二十三話 High way
人も車も居ない、山の坂道をバイクで登る。
エンジン音を気にせずに口ずさむ歌は、くるりの「ハイウェイ」。この歌は確か兄貴が教えてくれた歌だった。
事は数時間前に遡る。家で雨乃とゲームをしていたら、俺のスマホに一本の着信が入った。相手は兄貴、その内容はいつも通りと言えばいつも通りだった。
『あー、夕陽? 俺だけど、今日は暇か? 今、こっち来てんだけど会えねぇかな?』
そうして兄貴から着信が来た直後、大雨の予定を出していた天気予報は見事に外れた。まるで兄貴を待っているように、雨を降らせるのを止めて、鉛のような空には所々日差しが伸びている。
そんな訳で、家から自慢のバイクを走らせ指定の場所に向かっている。雨の匂いのするアスファルトが妙に体に馴染む。
「っと、ここか」
街外れにある展望台のある公園、そこが集合場所。
駐車場に乗り上げると、バイクに体を預け街を一望している兄貴が見えた。
エンジン音に気づいたのか、俺を見つけるなり片手をあげる。
「悪い、遅れた」
メットを外しながら、兄貴の隣に並ぶ。
「いや、いいさ。急な呼び出し悪かったな夕陽」
「暇だったし別にって感じだよ。久しぶり、兄貴」
紅星 夕帆、二十一歳職業は旅人。
収入は安定しているようで、神奈川の方にマンションを借りている。なお、金の出処は不明。
「ははっ、半年ぶりか? 元気だったか」
「あぁ、俺はな。兄貴はまだ旅人とかやってんの?」
「ん? まぁな、俺みたいな社会不適合者は旅人ぐらいが似合ってんのよ」
そう言ってケラケラと笑う。
「面白いギャグだな兄貴、ギャグセン上がった?」
「え、どこで笑ったの今?」
「そりゃ」
『俺みたいな社会不適合者』って所に決まっているだろう。
「兄貴が社会不適合者って所だろう。何やらしても基本的には人並みより上に出来て、それでいて驕らない、人の輪に入るのがうまくて、兄貴の周りには自然に人が集まる。そんな人間の何処が社会不適合者だよ」
「おぉ、随分な高評価! だけど、俺はそんな立派な人間じゃねぇよ? 基本的にはお前と一緒で宙ぶらりんだ」
「誰が宙ぶらりんだ誰が。まぁ、それに兄貴と俺じゃ宙ぶらりんでも種類が違うだろうさ」
「とか言いつつもお前は全くと言っていいほどに俺に劣等感を抱いてないよな」
「当たり前だ、俺と兄貴は別だよ。後悔も反省もするけどさ、劣等感ってのは抱かないようにしてんのさ。誰かより『劣ってる』ってのを客観的に見つめ直しちまった時点で、ソイツに追い付くのは無理になっちまう」
劣等感は抱かない、絶対に。
兄貴に追いつくことが出来なくなってしまう。
「ははっ、我が弟ながら末恐ろしいなお前は」
ポケットから煙草の箱を取り出して笑う。
「あれ、煙草吸うのか?」
「ん? あぁ、実は一年前から吸ってた」
煙草に火をつけて暫くして白い煙を口から吐き出す。
煙いが、この匂いには慣れている。
「それって、親父が前吸ってた銘柄だろ?」
銘柄はマルボロ。
この匂いは何だか懐かしい。子供の頃に良く親父の服からこの匂いがしていた。 今は禁煙してるらしいが。
「親父のは緑、俺のは赤だよ」
「なにかちげぇの?」
「いや、緑吸ったことないから知らん」
適当に嘯きながら、兄貴が笑う。
「姉貴達や親父達には会ったのか?」
「あぁ、もう会ってるよ。今回は夕陽が最後だ」
そう言ってクシャクシャと俺の頭を撫でる。兄貴にとっちゃ、俺がいくつになろうが弟には変わらねぇんだろうな。
「みんなどうしてた?」
ふーっと白い煙を吐きながら兄貴が頬をかく。
「母さんは締切に追われてた、新作発表が近いとかなんかで缶詰だったよ。親父は基本変わらん、変人だった」
連絡とってねぇから分かんねぇな。
俺の家族って基本的にみんな適当だしなぁ、親父達は雨斗さん達から俺の話聞いてんだろうし。
「姉貴たちは?」
脳内に魔王を思い浮かべて、全力でそれをかき消すように頭を振った。やめだやめ、考えただけでもゾッとする。
「ありゃもうダメだ」
真顔で実の妹に対してとんでもないことを口にする。
「大学は奴ら2人の王国だよ」
「マジかよ」
「あの二人はどこ目指してんのかね? つか、初めて見たぞ」
「何が?」
「親衛隊ってやつ?」
俺の姉貴達はアイドルでもやってんのか!?
