体の中の海
波留の部屋で、駿は若いバーテンとふたりきりになった。バーテンは祥太と名乗った。
「酔い覚しに珈琲どう? 勝手知ったる他人の家ってね」
祥太は手際良く珈琲をドリップで淹れる。無漂白の濾紙から珈琲のしずくがサーバーにたまる。キリマンジャロが馥郁と香る。
「ひとつ聞いていいかな」
祥太は尾崎の勘違いを真に受けていた。駿が本当に波留の恋人なのか気になるらしい。
「まさか」
こんな話ばかりだ。うんざりする。思わず返事がぞんざいになってしまった。
「気を悪くした?」
「別に……。だけど、そんなに興味ある?」
「正直あるよ。男が男を愛するって、どんなだろうって」
それは自分が教えて貰いたいくらいだ。どこが違うって、どこも違わない。男と女が愛し合うのと何も違わない。
「トキメク対象が違うだけ」
「じゃあ、俺が今君にトキメいているのは、なんだろう。君が女の子だったら、夜中に部屋でこんなふうにふたりっきりだっら、たぶん抱き締めてると思うよ」
ずいぶん際どいことを シレッとした顔をして言う男だ。
「あのさ、ウィンクなんか、いまどきダサイし。止めれば」
あのウィンクを見て、キザな奴だと思った。駿は話題を変えたくて、祥太が自分に放ったウィンクの滑稽さをなじってみたくなった。
「あれ、俺の特技。女の子はあれでポッとなるんだよ。次また店に来てくれる。俺は君が女の子だと思ったから、気を持たせてみたんだ」
祥太は自分の魅力を知っている。イケメンなウィンクされれば、普通の女の子ならウレシクなってしまうだろう。
あいにく駿は女の子じゃない。女の子に間違われたことも、女みたいと言われたこともない。体格にはいまいち自信がないが、どう見たって男には違いなかった。
中学生や高校生の時ならまだしも、二十四にもなって女の子と言われたら胸クソ悪い。
「相手を選べよ。それに僕にトキメク? おかしいんじゃないの」
駿の言葉の棘は、野花の茎を覆う繊毛のように柔らかい。それは誰かにまとわるために有り、他人をむやみと傷つけるためのものじゃない。祥太は駿にまとわりつかれるのをどうやら楽しんでいるようだ。
駿の棘などちっとも痛くないと祥太はそれを手のひらでつかむ。そして自分の興味へと話題を戻した。
「君は気付くべきだよ。人を惑わすタイプだってね。尾崎さんもそうだし波留だって、君への接し方が微妙だからさあ。俺の大切に取って置きたい女。みたいな」
駿は暖かい珈琲を啜りながらリビングのソファーに座った。
「女って言うなよ」
駿が拗ねる。子供のようにむきになるのを面白がって、祥太が小さく声をたてて笑った。
「君はちょっと見フツーの男の子なんだけどなあ。しばらく見てると、どこかなまめいていて匂やかだな」
祥太は再びケトルに湯を沸かす。キッチンのシンクの上にある天吊り戸棚を開き、「小腹空いただろう。食わないか」とカップラーメンを取り出した。
「君がトランスじゃないのはわかってるよ。男として男を愛したい。そして愛されたい。でもそれってハートは女ってことじゃないかな」
祥太に言われても、駿は納得いかない。ハートだって女じゃない。身体の構造が違う以上は、女と同じ思考回路は持てないはず。駿は子宮と名のつく海を持たない。種を保つため生命を体内で育むという本能的感覚を持つのは不可能だ。
「そうかな。君はきっと体の何処かに海を隠し持って生まれて来たんだ」
その海に引き寄せられるのは、バーチャルの地図を広げあてどない航海を強いられている男達だ。男達は幻の海に溺れる。駿は子宮を持たないセイレーンだ。現し世のほんもののセイレーン達は、惑わされる男達に悲鳴をあげている。こんなはずでは無かったと。子宮はここにあるのだと。
音楽も何もない部屋に、沸騰を知らせるケトルの笛の音が甲高く鳴った。
「君は女を抱いたことがあるのか」
「ある」
「どんなだった」
「普通……」
じゃなかった。でもそんなことを言ってしまえば、自分が予期せぬイキモノのようで、この部屋で呼吸しているのが辛くなる。だから敢えて普通だと言った。
「ほんとに? 違和感とかなかったんだ」
始めて会った奴と、何故こんな話をしているのか。尾崎と同じように、駿も誰かに聞いて欲しいんじゃないか。そして否定でも肯定でもいいから裁定を下して欲しいのだ。
「ごめんな。変なことばっか聞いて。俺の周りにそういう人、ちらほらいるから」
駿は思い出していた。あれを違和感というんだろうか。
始めて女の子と付き合ったのは、大学へ入ってからだった。
「私達、付き合わない?」
彼女からの提案だった。いつも一緒に居たいなんて熱い気持ちがあったかといえば、たぶんなかった。でも、どこかに確かに惹かれていた。
彼女は駿よりふたつ年上だった。なんとなく子供っぽいところがあった。それに痩せっぽちで手足がスラリと長い女の子だった。短かい髪は染めもせず、唇などにも決して人工の色を置かなかった。
駿がふたりいるみたいでへんな感じだと、友人から言われた。何言ってんだよと笑い飛ばしながら、駿は図星に背筋が震えた。
彼女が駿を選んだ理由は、男じゃないから。
「駿君の男臭くないところが好きね」
彼女はそう言った。彼女の提案を素直に受け入れた駿はの心の中の事情に、自らを納得させた。
――君に女を感じてないから、どうにか受け入れられる。
決して口にはしないが、どこかでそんな感覚があったのは確かだ。
ベッドインまでの距離はそんなに遠く無かった。駿と彼女は戯れ合うように抱き合った。
仲良しだったと今でも思う。エロチックな関係が発生しても、ずっと仲良しのままでいたかった。
駿は最初から彼女に自分を投影していた。尖った顎、細い項、わずかに膨らんだ胸。身体は少年のようで、駿を受け入れる部分だけが女だった。
彼女を抱きながら、柊に抱かれている自分を夢想する。あのキスの後に踏み越えるはずだった当たり前の行為に思いを馳せる。彼女のように自分はこんな風に抱かれるはずだった。
彼女は無邪気に駿に愛されていると信じていた。だから彼女は髪を伸ばし、唇に淡い色を置いた。付き合いが濃くなるに連れ、彼女は女であることを強調し始めた。彼女は駿ではなくなった。
駿は彼女と手を繋ぐことが苦痛になった。頬を寄せると化粧品の匂いがしてキスができなくなった。
寄せてあげてのブラも、魅惑的なものに違いないが、駿はそれれを身に着けている彼女を想像するだけで萎えてしまった。
そしてとうとう彼女から逃げたくなった。
「ゴメン、僕、君の事、もう抱けない」
「何よそれ。おかしいんじゃないの」
「僕はおかしいよ。君を抱きながら、抱かれる自分を想像してる。でなきゃ、勃たないし、いかないんだよ。笑えよ」
駿の告白に彼女は蒼褪めた。視線は駿を憐れみ、さげすんだ。彼女は泣かなかった。唇を噛んで真璃と同じ顔をした。
彼女の顔も名前も覚えていない。いくら思い出そうとしても、駿に抱かれているのは駿だった。倒錯している。愕然とした駿は、しばらく立ち直れなかった。
友人は、振られてへこんでいると解釈してくれた。そういうことにしておけば、駿にも都合がよかった。
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