ、ちょうど謹慎をくらっていた。「皆より早い連休だとほざいてやがる」と葉月は舌打ちした。
こんな風なので、二人は仲が悪いのかと思えば、意外と葉月は柊を慕っていたりする。
学校帰りの道すがら、はち切れんばかりに膨らんだカラスのエンドウのサヤを摘む。葉月と夕也は中の実を取り、両端を千切る。それを口に含み、舌先を丸めて息を吹く。するとそれは牧神の角笛のように、心地よく晴れた空に高く鳴り渡った。
駿はどうしたって鳴らせない。何がどう違うのか、何度やっても分からない。
「俺ん家で遊ぼうぜ」
葉月が誘った。
三人は母屋には入らない。鉄骨の脇階段から、別棟になっている店の二階へ駆け上がる。階段は淡いグリンが剥げ、赤茶けた錆止めの色が、所々のぞいていた。
ドアを開けて部屋へなだれ込む。
「駿は絶対キス下手だな」
スニカーを脱ぎながら、夕也が突然そんな話をしだす。
「なんで! 」
駿は憮然として言い返す。
「これを鳴らせないのは、不器用な証拠だぜ」
そう言って再びカラスのエンドウをピュイイと鳴らしてみせる。
「そんなことない。キスなんか簡単だよ」
「バカ、ディープキスってのは、舌をからませるんだよ。お前はダメだな」
葉月が、知ったふうな口を利く。
二人の話題が暴走を始めた。駿はそういうのが苦手だ。よからぬ妄想を日向であからさまにするのには、どうしても気後れしてしまう。
夕也や葉月みたいに、アッケラカンと喋れるといいのにと、どれだけ思うか知れない。
「なんて、葉月はディープなの、したことあるのかよ」
「わけねえじゃん。してみてえなあ。どんなかなあ」
「駿のこと言えねえじゃんよ。でも、してみてえなあ」
「キスか、その先か?」
「どっちもに決まってる」
夕也と葉月の会話を駿はほとんど聞いているだけだ。
「駿はどうなんだよ」
夕也が急に話をふるから、駿は顔を赤らめて俯いた。
「ブリやがって…」
葉月が駿に絡む。
「駿の頭の中は複雑だからな。」
夕也の言う事は当たっている。おとなしいふりをして、ズル賢い。こうして顔を赤らめて俯いているくせに、何も知らない訳じゃない。
嫌な性格だ。自分でもよく分かっている。そういうところが葉月の気に障るらしい。
「お前なあ…」
葉月がいきなり駿のTシャツの首を右手で捩じり上げてガンをとばす。葉月の乱暴なのはいつものことだ。
「やめろよ!Tシャツ伸びるしッ」
駿もおとなしいばかりじゃない。また始まったと夕也が短く笑った。
「お前、キスの練習台になれよ」
腕力に欠ける駿は、そのままリビングの床に肩を押しつけられた。本気の葉月が表情を堅くし、駿を見つめた。ドキリとして息が詰まった。
「マジ苦しいって!」
駿の声が裏返る。
「夕也、足押さえろ」
二人に押さえ込まれ、じたばたしているうちに、葉月が駿の脇をくすぐり始めた。
三人の笑いが弾ける。やっぱり子供だ。シリアスな緊張感には数分も耐えられない。
部屋の東側の高い位置に備え付けられた窓から、差し込む五月の陽の光に埃が踊った。
「るせえな…」
足音がして、三階から柊が降りて来た。眠っていたらしい。柊はキッチンで口をすすぎグラス一杯の水を飲んだ。
三人はピタリと黙ったまま、リビングからキッチンにいる柊を伺った。対面型のキッチンは、無防備な柊の後ろ姿を隠そうとはしない。
黒のボクサーパンツと白いアンダーウェアが、形良く締まった柊の肉体を包んでいた。
駿は起き上がって、ぼんやりと柊を眺めた。
さっきのドキドキが、喉元で再燃しそうだ。
「あのパンツ、真璃の趣味だぜ。エロくね」
葉月が小さな声で茶化す。
「聞こえてるぞ。ぶん殴られるぞ」
「構うもんか…」
葉月が言い終らないうちに、柊がぼんやりしている駿の二の腕を掴んでいた。
それは、あっと言う間だった。柊の唇が駿の唇をかすめた。
駿がはっとして、掴まれた腕を振りほどこうとした。ますます強い力で、抱き竦められた。
「キスなんて、簡単さ。こうやってするんだ。みてろよ」
駿の唇が柊の唇に、ゆっくりついばまれてゆく。やがて暖かいものが溢れ出し、くちづけの余韻が、駿を捕らえた。もう、逃げられない。
柊がその温もりに気付いて、唇を離した。
「お前ら、出て行け…!」
夕也も葉月も、それに気付いてしまった。押し黙ったまま、リビングを出た。そうするべきだと思った。
「大丈夫。何も恥ずかしいことなんかないんだ」
柊の声が、部屋の高みに吸い込まれる。代わりに放たれた窓から、風が流れて来た。牧神の角笛の甲高い音が、その風を振るわせた。夕也が鳴らしているのだろうか。
駿には鳴らせない。この唇は角笛の奏で方を知らないまま、すでに少年の領域に止どまっていることは出なくなった。
何処へ行けばいいんだろう。
柊が誘うままに、踏み越えればいいのだろうか。でも、柊はその先へ行こうとしない。
繰り返されるのは、優しいキスだけだ。
駿は仰向いたまま、部屋の高みに四角く切り取られた、五月の空を見ていた。
連なる窓の澄んだ碧色をツイとよぎるものがある。あれは燕だ。全てが胸に落ち着くまで、あの鳥の行く先を思いやればいい。
駿は目を閉じた。
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