硝子の面差し
すべてはあの日から始まった。柊にキスされただけで射精してしまったあの日。それに気付いた柊が、駿に恥ずかしい思いをさせないようにと夕也と葉月を遠ざけた。
けれどそれだけでは済まなかったいきさつが尾をひいている。
耳元をくすぐった駿が欲しいという柊の囁き。
それは七年前のあの日のことで、ついこの間のあの日に重なった。
駿は苛ついて空になったマグカップを床に投げ付けた。生成のホーローにヒビが入り、床に傷が付いた。
「おい、荒れんなよ。そんなに気にさわったか」
「僕にトキメいたんなら、キスぐらいしてみる? 」
マグカップを拾おうとしていた祥太が、床に視線を落としたまま、低い声で言った。
「君には恋人がいるんだろ。悪いと思わないか」
「愛に確信が持てるまで待ってろなんて、ふざけてるよ。確信ってなんだ」
「君はお子様だな。愛なんてなくてもセックスはできる。俺だって気持ちがなくても、君とキスくらいはできる。さっきそう言ったよな?」
「そんなの、本気じゃない……」
駿はうつむいた。心が揺らいでいる。それが情けない。
「もしかして、君の相手はストレートか? 波留や尾崎さんみたいなバイじゃないだろうな」
「バイって……」
「男とも女とも関係を持つ事にこだわらないんだ。チェンジできる。もしそうなら、君は辛いな」
祥太が駿の想いを全て見透かしてしまう。
「君は正直だな。辛いって顔に書いてある。でも相手のことを本気で好きなら、待ってやってもいいんじゃないのか」
記憶を閉ざして七年待った。時間は逆行し、駿は柊の部屋で打ち捨てられたままだ。十六歳の駿はあの時の柊の選択を許してはいない。
柊からメールが入る。まだ起きてたら、連絡しろ。声が聞きたい。なんて、命令形だ。
絶対許さないと思いながら、駿は柊のアドレスを呼び出す。
恋愛なんて矛盾と誤解で成り立っている。好きだよ、愛してる。なんて嘘つけ。でも嬉しいのはどうしてだろう。
携帯を耳にあてている駿は、まるで恋愛小説のヒロインだ。
「ねえ、柊。今、何処にいると思う?」
飲み過ぎて、波留の部屋へ泊まることを舌足らずに話す。
「僕も好きだよ」
波留の名前に柊の言葉が少しつまづいた。何か気まずいことがあるのだろうか。それでも柊が機嫌を損ねていないようなので、いつも通りに好きだよと言って携帯を閉じた。ありきたりの恋人同士の会話だ。
苛ついて当たり散らしていたのは、誰だっけと祥太が肩を竦めた。
「ご馳走様だな。柊って三枝柊? 柊の離婚の原因は君か」
祥太と柊とは珠希の店で働いていた時期が一年重なると聞いた。
「柊にはずっと心の中に違う人が住んでいる。真璃に対する気持ちよりずっと純粋で、それが悔しいって言ってたな」
祥太は真璃からそう聞いていた。
「真璃も不倫に走るわけけだ。敵が男だなんて」
「真璃さん、不倫なんてしてないよ。少なくとも柊はそう思ってる」
「不倫相手がそう言ってるんだから、これほど確かなことはないさ」
祥太はソファーによりかかりカップラーメンを啜りながら、事も無げに言った。
「相手って……?」
「俺。柊のやつ、真璃に騙されてる」
不倫しているのか、していないのか。あやふやにしておく。そしてやはり不倫はしていないと思わせる。真璃は可哀相で健気な女を演じる。そんな手の込んだやり口。意味があるのだろうか。
「プライドだよ。君と柊のどちらかがズタズタに傷付かなければ、終わらないね。彼女の茶番は。そのためには、自分が傷付いたってかまわないんだ。捨て身の女は怖いよ。気を付けるんだな。真璃に捨てられた馬鹿な男からのアドバイスだ。ラーメンのびるぞ」
うながされて駿もラーメンを啜る。祥太は夕也に似ている。何処か暖かい。何故か優しい。
鼻の奥が熱くなり、泣きそうになる。ラーメンの湯気を鼻で啜り、駿はそれをごまかした。
「柊には言わないでおけよ。あいつは真っ直ぐな奴だから。君は何も知らないことにしておいた方がいい」
それならば、聞かせなければいいのにと駿は思った。本当に知らない方がいい事もある。柊と真璃の関係なんか。
波留が戻って来た。風邪を引くから、向こうの部屋のベッドへ入って寝ろと、背中を揺すられ駿は目が覚めた。
ソファでそのまま眠ったようだ。毛布を掛けてくれたのはたぶん祥太だ。
祥太の姿はすでになかった。時計は午前三時をまわっている。
部屋には、ダブルのベッドが中央に置かれている。これを占領してしまうのは気が退けた。
「僕はソファーでいい……」
口ごもりながら、部屋を見渡す。左手には作り付けのクローゼット。右手のベンチチェストには、小さな仏像と香炉。写真立ての中で微笑む、童顔の少年。
駿はその微笑みに見覚えがある。
「瑛真の膝には僕が座っている。左側には柊がいて、この写真を撮ったのが波留……」
遥か幼い記憶が、遠い魔法円からとうとう蘇る。
――瑛真は、僕が殺した。僕が見殺しにした。
駿の指が硝子の面差しをなぞっていった。
|