「大学内に入ってさ、食堂でアイツら見かけたから声かけたら取り囲まれた」
「兄貴、それ親衛隊じゃなくて武装集団だよ」
ちょっとマジで姉貴達は何やってんだ!? よし決めた、会わない。
「アイツらから伝言だ」
「やめろ! 言うな! フラグ立てた俺も俺だけど! 言わないで!」
必死の抵抗虚しく、兄貴は煙草を簡易灰皿に直しながら口を開く。
「「お姉ちゃん達、今度遊びに行くからね! お楽しみに♡」だとよ……あれ、ハートじゃなくて星だったかな?」
あぁ、死んだ。
雨乃も俺も心が死んだ、嫌だなぁ、会いたくないなぁ。
「お前、嫌いすぎだろ。言っても姉だぜ?」
「俺はアレが姉ってのが嫌だ」
「俺は良く知らんけど、昨今は姉萌とが言うジャンルがあるそうじゃないか。旅先で友達になった奴が力説してたぞ? 話聞く限りじゃお前にベタベタする姉二人は充分姉萌ってやつじゃないか?」
アレだよ、家畜やペットに向ける愛情と一緒だよ。
「きゃー、可愛い!」ぐらいの感覚で奴らは俺の心を掻き乱して引っ掻き回して爆笑する。その感覚はフリスビーを投げて犬に取りに行かせるのと飼い主と何ら変わらない。
「やめろ、マジやめろ。萌えねぇよ、燃えるのは俺のハートだけだよ。つか、妹の方がいいわ! 妹だったらまだ許せたかもしんねぇ!」
「良く分からん」
ケラケラと笑いながら兄貴はスマホに入ったメッセージに返信を返す。
まぁ、そんな化物のような姉二人からしても『紅星 夕帆』と言う人物は脅威である。絶対に超えられないと明言している。
生まれながらの天才、天に愛され神に愛され人に愛される天才。
それが紅星 夕帆。
若干二十一歳にして思考回路は悟っていると言ってもいい。己の未熟さを理解して克服して、己の醜さと向き合って受け入れて、己の弱さを知って、取り繕わずにさらけ出す。
そんな人間、家族の俺達でもってしても『完成されている』としか言いようがない人間。
「どした、じっと見つめて」
「兄貴はすげぇなって」
「俺は凄くなんかないさ、過大評価はやめとけよ」
そう言って、バイクの座席の下から缶コーヒーを二本取り出す。一本を片手で器用に開けながら、もう片方の手で俺にもう一本を放る。
「飲めたか?」
「お陰様で」
カシュッとプルタブ特有の音と共に、口の中に流し込む。
雨が上がった後のアスファルトの匂いと口の中に広がる苦味が、妙にマッチする。
「そういやさ」
「なに?」
コーヒーをちびちび飲みながら兄貴が口火を切った。
「お前ってまだ雨乃が好きなの?」
「ゴッ……!」
変な声と共に缶コーヒーを吹き出して、咳き込みながらむせる。
「うん、だいたい分かった」
「苦しぃ、変な気管に入った」
「なーにしてんだお前は」
背中を摩ってもらいながら、やっとのこと息を整える。
「唐突に人の呼吸乱すのやめろよ!」
「初心だなぁ」
その顔やめろ、親父にそっくりだ。
「まぁ、いいや。話のついでに言うけどさ」
「うん」
「俺、彼女できた」
「ブッッッッ!?」
また吹き出して、むせる。
兄貴に彼女!? 性欲皆無の兄貴に彼女!?
「あぁ、みんなそんな反応だった。母さんも親父も夕璃も夕架も」
「あったりまえだ! 兄貴に彼女!? 人類か!?」
「え、なにそれ酷い」
兄貴に軽く頭を叩かれる。そして、兄貴はスマホを素早く操作して一枚の画像を見せてくる。兄貴の彼女と思われる女性の写真だ。
「いやー、久しぶりにマンション帰ったらさ。たまたまその日に隣に今の彼女が越してきてさ。挨拶に来たのよ」
煙草片手にことの経緯を話し始める。
「んで、一目見た時に「あ、コイツだ」と思って告白した」
「ナンパじゃねぇか」
「いやぁ、ビビっと来たね。この女しかいないと思ったね」
「最初はドン引かれたろうに」
「普通の女ならな。アイツは違った」
「どんな反応したの?」
やっぱり兄貴が惚れる相手だから聖人君子の様な女性なのだろうか?
