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片翼のエンジェル
作:なかむら 奏多



ブリックロード 1


「もし柊君に会ったら、よろしく言っといて。あの子、離婚してこっちへ帰ってきてるって聞いたから。」

母親の口から柊の名前が出た。「ったく、なんで」と思う。

駿の母親と葉月と柊の母親は、学生時代からの友人だという。母親に連れられて昔のスナックに何度か行った覚えがある。葉月と柊とは子供の頃、そこで会っているはずだった。

「あんた、柊君によく懐いてて、いつも遊んでもらったのよ」

グラスに飾られた外国製のチョコレートと、薄暗い不思議な空間が懐かしく思い出される。けれど駿にはその記憶がない。

それに、柊の離婚なんて…。彼が高校を卒業して以来、どんな人生を送って来たのか、駿の興味の範疇にはない。

「いつか柊君とこで怪我して来たことあったでしょ。あれからずっと変よ」

母親がテーブルの上の食器をメラミンの盆に重ねながら

「ずっと思ってたんだけど…」

あれ、殴られたんじゃないの。久しぶりに帰ってきて機嫌の悪い駿に遠慮してか、母親はぽつりと付け加えた。

「知らないよ、そんな事」

訳わかんない事いうなよと言いそうになって、駿は慌てて口をつぐんだ。

あの日、柊に殴られたのは、確かだ。どうしてだかはうまく思い出せない。発端を、母親に話せば卒倒するに決まっている。

ただ気が付いたら、左目の下が赤黒く腫れ上がり、痛みが鈍く耳から頭蓋の奥を震わせていた。

気まずさを残して、家を出た駿は、川沿いに続く駅までの道を足早に歩く。

駅周辺の繁華な賑わいを横切って、国道へ出る。煉瓦の歩道には、日中の排ガスの匂いが染み付き、それが交通量の多さを物語っていた。

港を目の前に、葉月の店はある。夜はだんだんと湿り気を帯び始め、海面から立ち上ぼる潮の香りが、微かだが肌寒い空気の中に紛れ込んで漂ってきた。

昔の妖しいスナックの風情とはずいぶん違う。改装された店は、昼間はカフェ、夜はショットバーという洒落た出で立ちだ。

「泣かれちゃってさ、参ったよ」

『Brick Road』と刻まれたオーク材の扉を開けると、軽いボサノヴァに乗って夕也の声が聞こえた。

自分のことを言われている気がして、駿は気後れした。それでなくても、柊の事が魚の小骨のように、喉に引っ掛かっていた。来るんじゃなかったと後悔した。

葉月が夕也に目配せする。

「おう、来たか。遅いぞ」

「ごめん。出掛けにちょっと手間どった。それより、何の話」

「あ、うん…。だけど、大丈夫そうだな」

夕也が話をはぐらかす。

「ナニが」

「この間、泣いてただろう。辛いんじゃないのか。仕事」

「なわけないだろ。ちょっと油断しただけだよ」

駿も夕也の話を肩でかわした。

柊がカウンターの隅で、グラスを拭きながら女性客の相手をしていた。ほどよく厚い胸にピンストライプのシャツが張り付いている。

彼の視線がチクリと駿に突き刺さった。駿が目をそらした次の瞬間には、くったくのない笑顔を女性客に向けている。

葉月がそれを見ながら

「兄貴も、ずいぶん柔らかくなってさ」

と会話を切り出す。

「だいぶ揉めたんだろ。離婚」

「笑っちゃうよな。浮気されるなんて。兄貴は丸く収めようとしたらしいんだけど、離婚を切り出したのは、真璃さんの方からなんだ。兄貴は仕方なくそれを受けた」

「どっちにしろ、らしくないな」

「だろ? 」

ふたりの会話から、柊の離婚の経緯が、断片的に想像できる。

駿は真璃と柊が高校時代に付き合っていたことは知っている。それが結婚していたなんて始めて知った。

葉月が日本酒のカクテルを勧める。この店の売りなんだという。

「サムライロックならお前にも作れるだろう」

柊が葉月に小声でアドバイスする。女性客に愛想を振りまきながら、駿らの会話にも耳を澄ましている。

