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わたしの愉快な旦那さん 作者:yuma

本編

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そこのお嬢さん、傘はお持ちですか?

 気象庁では梅雨明けが発表されたけれども、まだまだ天気はぐずついている。二三日降り続いただけで気分もまた梅雨に逆戻り。べたっと肌に張り付く湿気がわずらわしい。……しばらくやみそうにないなぁ。困った。

 自習席に面した窓からも、ぽつぽつと傘を差して足早に走っていく人影がちらほらと見える。ざあざあという音まで聞こえてきそうだ。走って帰るにしても、今日はノーパソ持ちだからあんまり濡れるわけにはいかないんだよね……。何冊か本も借りていくことも考えると、なおさら家まで帰れない。置き傘……あればいいなぁ。

 小雨になるまで待とうかも思ったけれど、見たいアニメを思いだしたからやめた。レポート明けのすさんだ心をニートな六つ子たちで癒されよう。夏休み中に全話通して観るんだ。だから帰ろうすぐ帰ろう。

 図書館の玄関付近には大抵置き傘があるものだけれど、今日はすでに全部貸し出されていた。タイミングが悪かったなぁ、と思いつつ、多少濡れることを覚悟して、研究室の置き傘を取りに行こうと決意したところで、

「こんにちは」

 後ろから菱川さんに声をかけられた。

「えっ、菱川さん? え、どうしてこんなところに」

 本気で飛び上がるかと思ったほど驚いた。大学の図書館でバッタリ会うとは予想もしていなかった。今日別に変な恰好してないよね、身だしなみに手抜きしてるところとかないよね? ない……と信じます。
 菱川さんはこの間のお出かけの時のような私服だった。薄手のカーディガンを羽織っていて、いつにもまして知的な雰囲気を醸し出している。
 私がそんなことを考えていることも知らないで、菱川さんはさわやかに答えてくれた。

「本を返却にね。期限が迫っていたから」

 あ、そうか。大学の図書館と言っても、一般の人だって本を借りられるよね。ただ、ここの蔵書は教育機関としては当たり前だけれど、一般書よりも専門書の方が充実していて、学外の人が借りるというイメージはなかった。

「びっくりしたみたいだね」

 菱川さんの言葉に素直に頷く。

「菱川さん、この図書館に通っていたんですね」
「たまにね。一般書だけだとよくわからないことがあるときに利用しているよ。学生時代通っていたこともあって、入りやすいんだ。……ところで、僕は今ちょうど帰るところなんだ」

 菱川さんが微笑んだ。

「梢さんも帰り?」
「そうです、けれど……」

 でも傘がなくて。その言葉は次の瞬間にかき消えた。

「一緒に帰ろうか。家の前まで送っていくよ」

 と、いうわけで、菱川さんの大きな黒い傘の下に一緒に収まることになった。肩が触れ合いそうな距離のまま、通い慣れた図書館脇の小道を歩く。……非常に落ち着きません。無駄な緊張で体が強張ってる。ノーパソと本の入った手提げを、前に抱えている私の手を見てください。いつもの二倍、力が入っています。

「すみません、傘、入れてもらってしまって。今日たまたま忘れてしまっていたんです」

 朝、雨が降っていなかったから、油断した。折り畳み傘、今度から常備しておこう……。

「僕からしたらラッキーだったけれどね。梢さんにも会えたし、一緒にくっついて帰れるでしょ?」
「ひ、菱川さん……」

 さりげなく爆弾を投げ落とさないでください……。返事に困るじゃないですか。

「うん、何。……あ、ちょっとごめんね……肩、少し濡れちゃってるかな?」

 菱川さんの手が一瞬だけ私の肩に触れた。びくりと私の身体が反応をする前に、離れて行った。それから傘を私の方に傾けた。……私が絶対に濡れないように。

「私……そこまでしてもらわなくても大丈夫ですよ。菱川さんの方が背も高いし、身体も大きいじゃないですか。風邪を引いてしまうかも」
「僕だってヤワじゃないつもりだよ? 梢さんは女の子なんだから、身体を冷やさないようにしないと」

