愛するライン
大通りから横道に逸れる。ちょっと良いバーがあるからと、界隈を往来する野良猫のように、尾崎はスルリと隘路を抜けてゆく。
会社での尾崎は何でも有りのアウトロー的存在だ。それでも売り上げはトップなので、皆から一目置かれていた。新年度からは営業部の部長だに昇格した。
尾崎はパンツの後ろポケットに、右手の指先を差し込んで歩くのが癖だ。長身のコンパスで、少し前のめりに先を行く。
駿はすぐ後ろを遅れ気味に歩く。ダブルウエストのジーンズのループに差し込んだベルトのバックルが、足早になる度カチャリと音をたてる。
「だけどお前、売り上げ落とさないないなんてたいしたもんだな」
「まだ尾崎さんから引き継いだばかりだから、これからです」
「俺の後は大変だからな。お前もやっぱりそう思うか。皆で陰口叩いてるんじゃないのか」
駿は嘘をつくのがへただ。
「そんなことないです」
と逃げてしまえばいいのに、つい正面から構えてしまう。なんて言えば尾崎の自尊心を傷つけないで済むかと言葉を選んでいるうちに
「お前も正直だな」
と笑われてしまった。
勾配のゆるい坂道の中途に、煉瓦張りの外壁をまといその店はあった。
‘Silver Cat’
扉の上に筆記体で光るオレンヂ色のネオンサインが、暖かで寂しげでどこか懐かしい。
尾崎は重厚な扉の把手に軽く手を置く。半開きになった扉を肩で支え、駿に入れと顎で促した。駿は尾崎の胸元をすり抜ける。
尾崎のシャツの衿元から彼の吸う煙草が体温に溶けて薫る。柊とくちづけを交わした後に鼻腔に残る淡い香りと似ていて、駿の脊椎がビクリと痺れた。
チョコレートブラウンに心が解けそうな店の中。カウンターの内側だけ仄かに明るく、キャラメルのミルクベージュに攪拌される。ズラリとならんだ酒瓶は琥珀色に輝くハードキャンディーのようだ。
右手にはいくつかのボックス席。店の奥にはステージがあり、週末にはジャズのフュージョンが楽しめるらしい。
平日の今夜は、用無しのグランドピアノが店の隅でビターに沈んでいた。
尾崎は迷わずカウンターに座った。駿はカウンターが苦手だ。柊と葉月の店ならともかく、リラックスしたい時間にバーテンといえど他人と相対して酒を飲むなんて、考えられない。
尾崎は駿の襟足に長い形の良い指を滑らせた。駿は尾崎の不意打ちに驚いて肩を引いてそれをかわす。胸が熱くなり瞳が潤んだ。尾崎は男の可愛がり方を熟知しているらしい。
尾崎は意味ありげに笑うと、駿に何か口あたりの良いビールをと、バーテンにオーダーする。
駿の前にはベルギービールのヒューガルデンのホワイト。グラスの中で小麦の黄金色が泡になって弾ける。
普段は一滴の酒も嗜まない駿だ。ビールの苦味さえも体調によっては受け付けないことがある。
「これ美味しいですね」
癖のない優しい風味が、喉の奥をふわりとくすぐって落ちてゆく。
尾崎はそうだろうと満足げに頬を崩した。
尾崎はモルトの愛好者らしく、アイリッシュウヰスキーのグラスを傾けている。
胃の腑へ広がるハーブの薫り。そして微かに口腔に残るフルーティーな味わい。どちらも逃さないと、尾崎は目を閉じ喉を震わせる。
「アイラが最近になって注目を浴びてきましたね。銘柄を増やして正解でしたよ」
若いバーテンが尾崎に話かける。アイリッシュウヰスキーをアイラと呼ぶらしい。駿に酒の蘊蓄は分からない。
「俺にはどうも寂寥の味だな」
バーテンが笑みをその頬に含ませた。
「新しい恋人ですか」
と尾崎に小声で尋ねる。
「部下だよ」
バーテンがしまったと一瞬表情を緊張させた。
「すみません。よけいな事を言ってしまったようですね」
「大丈夫だよ。こいつ知ってるから」