「ライム15に日本酒45。なんなら俺がつくるか」

「頼むよ」

俺は昼間のカフェ専門だからな。葉月は悪びれずに笑った。

グラスに氷を入れライムと酒を注ぐ。ふたつの異なる液体が、混ざり合おうとして、グラスの中に陽炎がたつ。翡翠色のライムの月が、心もとなげに氷の上で揺れた。

できあがったカクテルを駿の前に滑らせて

「元気そうだな」

と柊が口を開いた。

「母がよろしく言ってました」

「そう」

「離婚のこと心配してましたよ」

柊がふっと笑う。駿は自分のこの饒舌に内心驚いた。

「今日、真璃さんに会いましたよ。危うくキスをするところでした」

柊は顔色を変えない。

「可愛い顔をして、相変わらず小賢しいな。俺がどんな顔をするか見たかったか? あいつはそんなことぐらい平気でする女だ。驚きゃしないさ。それより噛みつかれないよう、気をつけるんだな」

「柊さんの方がよっぽど危ないんじゃないかな」

「どうやら、また俺に食いつかれたいらしいな」

淡々と、しかし険悪なふたりのやりとりを夕也が止めた。

「駿、いい加減にしとけ」

夕也が顔色を無くしている。

「ガキの頃じゃあるまいし、殴りゃしないさ」

柊はそれを鼻であしらった。

客が引いたのを潮に、葉月が店を閉めた。

「どうなるかと思ったよ」

柊が居なくなったので、夕也が胸を撫でおろしたように言う。

「俺はどうなるか、もっと聞いていたかったな」

カクテルのベースだという地酒をストレートで飲まされる。甘口ですっきりした味わいに気をよくした。ピッチが早くなる。

葉月や夕也がザルなのを駿はを忘れていた。

「なあ、あの時何があったんだ。柊に殴られるなんてよっぽどだぜ」

夕也の囁くような優しい声が、駿の癇に触る。

「知りたいか」

駿は酔っている。

「お前らの前で、柊にキスされた。それだけで充分笑えるだろ」

「あれは、成り行きだろ。遊び半分じゃないか」

七年も前のことだ。みんな子供だった。

「何があったかなんて、もう忘れた」

今更、掘り起こすこともないだろう。底を探ったって、ガラクタしか出てきやしない。駿はもう帰ると席を立った。久しぶりに会ったのに、散々だ。

ふらつく足を心配して、夕也が送るよと肩を支えた。いいよ、一人で帰れると腕を払いのけて、駿はその場に崩れおちた。みっともない事になったな。

駿の意識が遠のいた。

庭に白木蓮の木が植わっている。大振りのすべらかな花びらはあくまでも白く、枝を覆い尽くして咲いている。

見知らぬ少年が、その木の下で、本を読んでいた。駿は白木蓮の木の上から、それを見ている。

少年の透けるように白い額。淡く色づいた柔らかい頬。紅い唇。短く刈った髪は少し伸びかけで、癖毛なのかその先がゆるく額にかかっている。

開襟の白いシャツの袖には、紺色のイニシャルの刺繍。あれは付属中学の制服に似ている。

少年はハタリと本を閉じた。まるでそれが合図のように、木蓮の花びらが羽ばたく。駿は初めてそれが鳥だと知る。驚いて身を竦めている間に、鳥は群れて舞い上がり飛び去った。あとには新緑の羽根が萌え出る。

「なんだそこにいたんだ。かくれんぼは終わりだよ。降りておいで」

少年は駿に微笑みかける。

「また砂糖菓子をくれる? 」

「あげるから、降りておいで」

駿がするりと木から降りると、少年は駿の頬を両の手のひらで包み、唇を合わせてくる。

少年が甘い砂糖菓子を口伝てにくれる。口いっぱいに広がる、和三盆の鄙びた甘み。

「翔び立たなかった、ご褒美だよ。まだ何処にも行かせない。君はまだ片翼をみつけられないよ」

少年はきれいな二重の目で駿を見つめる。虹彩がゆっくり開き、駿は少年の瞳に吸い込まれていった。












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