 ……菱川さんのいいところって、紳士的なこともそうだけれど、ちゃんと私を女の子扱いしてくれてるところだよね。普段、女子と女子力高い男子に囲まれてるから、なんだか新鮮な気分だ。くすぐったいような……恥ずかしくて、でも嬉しいような……? ただの女の子じゃなくて、「特別な女の子」なのだと思わせてくれる。そのやり方が上手いのだ。

 私は返事に迷ったけれど、結局、

「ありがとうございます」

 それだけにとどめた。余り固辞しすぎるのもよくないし、これぐらいでちょうどいいと思う。菱川さんも、どういたしまして、と返してくれたから、決して間違っていなかったはず。

 大学を出て、私が菱川さんに家のある辺りを教えると、近所に住む菱川さんは「大体あそこだね」と、わかったように歩いてくれた。
 この間にも傘に跳ね返った雨粒が、パタパタと音を立てている。そのノイズが、相合傘の気恥ずかしさをちょっとだけ紛らわせてくれていた。足元の靴が濡れていくのがわかっていたけれど、そんなの気にならないぐらいに幸せな気分だった。……あ。こういう時間っていいな。好きだな。

「家の方向はこっちで大丈夫?」
「そうです。あっちに渡って……」

 道の向かい側を指差したけれども歩行者信号は赤。横断歩道の前で待つ。車は多いけれど、他に歩行者はちらほらとしかおらず、信号を待っているのは私と菱川さんだけだった。

「そういえば、もうそろそろ大学の前期が終わるころだよね。梢さんはいつまで学校?」
「私ですか? ……そうですね、来週の水曜日だったと思います」

 すでにテスト週間に入っているから、残った授業の日程はばらばらだった。ちなみに今期最後の授業は実習科目だから、実質大学に来なければならないのは今日までだ。

「夏休みの予定はもう立てているのかな」
「……とりあえず、地元に帰ります。伯父が帰って来いと言ってきているので。ついでに、地元企業のインターンシップに参加しようと思って」
「ああ、そっか。大学の三年生の夏と言えば、そんな感じだったよね。僕もいくつか参加していたよ」
「やっぱり……大変ですよね」

 三年生に上がってから、急に「将来」という二文字がのしかかってきた。特に何も考えていなかった私も、まずは周囲に合わせてインターンシップに行こうと思い立った。場所は大学での説明会でもらった、大学指定枠のある企業の一覧表から、なじみのある地元企業名を選んだだけ。企業によっては選考に厳しく、面接まで行うところもあるそうだけれど、私はとにかく早く決めたかった。時間がなかったから。……バイトをやめる前の話なんだけれどね。

「梢さんは、この先、何やりたいとか決まってる?」
「まだ何も……」

 自分が就職するということさえ、ぼんやりとしている。時々連絡を取る高校時代の友人によると、大学によってはものすごく就職に力を入れているところもあるそうだけれど……。うちの大学はそうじゃないと思う。一年生の頃から、就職関連のことをやらされることなんてない。

 その意識の差なのかな……。就職している「自分」が見えてこないし、何だか「就職」は今の私にはしっくりこない。あれ? 私って何のために大学で勉強しているのだっけ……?

 今私が勉強していることは、直接的に社会の役に立つことじゃないし、就職に不利ではないけれど、有利というわけでもなくて。職業的な資格にあまり結びつかない。大多数の人にとっては、「それ勉強して、何が楽しいの?」と言われてしまうかもしれない。

 でも私にとっては確かに意味がある。何かを深く知ることが楽しかった。それだけのことだけれど、それがすべてだった。あぁ、この夏のうちに、自分の将来についても考えておかなくちゃ。なるべく早く、ううん、それよりもっと早く。

 そんな私の頭に、菱川さんの手がぽん、と乗った。

「まあ、あんまり焦らない方がいいよ。切羽詰まって、視野が狭くなる方がよくないんだから。確か、僕の時よりも就活の開始時期は遅くなっているんだよね? だったらまだ考える時間はあるでしょ?」
「そ、そうでしょうか」

 不安を隠せない私に、菱川さんは力強く頷いた。

「うん、あるよ。僕だってそのぐらいの頃は、当てずっぽうで色んな職種のインターンシップの選考を受けていたからね。梢さん以上に、まったく何も考えていなかったよ。実際、志望動機が甘かったせいか、半分以上落ちたんだからね?」