「そうでしたか。尾崎さんはほんとうに気に入った人しか連れて来ないから。てっきり」
バーテンはほっと胸を撫で下ろしたように相好を崩した。
営業用なのだろうが、人懐こそうで客の人生の失態を 全て受け入れてくれるような笑顔だ。
「恋人とはうまくいってるんじゃなかったんですか」
「なわけないだろ。配偶者とは別居中。恋人とはつい最近別れた。二兎追う者は一兎をも得ずだ」
「なんで嘘なんかつくんですか」
「その方が格好いいじゃないか。でも現実はそんなに甘くない。全て承知で付き合い始めたはずだったのにな。俺に妻子があることに最終的には拘った。愛していたのに」
「尾崎さんは嘘つきだな。奥さんのことも、子供さんのことも愛しているくせに」
「駿、両方を同じラインに並べるなよ」
愛のカテゴリーが違うと、尾崎は言いたいようだ。
「最初はそのつもりでも、そのうちラインは交わって重複すると思う。そしたら尾崎さんは家庭を取る。そのために家庭を持ったんでしょ」
尾崎はグラスを見つめた。琥珀の光りが瞳に映っている。
「恋人に子供の話ばかりすると言われたよ。俺は黙るしかなかった。男と愛し合っても結局は長続きしないもんだ。行き着く形がないからな」
尾崎はグラスの中の鬱屈した感情を飲み干した。
店に流れるソウルフルなヴォーカルが、コルネットの音色のように切ない。
「尾崎さんは狡い」
敵対する愛の形を どちらも手に入れようなんて。どれひとつ手に入れられなくてもがいてる自分のような人間に対しての冒涜だ。
「あいつもそう言ったな」
行き着く形が結婚や子供の誕生ならば、そんなものは信じるに値しない。いつでも放棄される形など掃いて捨てるほどあるのだ。それを逃げ道にして言い訳している尾崎は狡猾になりきれないダメ男だ。
「相手が男か女かなんて関係ないですよ。尾崎さんは誰にも誠実じゃない。可愛いのは自分だけでしょ。恋人に振られたのも奥さんとの別居も当然の酬いです」
尾崎がカウンターにグラスを置いた。カツンと音が響く。尾崎は滞っている泡沫を吐き出してしまいたいだけだ。
「配偶者から言われたよ。男を抱くのは構わない。偏見もない。ただ騙されていたのが気に食わない。離婚はしないが一緒には暮らせないとね。はっきり言やあいいのに。男同士でセックスするなんて虫酸が走ると」
そして遂に、わだかまっている思いを吐き捨てた。その露骨さが、真璃に罵られたあの日の現実を駿に突き付ける。
ビールが空になり、新しいもう一杯が、駿の前に出される。
さっきのバーテンがそれにレモンスライスの小舟を浮かべ、片目をつむって船出の合図する。
「どうして結婚したんです。奥さんの事を愛したからそういう結論を出したんでしょ」
「そうだな。愛か。愛ねえ。便利な言葉だな。そんな言葉で一括りにされちゃあな」
結婚したのも、子供を設けたのも、愛という感情抜きには考えられない。
「なら、どうして男を抱くの。そんな危なっかしい事しなくても、浮気なら女を選べばいいじゃないですか。それならきっと奥さんも許してくれたんじゃないの」
「じゃあお前に聞こう。何故男に抱かれるんだ」
「それは……」
駿は言い澱んだ。自分ではまだ明確な答えが出せないでいる。
「持って生まれた業だな。お前の場合は特に」
駿が二杯目のビールを飲み終える。試してみないかとアイラを薦められ、グラスにゆれる液体を口に含む。
ウイスキーが蒸溜される過程で醸し出される複雑な味わいが駿には理解できない。燃えるように熱く、液体はみぞおちに滴り落ちていくだけだった。
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