「ニッコリと笑って「お断り」って言いながら頭突きされた」
どうやら、常識の通用する相手じゃないらしい。
「なんだその微妙な顔は」
「いや、予想の斜め上だなぁと」
初対面の男に頭突きとか中々やばい人だな。
「よく付き合えたな」
「うん、謎だよな。頭突きかまされた後にさ、スマホ出せって言われたの、んでスマホ出したら連絡先くれた」
「変わってんなぁ」
「変わってんだろ? んで、一週間で付き合った」
頭おかしいな、この人達。アグレッシブ過ぎるだろ兄貴。
そういや、親父も23回告白したって言ってたよな……? あれ? 我が家の家系って意外にアグレッシブ?
おい待て、じゃあ俺はどうなる? 散々チキってる俺はどうなる? あれか? 実の息子じゃないとかが物語の後半で明かされるのか?
「お前、馬鹿な事考えてんだろ」
「……いや、親父も兄貴もアグレッシブすぎて俺達は血が繋がってないんじゃないかと」
「何言ってんのお前」
「は?」
「お前も十分アグレッシブだろ? 並の神経じゃ出来ねぇよ、付き合ってもない好きな女と一つ屋根の下で暮らして手を出さない挙句に、向こうはお前の思考を読めると来た。そんな状況を甘んじて受け入れてるお前も充分やばいよ」
思考が固まった。
……言われてみりゃそうだ、甘んじて受け入れるが好きな女と一つ屋根の下とはこれ如何に? 挙句雨乃は俺の考えてることがわかるんだぞ? つか、なんでそんな大事なこと失念してた。
「今気づいたのかお前は」
「どうしてくれる!? アレだぞ、お前アレだぞ! これ変に意識しちゃうやつだぞ! 責任取れよ兄貴ぃぃぃ!」
「乙女かお前は」
「あぁぁぁぁぁ! 駄目だ、意識しちまう!」
くそ! 自覚するとキツイぞこれ。どんな面して帰ればいい!?
「つくづくお前は面白いよなぁ、見てて飽きねぇもん。まぁ、アレだよ、お前はお前らしくあれよ夕陽。今更気にしたって始まんねぇんだから」
そもそも俺はスタートラインに付いているのだろうか?
「いいか? 雨乃がお前と暮らしてるってことは、少なからずお前のことを好いてるって事だ。じゃなきゃ、一緒に暮らさないし飯の用意もしない。そこんとこ忘れんな」
「……うっす」
「まぁ、お前はお前らしく頑張れ。若いうちはな、もがき苦しんで足掻く位が丁度いいんだよ」
「兄貴も充分若いだろうが」
「ん? そうかもなぁ」
「精神年齢高すぎだろ兄貴は」
俺がそう言うとニヤリと笑う。
「楽しいか? 今は」
唐突に真面目な雰囲気で兄貴が問いかける。
「あぁ、死ぬほど」
「ははっ、そうかそうか」
バンバンと俺の背中を力強く叩く。
「お前はそのままでいいよ夕陽。無理して変わろうとかすんじゃねぇぞ? お前はありのままが一番輝いてんだからな」
「無理して変わろうとかすんな……ね。変わらなくていいのかなぁ俺って」
不意に、暁姉妹の顔が頭をよぎる。
「人には向き不向きがあるってのは俺が言わんでもお前は分かってるだろ? そしてお前は『変わる』ってことがとことん不向きな人種だ」
街を見渡しながら、やけに透き通る声で兄貴がそう言う。
「お前は、周りを変えていくんだよ夕陽。悪い方向にじゃねぇ、いい方向にだ」
「……兄貴ならともかくとして、俺にはそんな大層な力はねぇよ」
「いいから、そう思っとけ。思わなきゃ、願わなきゃ、今は変わんねぇぞ? お前っていう芯は変えなくていいんだよ、無様でも醜くてもな、それがお前なんだから」
「それが俺……?」
「今を変えろ、自分じゃなくて今を変えるんだ。親父と母さんの子供だ、お前も充分にその力はあるよ。現に、お前の周りには人の輪が出来てるだろ? 薄っぺらくない本物ってやつが」
人の輪、誰の事を指しているのかは分かる。
「それが証拠だよ、いい奴の周りには必然的に面白い奴らが集まってくんのさ」
「……」
「さーてと、半年ぶりに兄貴らしいことした」
俺の頭を今度は乱暴に撫でながら、そう言って笑う。
「ったく、意味わかんねぇよ」
「それでいいよ、意味分からんでも頭の中に留めとけ。所詮は旅人の戯言だ。……まぁ、俺の旅ももうすぐ終わるけどな」
最後の方はやけに声が小さかった。
だが、確かに聞こえた「俺の旅が終わる」と。
「……旅人やめて、何するんだよ」
「それは秘密だよ秘密。まぁ、一つだけ言えることがあるとするなら」
ニヤリと悪ガキのような笑顔を浮かべる。
「面白ぇ奴らと、面白い事すんだよ。なーに、単純に遊び場が変わるだけだよ」
「楽しそうで何よりだよ、兄貴は」
「おう、お前も楽しめ。時間は少ねぇぞ? なにせ、人間には100年ぐらしいか遊べる時間は無いからな」
「100年もありゃ、俺は満足だよ」
その100年が内容が詰まってれば、俺は満足だ。
「さーてと、そろそろ行くかねぇ」
「次はどこに?」
「東北の辺りかな。次に会うのは一ヶ月か二ヶ月後になるな、今度は雨乃や雨斗さんや琴音さんに会いに行くよ」
「あぁ、分かった。伝えとくよ」
俺がそう言うと、軽く頷いて兄貴はメットを被る。
「ほれ、小遣いやる」
思い出したようにポケットから紙幣を幾枚か取り出して俺に押し付ける。一、二、三……三万!? 三万円!?
