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わたしの愉快な旦那さん 作者:yuma

本編

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幸せは意外と近くて、気づかないもの?


 研究室に入ると、神坂さんが机に突っ伏していた。

「こんにちは」
「こんにちは、梢ちゃん」

 私が挨拶をすると、神坂さんがにょきっと起き上がる。その拍子に手元に隠れていた本の表紙が見えた。……『アイーダ』に、『ロミオとジュリエット』って。

 どちらも恋の悲劇ですね。しかもまったくうちの研究室に時代も国も言語もかぶらないという……。

「また凄いものを読んでいますね。オペラつながりですか」
「そう。最近興味があってね。本物はなかなか見られないから文章だけでも読んでおこうかと」
「なるほど」

 神坂さんの向かい側の席に座る。研究室も長期休みに入ったためか、私と神坂さん以外誰もいなかった。
 私自身、神坂さんと会うのは久しぶりである。神坂さんも卒業を前にして、何を思ったのか不思議なことを聞く。

「……ねえ、梢ちゃん。近頃はどう? 幸せ?」
「え? はい、まあ」

 私は自分の左手の指輪に触れながら肯定する。この仕草はどうも自分の癖になりつつあるのを自覚している。形がすべてではないけれど、指輪を持つことで勇気が沸いてくるのだ。

 さすがに大きなダイヤを大学生の身で持つのは目立って仕方がないから、先日菱川さん……公人さんと簡素なペアリングを買いに行き、今私の指にはめられているのは、そこで選んだシンプルな銀の指輪だ。

――結婚してください。
――はい。

 こんな気が早すぎるやりとりまでしてしまった。
 とはいえ、婚約期間に突入したのは間違いないと思う。これは公人さんに直に確認取った。


「そっか、よかった。順調なんだねー」

 私の指輪にも気づいた神坂さんがほっと息を吐く。

「実はさ今だから言うけれど、梢ちゃんのことすごく心配していたんだよね。たまに死にそうな顔をしていたからさ」
「死にそうな顔って……死にませんよ」

 私は苦笑いする。けれども神坂さんは冗談とも取れない顔のままだ。

「……そういうのって、自分では気づかないものなんだよ。意外と周囲の方がわかっている場合もあるからね。言っておくけれど夏前ぐらいはかなりやばそうだった。だから少しでも環境を変えられるようにと、法学部の友達にも連絡を取ったりしたけれど。……今は大丈夫そうで安心した。うん、いいことだねー」

 化粧気のない神坂さんがあっけらかんと笑っている。
 ……神坂さん、あなたは親切すぎやしませんか。ただの後輩にそこまで気をかけるって、なかなかありませんよ。

「……ありがとうございました」

 私はしっかりとお礼を言った。
 どうでもいいことのように、神坂さんはひらひらと手を振る。

「大したことでもないよー。梢ちゃんはただ身近にいて、気づいただけだよ。普段からそんな察しのいい生き方してないし! それよりも、今日は本を読みに来たの?」
「まあ、そんなところです。貸出期限間際の本もあったのでついでに寄ってみたいんです。神坂さんは?」
「私? 私は……さっき卒論の口述試験があって、しゃべりすぎたなあって反省しているところ」

 色々ごまかしているような笑みを浮かべる神坂さん。

「何を喋ったのか聞いてもいいですか?」
「そうだねえ……端的に言えば、『私たちがやっている学問に未来はあるのか』ってことかなー」
「哲学的ですね」
「だね。でもねー、大事なことなんだよなぁ」

 しんみりとした口調だった。

「今は理系重視の時代でさ、私たちの分野を学ぶ学生はどんどん少なくなっていってるでしょ。理系の専門職は重宝されるし、今の学問を究めたところでそれを生かせる職業なんてもっと少ない。学部自体を縮小させて、理系学部の方にお金をかける話だって聞く。確かに、理系学問は新しい技術や発見のような目に見えて、しかも人の生活を便利にする成果が多く出てくるし、今の世の中だとそちらが重要にされていることはわかる。人の身体の仕組みから、宇宙の成り立ちまで、何でも科学や数式で証明できそうな時代だなって思うよ。だったら、私たちのやっていることは『無駄』になると思うか。……そんな話だね」

 神坂さんの話は、わかる。
 私がこの先進学したところで、理系の専門職よりも文系を生かした研究員や学芸員の枠はもっと少ない。自分が文系の研究職を目指したとして、その通りに就職できるかも未知数。確率としては理系の院卒よりも低いだろう。

 私たちの学問は実際の社会生活で役に立ちにくい。そこに何かの意味を見いだせるのか。

 神坂さんは院に進学することを考えるうちに、そんな世の中の空気を肌で感じていたのかもしれない。


「答えが出にくいですね。先生たちは何かおっしゃっていたんですか?」
「『物理的に「人間とは何か」という問いは科学で説明できるかもしれないけどな、それ以外ではとうてい埋まりきれない何かを埋める、人として大事なものを見つけるのが、我々の仕事なんや』って、海野先生が」

 日本史と日本文学の違いを『ようわからん』で片付けた海野先生が、そんなことを……。でも、でもさ……。

「あの、私の頭ではまだまだ理解が追いついていないような気がします……」
「大丈夫、私にもわからなかったよ。ただ。たださ……人はつくづく理屈だけでは生きていけない感情の生き物なんだなとは思ったよ。そうじゃなくちゃ、文学も歴史、芸術も生まれない……恋愛もね」

 神坂さんは二冊の本をとんとん、と指さした。

「普段の生活でも、何も説明がつかない感情に振り回されたりするでしょ。急に悲しい気分になったり、怒ったり。たまに人の感情に引きづられることもある。そういう本能的な部分は……人間が人間である証拠ということでさ。つまりは、人間は一人一人は違っていて、同じような仕組みは持っていても、均一的な機械じゃない。だから……何もかもが『無駄』といって切り捨てることもないんだよね。他の人から見れば『無駄』かもしれない、でも私たちにとっては『無駄』じゃない。まあ、何を言いたいかというと……文学万歳?」

 えらく乱暴な話の着地点だった。何ですか、それ、と言いつつ私は笑う。

「じゃあ、言い換える。『無駄』なものは決して『無駄』じゃない。個人個人で大事にしているものこそが正義?」
「……ちょっと長くありません?」
「う。ようし、梢ちゃん、任せた」

 問題を投げつけられてしまった。カモン! と外人よろしく私を手招く神坂さんは、さきほど言っていた通り口述試験でおかしくなったテンションのままで来てしまったようだ。

 私はしばし考え込み、こう答えた。

「……私たちの日常万歳?」







 そうして私は常連になりつつある店にやってきた。店の横には相変わらずよくわからない能面がかかっている。自動ドアをくぐって、こんにちは、と声をかければ、私の旦那さん(予定)が立っていた。

「いらっしゃい、梢さん」

 ――その人は、これまでにない愉快な日常に私を誘う人。

 ――私の大好きな人だ。





本編完結。
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