トワイライト 2
妙正寺の階段の中途に腰を掛ける。階段は花崗岩でできているらしく、細かい雲母の破片が傾きかけた陽の光を吸い取り輝いている。まるでチリチリと音をたてているかのように。
階段の先にはアスファルトの道がしなやかに伸び、幹線道路を横切ってツツジの生け垣に囲まれた児童公園へと続いている。
視界を遮るものは何もなく、高い空にブランコの軋む音と子供達の笑い声が緩やかにのぼっていく。
夕方というには早すぎる。かといって昼下がりというのとも少し違う。曖昧な時の挟間に駿は腰掛けていた。
俯いて携帯に預けられているメッセージを読む。夕也からのものだ。
―今夜、楽しみにしてる。
最後にハートマークだ。使う相手を間違っている。駿は苦笑した。しかしあの夜、遠距離恋愛中の恋人同士みたいだと、ふたりの関係を形容した夕也の気持ちをはかりかね、駿は頬を上気させた。
仰向いて花曇りの空を見る。空気は昼間の緩い気温を残したまま、流れようとはせず、駿の周りで足踏みをしていた。
心地よさに、思わず目を閉じる。すると辺りが少しざわついて、わずかに人の気配を感じる。
慌てて目を開けると、境内の桜の古木が風に枝を揺らし、花房から淡い花びらを零している。それは次々と舞い落ちて、石段の面に吹き溜まる。感じた気配は桜の精霊の吐息なのだろうか。
駿は再び目を閉じる。わずかな気配は消えようとはしない。
仕事上の事とはいえ、新しい人との出会いには気が滅入る。つい必要以上に構えてしまう自分に嫌気がさす。
―今日は疲れたな。
と思った時、ふいに柔らかい風が駿の頬を撫でた。
いや、それはしなやかな細い指だった。指は頬を撫で唇で止まった。
驚きに肩を震わせて、目を開けると、隣りにこの寺の娘、真璃が座っていた。真璃は悪戯っぽく、うふふと笑った。
「驚かせちゃったみたいね。でもあんまり気持ち良さそうに目を閉じているから…。」
ちょっと悪戯してみたくなったのと真璃は言う。
真璃は幼い頃の駿の憧れだった。サラサラと流れる長い栗色の髪。愛玩犬のような黒目がちの瞳。柔らかいが弾力のある艶やかな頬。駿が境内で彼女をみかけると、時が止まってしまうかと感じるほど、愛らしい少女だった。
初恋といってもよかった。彼女が何者か、自分が何者か、まだはっきりしない稜線の上に立ち、確かにそれと気付かないまま、駿の幼い体が認識してしまった淡い胸の高まり。後になって、そういえばあれがと思う。
彼女は国立大学の付属幼稚園に通い、そのまま小中学とエスカレーター式に進学した。
境内で姿を垣間見る以外に駿と真璃との接点など少しも無かった。ましてや、野外を駆け回って遊ぶという年齢を過ぎると、彼女の姿を見る機会も無くなり、真璃の存在はいつしか駿の記憶の片隅に追いやられていった。
彼女が突然、駿の前に現れたのは、高校へ入ってからだった。
国立大学付属の高校は県庁のあるH市にあった。小さい街からそこへ進学するには、親元を離れなければならない。真璃にはそれが許されなかった。
というより、付属中の生徒の大方が、高校からは地元の県立へ通うのが普通で、真璃の家もそれに習ったのだろうと駿は思った。
駿の入学した県立M校の一年上に、真璃が居ることを知って駿は少し驚いたが、幼い日に覚えた胸のざわつきまで甦って来ることは無かった。
それまで畏敬の念で眺めていた付属中の生徒の姿も、机を並べてみると自分達とあまり変わらないと分かりほっとしたものだ。
それと同じように、真璃の存在も、いつの間にか色褪せたフォトグラフのように、薄っぺらいものに変化していた。
ただ懐かしいのは、真璃に想いを馳せていた、幼い自分自身への愛しさだけだった。
今隣りに座っている真璃も、桃色の頬はあの日のままなのに、異質の香りを纏い、無邪気な口元に駿とは違う時の流れを漂わせていた。
