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片翼のエンジェル
作:なかむら 奏多



ブリックロード 2


腰のあたりを後ろから小突かれて、駿は目を覚ました。

「おい、さっきから携帯鳴ってるぞ。耳障りだから、出ろよ。夕也だ」

柊が、駿の携帯を背中越しに投げてよこす。サブディスプレイに‘ユウヤ’の名前が浮ぶ。見たのかよ、と駿は柊の遠慮のない態度に、ムッとなる。

いつの間にか、柊とひとつのベッドで背中合わせに眠っていた。

店の二階と三階は、柊の住まいになっている。改装後は真璃とふたりの新居になるはずだったらしい。いろんな物の真新しい匂いが、部屋に充満していた。

もし真璃とふたりなら、それは幸せな未来への希望と成り得たのだろう。今では柊独りの空間だ。建材の濃い匂いは軽薄で、柊には似合わない。

春といっても、未明の空気はまだ肩に寒い。駿は毛布の中の二人分の体温が、逃げ出してしまわないように、携帯をそっと耳にあてた。

窓の外が半透明の蒼に染まり、星々が溶け入るようにまどろみ始める時刻だ。夕也は眠れなかったのだろうか。

「先に帰って、悪かったな。大丈夫だったか」

大丈夫な訳はなかった。夕べの醜態といい、目覚めたとたん、心臓の鼓動の数だけ疼くこめかみといい、最悪だ。

「今、どうしてると思う?」

「寝てたか? 」

「柊に抱かれてる最中だよ。いいところなんだから切るよ」

こんなみえすいた嘘、夕也には分かり切っている。駿は夕也に遠回しに因縁をつけているのだ。

夕也ならこんな悪態も許してくれた。いつもなら軽口で返してくる。そのやりとりで、小さなわだかまりは、いつもほぐれてゆくのだった。それが、今度は違っている。

「そうか、お前と柊ならそれも有りかもな」

と言ったきり、黙りこくった。

「有りって…。なんだよ。それに用があるんなら早く言えよ」

駿は苛ついた。柊となら有りな関係は、七年前の延長だとでも言いたいのか。考えただけで、恥ずかしさに身が堅くなる。

「あのなあ…。」

夕也が口を開く。携帯の向こう側は夕也の部屋だろうか。息遣いが、ずいぶん近い。

「駿に、話しておきたい事があったんだ。…俺、結婚しようと思ってる。」

いきなりの告白に、駿はどう答えようか迷って口ごもった。意志に逆らって脈拍が早まり、抹消の感覚が痺れていく。

駿にとって味気無い空白の半年が、夕也には全く別の半年だったに違いない。なんだ、そうだったのか。あの日零した涙の分だけ損をした。

「こんな時間に、そういう話か? 後で聞くよ、それ。」

言葉を考えるのが億劫だ。友達なら、よかったなの一言ぐらい、滑らかに出てくるはずなのに。言えない自分が子供じみて腹立たしい。

「柊さんから言われたんだ。そろそろ、駿のことを返してくれないかって。俺もその方がいいと思うんだ」

「返すって、どういうこと」

「いや…。結婚するなら、俺には駿の事が少し重いんじゃないかって、柊さんが言うから」

夕也の台詞は滞りがちになる。

「僕の事と夕也の結婚とどういう関係があるんだよ。それに僕の事が重いだって?僕はお荷物だったんだ。ずっとそう思ってたんだ。気付かなかったなんて、いまさらだな」

「そんなんじゃないんだ、駿」

夕也が言いかけた時、柊が駿の背中から腕をまわし、いきなり携帯を取り上げた。言い争いは、そこで途切れた。

「お前、駿に何言ったんだ。…今、話す事じゃないだろうが。……わかったような口を聞くな」

そう言って柊は携帯を勝手に切った。夕也が何をどう答えたか、駿には聞こえない。二人は夕べ、密かに駿に関する取引を交わしているらしい。

駿は頭の中で夕也の言葉を反芻した。海馬が独りでに呼吸を始め、駿の意識とは別なところで、営みを始めようとしている。

駿の頭痛がひどくなる。機能しなくなった、脳の断片を切り捨てて、新しい回路を作り上げていく作業が、再び始まっていた。駿は混乱した。