「大事に使えよー? 男ってのは金の使い方で面が変わってくるもんだからな」
「いいのか?」
「ばっか、弟に対してカッコつけんのが兄貴ってもんだろうが。いいから取っとけ」
「あざーす!」
「元気いいなぁ、お前は」
ケラケラと笑いながら、兄貴はバイクにエンジンをかける。
「楽しく面白く、しなやかに暮らせよ? それじゃ、また逢う日までー!」
いつものように「じゃあな」とは言わずに、旅に戻っていった。
バイクに跨るその背中は、やけに大きく広く感じる。
「届くかなぁ、兄貴の背中に少しでも」
いや……
「俺は俺だ、兄貴じゃねぇ」
短くそう言って、俺もメットを被る。
兄貴はデカくて広くて、今の俺じゃとても手は届かない。だけど、兄貴には無いものを俺はきっと持っている筈だ、それを磨き続ければ。
「いつかは並べるか……あの背中に」
エンジンを掛けて、兄貴とは反対方向の道に飛び出した。
空は徐々に藍色に染まっていく。
※※※※※※※※※※※※※※※※※
まさか、道に迷うとは思わなかった。
カッコつけて飛び出しておいて、なんだこの末路は。流石俺だな、誰も真似出来ない夕陽クオリティだな。
やっとの思いで、家の付近に帰ってこれた。あんなに迷うとは思わなかった。兄貴に金もらっといてよかった、燃料が……
「はぁ、ついてねぇな」
疲れたので、一休み程度に缶コーヒーを買って啜る。
空はすっかり真っ暗だ、スマホを見れば午後七時。
「雨乃、怒ってねぇかな?」
その時だった、唐突に視界が真っ暗になる。
「なっ!?」
「だーれだ」
耳元で囁くような声が聞こえる、この聞き覚えのある声は。
「雨……乃?」
いや、何かが違う。
「どうしたの? 夕陽」
その『夕陽』の発音で、疑心は確信に変わった。
視界を塞がれたまま、声を張り上げる。
「お前、誰だ!?」
「あーりゃ、バレちった。まぁ、しゃあないっすね」
聞き覚えのない女の声が聞こえた。
……そう思った瞬間、またもや声が変わる。
不思議と身体は動かない。
「僕だよ、夕陽君」
「!?」
月夜先輩!?
「私だぞ、夕陽」
紅音さん!?
「俺だぞ? 夕陽」
瑛叶……?
「ボクだよ夕陽」
夢唯。
「ウチだってば、夕陽」
……陸奥!
「俺だぜ? 夕陽」
南雲。
そして─
「私だよ? 夕陽」
雨乃の声を合図に、前に転がるように、司会を塞ぐ手を払った。
「お前、誰だ!?」
怒りと焦りが混じった声が口から零れる。
「あーりゃ、こっち向いちった」
ソイツはスッポリとフードを被っていた。
そのフードの中からは白と黒のストライプが見え隠れしている、まさか……コイツ!?
「どうも、初めましてっすね」
動けない俺の手を取って、自分の方に抱き寄せる。
「暁姉妹を襲わせた張本人、朝日ちゃんっすよー」
俺の全てを否定するような、粘着質で蠱惑的な声が耳元で響いた。