真璃はじっと駿を見つめていた。その唇がゆっくりと近付き、駿の唇に重なろうとした。
真璃の指先が駿の首筋に触れる。そのひやりとした感触が脳幹を震わせ、駿は一瞬身を引いた。
―違う。
そう言って何かがふたりを遮る。そうだ。駿には真璃と唇を合わせる必然性など何もない事実に怯えた。
真璃の目論みはあっさりとかわされた。真璃の瞳が憤っている。そして駿の唇を親指で強く弄びながら呟いた。
「いつも通用口から忍び込んで来て、居間を覗いてたでしょ。知ってるんだから。」
山門をくぐり左へそれると皐月の株が繁り、その奥に通用口がある。
右手には真鍮の蛇口と翡翠色のタイルが敷かれた三和土があり、通用口の奥にはいくつかの古いブリキのバケツと柄杓が並べられていて、墓参の客を待っていた。
駿は迷い子のふりをして、通用口から使われていない古い台所の土間をすり抜け、中庭に出る。すると真璃の家族の生活の場が目の当たりとなり、運が良ければ居間でピアノのレッスンをしている真璃の姿を見ることができた。
見咎められやしないかと息を凝らす。そうしているうちに、駿はいけないことをしているという罪の意識におののいてはっとなり、踵を返す。
通用口から飛び出すと池の水面が揺れ、ちいさな浮き草の隙間をメダカが微かな軌跡を描いて泳いでいるのを見つける。
駿は今しがた犯した罪を無いものにしようと、息を整えている自分をその水面に映し出す。
「私のこと好きだったでしょ。だったら何故拒むの。」
幼い頃の想いが、駿の心の中に今も息づいているとは、真璃も思ってはいないはずだ。
それが唐突にくちづけを交わしていい理由にはならない。
真璃の瞳の奥にある意地悪い真意が伝わって来る。駿にはその真意が真璃の思考の深淵のどこから湧き上がって来るのか分からない。
「僕があっさり受け入れるとでも思った?」
真璃がふてぶてしい笑みを返そうとして唇を歪めた。
「悔しかっただけよ。あの時の柊みたいに、あんたの唇がどれほど柔らかく傷の痛みを包んでくれるのか知りたかっただけよ。」
真璃は立ち上がった。マニキュアで淡い桜色のパールに染められた指先が、微かに震えていた。
真璃はくるりと背を向けると、そのまま山門へ向かって階段を上り始めた。
サンダルの低く尖ったヒールが、棘のある音を発てて遠ざかって行った。
―柊…。
葉月の兄の名前だった。真璃の口から、以外な名前を聞いて駿は戸惑っていた。
曖昧な時間は確かなものへとそう簡単に姿を変えようとはしない。
階段の下から、レッスンバックを揺らして少女がふたり、ジャンケンをしながら上がって来る。
真璃がピアノでも教えているのだろうか。
チヨコレイト。パイナツプル。ジャンケンポン。
春の風は竹林を鳴らし吹き上げる。桜の花びらが一斉に舞い散り、少女の髪に降りかかる。
次の雨で桜も終わりだろう。
この少女達も、少年達の純粋な想いを逆手にとり、いつの間にか大人びて、真璃のように偽りのくちづけを交わそうとするのだろうか。
ふたりの少女は、駿を挟んで無邪気にジャンケンで遊んでいる。薄暮にはまだ間があると思っていた。振り返ると真璃の姿はもう無い。
彼女の目論みにのっかってしまえば、面白い展開が待っていたのかもしれない。
―お前の柄じゃないな。振り回されるのがおちだぜ。
夕也に話したら一蹴されてしまいそうだ。
駿は立ち上がった。母親が、手料理の腕をふるっているだろう。
「夕食だけは家で食べなさいよ。」
と釘を刺されていた。母親なんて面倒なものだと駿は思う。
空は薄暮へとようやく色を変え始めた。時間は自分の思ったより早く流れている。
曖昧な時はやがて妖艶な闇へと姿を変える準備を始めていた。
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