 私は軽く笑ってしまった。

「何ですか、それ。ある意味すごいです」
「若気の至りってやつだよ。しかも決まったものも結構長期間かかるものも多くてね、貴重な夏休みがほとんど潰れたよ。今から思えばもったいなかった。ああいうのって、数を絞って、じっくり取り組んだ方がいいに決まってる。だから僕なんかより、梢さんの方がずっと「いい子」なんだよ」

 そう言いながら、本当に「いい子、いい子」とでも言うように頭を撫でられた。励まされているなあ、私……。
 ちょうどそこで信号が青になる。渡りながら、菱川さんに言う。

「私、ちゃんと考えてみようと思います。将来のこと。就職って、人生を左右することの一つですしね」
「うん、そうだね」

 ここで菱川さんは言葉を一旦途切れさせてから、

「……でも、その将来設計にちゃんと僕の奥さんになることも入れておいてね」

 ええっと! それはそのう……考えていなかったわけではないですけれども。……菱川さんと結婚して、専業主婦。ただ、そうなると、自分が情けなくなりますというか……。
 夫婦共働きが主流になりつつある今、私だってある程度自立して、菱川さんと互いに支え合う家庭を築き上げていきたいわけでして……はい。

「い、入れておきます……」

 やっとのことで、それだけ返事ができた。言葉足らずにもほどがある……。
 菱川さんは、気にすることもなく、でもそうか、と元の話に戻した。

「梢さんが地元に戻っている間は会えないね」
「……はい。でも、まだすぐに行くわけじゃありませんし、そんな長い間帰るつもりもないんです。帰ると言っても、おじさんの家で……」

 おじさんの気まぐれな怒りを買わないように、ひっそりと過ごすだけなんですよ。一週間ぐらいなので、本当にあっという間です。それからはこっちに戻ってきて、バイトのないパラダイスな夏休みを送るつもりです。バイト代、まだまだ貯まっているんで。これを元手に新しい趣味でもはじめようかな?

「菱川さんも、夏はお忙しいんですか?」
「客商売だから、仕方がないよ」

 菱川さんは苦笑いを浮かべた。

「もしかしたら、昔からのお得意さんを訪ねるために、何度か出張するかもしれないんだ。だからちょくちょくこっちにいないこともあると思う」

 菱川さんの仕事って、未だに謎めいたところがあるなぁ。あの店にしても、いまいち流行っているかどうかは微妙だし……。社員を雇えるぐらいだから、どうにかやりくりできてはいるんだろうけれど。
 そこで私のマンションの前についてしまった。楽しい時間はあっという間に過ぎちゃうなぁ。

 立ち止まった私に合わせて、菱川さんも止まる。

「ここ?」
「そうです。あ、えと、今日は送っていただいて、ありがとうございました。助かりました」

 頭を軽く下げてから、お仕事、頑張ってください、と付け加える。

「うん、ありがとう。また、いつでもお店に遊びにおいで。連絡も、待っているよ」

 さ、もう入って。菱川さんの言葉に頷き、軽く手を振ってから、玄関へと入った。そして私は。ふと思い立って、もう一度マンションの前に出る。マンションに面した通りでは、黒い傘を差した後ろ姿がゆっくりと歩み去っていくのが見えた。菱川さん、と呼び止めたいわけではないけれど……ただ、角を曲がって、視界から消えるまでを、ぼんやりと見送った。

 菱川さんは一度も振り返らなかった。
 それを寂しいと思うのは間違ってる。だって、菱川さんは私がここで見送っているって知らないから。本当に、私が勝手にしたことで。……きっと、菱川さんの袖を引っ張って引き留めたいと思うことも、今の今まで楽しかった気分が薄れていくのが嫌だったというだけ。明日には平気になっているはずなんだ。……そうじゃなかったら、困る。








梅雨が明けました。作中でも明けはしたものの、現実との天気の差が出ております。
……大丈夫、そのうち現実でも天気が崩れて、何日か雨になるはず。てるてる坊主を逆さに吊ろうかどうか迷いそうです。
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