碧夜の翼
駿はアイラに酔ってしまった。なんだか喋り過ぎる。
「奥さんを配偶者なんて呼ぶのも、どうかと思います」
「世間並の体裁を繕って、結婚なんかした俺が悪いさ。妻と呼ぶのは気が引けるんだ。でも子供を産んでくれたことには感謝しなけりゃ」
「何ですかそれ。ムカツクな」
「ムカツク……か」
「どっちにしろ失礼な話じゃないですか。尾崎さんなんか全然可哀相じゃない。それに愛するラインが違うなんて馬鹿げてる」
駿は柊が真璃へ抱く思いと、自分へ迸って来る感情が、別のラインにあるなんて思いたくない。
もしそうなら、柊は自分と真璃を同時に愛せるということだ。
七年前にキスを交わした時の瑞々しい心を持ちながら真璃と結婚した柊は、ふたつを並べて走らせて来たのだろうか。
もし柊が子供が欲しいなんて思ったら、ふたりの関係は壊れてしまうのだろうか。
子供を産んでくれて良かったなんて、尾崎は酷い事を言う。
駿がいくら柊を愛していると言っても、彼の子供を身籠もるなんて出来ない。
尾崎から離れていった恋人の哀しみが駿にも伝わってくる。彼の心が痛い。
「尾崎さんは間違ってる」
駿は力無く呟いた。
「そうだな。俺は間違ってる。誰かに言って欲しかった。駿なら言ってくれると思った」
尾崎はそう言うと、駿のアシンメトリーに撫で付けた前髪をクシャクシャと撫でた。
「マスター。ピアノいいかな」
「どうぞ。尾崎さんのピアノ、久しぶりですね」
駿はその声にコメカミのあたりがピクリと反応した。
夕闇のアスファルトに吸い込まれた波留の声が、まだ駿の耳介に残っている。
カウンターに座った時から、聞き覚えのある声だと思っていた。気になって、つい視線が走る。向こうも同じらしく、時折それが重なった。
ゆるくパーマネントされた髪をソフトなリーゼントにまとめた波留は、その彫りの深い顔をこちらに向け、柔和に頬笑んだ。
隣りが空席になり、店の奥からマットなピアノの音が鳴り始める。
鍵盤の白と黒に絡む尾崎の指。眉間に寄る皺は彼の無くした恋がひとつやふたつではないことを教えてくれる。
彼の求めた安息は仮初で、得るのはいつも不毛な結論だったに違いない。
マスターが、駿の方へ体をわずかに傾けた。
「あいつはお前の酒の限界を知ってるぜ。ほどほどにしとけ」
「やっぱり。波留……。此処、叔母さんの店?」
「知らずに来たのか」
「叔母さん、僕に生業の話は一切しないから」
「しないんじゃなくて、お前が聞かないんだろう」
駿は人付き合いの拙さを指摘されると苦しくなる。胸の奥が熱くなってきた。それを悟られたくなくて、グラスの酒をあおる。喉が締め付けられ、顔が歪む。
「叔母さんともっと話せっていうんですか」
「たまには尋ねてやれよ。あの人も独りだから寂しいんだ」
「僕……」
「苦手か? 俺もあの人は得意じゃないがな。それより、これ以上飲むな。強くないんだろ。帰れなくなるぞ」
ピアノが止み、パラパラと拍手が起きる。
「すごいですね。ジャズが弾けるなんて」
「見直したか?それより、一晩どうだ。味見させろよ」
「僕はそう簡単には墜ちませんよ」
「それはどうかな。そろそろ立ち上がれないはずだぞ」
尾崎は本気じゃない。際どい会話を楽しんでいるようだ。
最後の一杯だとアイラをワンショット、一気に空ける。
顔色ひとつ変わらない尾崎に比べ、駿は目のあたりがほてっている。気怠くて眠い。
「だけど駿も人が悪いな。マスターと顔見知りなら、そう言えばいいのに」
「偶然なんです」
「誤魔化すなよ。、お前の相手がマスターなら手は出せないな」
波留と親密な間柄に見えたのは、ふたりに瑛真という共通の秘密が存在するからだろうか。尾崎はそれを敏感に感じ取ったのだ。
否定するのは億劫だった。
「尾崎さん。僕、友達紹介しましょうか。ケッコウ可愛い子ですよ」
駿に悪戯心が湧き上がった。店のペーパーコースターに葉月の携帯番号を書いて、尾崎に手渡した。
「気が向いたらな。マスター、駿は俺の可愛い部下だから、泣かせないでくれよ」
尾崎は駿の背中を叩くと店を出た。否定するべきだった。置いて行かれても困る。この辺りは不案内だ。
「勘違いして行ったぜ。いいのか独りにされて」
「少し酔いが覚めたら帰ります。駅の方向くらい分かりますから」
そのつもりだったがカウンターに突っ伏して眠ってしまった。
どれくらいそうして居たのだろうか。ポケットの中で携帯が鳴る。
――バカヤロウ!てめえ、今度帰って来たら、ぶっ殺す!
それだけ言うと携帯は駿の言い訳を待たずに切れた。尾崎がさっそく葉月に電話したらしい。
バカヤロウと言いたいのは駿の方だ。この間のキスの代償だと思え。
肩が寒い。思わず震えた。酔いが覚め始めている。
店にはすでに客もなく、照明も落とされている。店の看板まで眠ってしまっているなんて。珠希の店だから許された行為だ。
「波留のマンションすぐそこだから、案内するよ。泊まってけって」
駿は波留に甘えることにした。二人で店を出る。
夜の天蓋は深い紺碧に沈み、ふたりの頭上では恒星が瞬いている。
樹木の葉群は黒々とした影を作り、澄んだ夜空にコントラストを与えていた。
その影から月のを目指し、今にも羽根を広げて飛び立つものがあるように思えた。
あるとしたら、それは目隠しをされた片翼の天使だ。
やみくもに今生を飛び出したはいいが、高みに届かないうちに失速してしまう。
翻り墜ちてくる一枚の灰白色の羽根は、駿の無くした片翼の羽根。
「変だな。鳥の羽根なんて」
駿は夜空を見上げた。樹木の遥か上で、天蓋がぐるりと回る。
夜のしじまに鳥の啼く声が鋭くギャアと響いた。 |