「ほんとうにいいことしてやっても、いいんだぜ」

柊が駿の背中を抱き締めた。この混乱を終熄させるためには、そうなってしまうのもいいかと駿は余計な事を考えてみる。

あの日、重なってきた唇の柔らかさが、蘇りそうだ。そして体を重ねあった後に、事の次第を柊に問い質そう。駿は体の力を抜いた。

「バカ、冗談を真に受ける奴がいるか。俺、ちょっと出て来る。頭痛がひどければ、薬を出しておくから飲んでおけ。強い薬だから、たくさんの水で飲むんだぞ。それから、もうひと眠りしろ」

「子供じゃないんだから、それくらい分かる」

行く先は尋ねない。そのかわり、

「あの時キスしたのも、冗談だった?」

と柊の背中に聞いた。グレイのスエットパーカーのジッパーを上げる長い指先がふと止まる。

「冗談ですませるつもりだった」

柊はそれだけ言うと、煙草と何枚かの千円札をゆるいダメージジーンズのポケットにねじ込み部屋を出た。

タンブラーいっぱいの白湯で薬を飲み下す。大きめの粒をふたつ。薬を飲むのは、錠剤も顆粒も苦手だ。異物以外の何者でもない。

オイルヒーターのスイッチは弱。体にどこまでも浸潤してゆくのは、柊の背中の温もりだ。

外気との境界は、サッシ窓の曇。それを指でなぞると雫が滴る。その窓から港が見えた。穏やかな内海の島を伝う橋梁が、その桟橋を寂れさせていた。

寄せる波に揺らぐ桟橋を柊が独りで見つめている。色褪せたテントの下で、煙草を吸っているのだろう。

背中が凍えて見えるのは、気のせいだろうか。花冷えの夜明けに、なにもそんな処に居る必要はないだろう。でも彼がそこに居たい理由を探すのは簡単だ。

柊は駿から逃げた。

「今は、話す時じゃない」

彼は夕也にそう言っていた。だから駿も、それ以上踏み込むことをしなかった。

薬が、深い眠りを連れて来る。駿は毛布を鼻先まで引き上げた。柊の吸う煙草が、微かに香ってここちいい。

そうだ。あの日、柊は泣きじゃくる真璃を桟橋の手前で、抱き寄せた。駿は、左頬に負った傷の痛みを手のひらで押さえながら、ふたりの情景をこの部屋の窓から見ていた。

柊の指にあった銀の重厚な指輪が、駿の目の下の皮膚を裂き、滲んだ血の色が涙に溶けた。

笑うと今でも、その傷が微妙にひきつる。

その後だ。店を通らず部屋を出入り出来るように備え付けられた、鉄骨の外階段から、駿は転がり落ちた。

失神していたのを葉月と夕也が見つけた。病院へ担ぎ込まれ、ちょっとした騒ぎになったが、事の発端や殴られたことは、誰にも言わなかった。

あれから、駿の中で何かが欠落している。

遊び半分のキス。抱き合っている柊と真璃。それを見ている自分。殴られた頬の痛み。階段から落ちた時に、落としてしまった記憶。フラッシュのように鮮明に映し出される光景は、繋がらない断片ばかりだ。

それだけではない。もっと、大切なものが、もぎとられ跡形も無い。欠片もみあたらないはじめから無かったように。心の底辺で駿を仕配している不安な揺らぎは、それに由来するのだ。

誰か!僕を独りにしないで…。

木蓮の白い花びらがこぼれて、アスファルトに散る。渡りを諦めた鳥の骸のようだ。夢の続きで少年が言う。

「君は渡って行かなかったのか」

「何処へ…? 」

「行くべき処へ…。そうか、片翼ではどれほども翔べないな」

少年は駿の背中を撫でて憐れんだ。

「羽根の在処は教えられないな」

「もう生えてこないの?」

「無くしたものは自分で探さなきゃ」

駿は少年に尋ねた。君は夕也なのかと。少年はかぶりを振った。

「分からないかい。僕は葉月だよ」

駿は少年の顔をじっと見つめた。本の挿絵のように淡い色彩が少年の表情を隠した。彼は葉月なのに、どうしたって葉月ではなかった。












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