灰原哀は、いつも通りその日の朝を迎えた。
いつもと何ら変わりない朝。
隣のベッドでは阿笠博士が、心地よさそうにいびきをかいて眠っている。
ベッドサイドの目覚まし時計は、そのけたたましいベルの音を早く鳴らしたいとうずうずしながら、秒針を動かしている。
ほんの少し開いたカーテンの隙間から、朝日が差し込む。
今日は、昨日のような雨にはならないだろう。
本当にいつもと変わらない、穏やかな、一日の始まり。
―いざ、その日を迎えても、あんまり実感が湧かないものね・・・―
博士を起こすのを目覚まし時計に任せて、哀は寝室から出た。
まあどうせ、今日も目覚ましのベルは博士の眠りに勝てないだろうから、結局いつも通り自分が直接起こしに行くことになるだろうが。
すべてが、いつも通りの朝。
しかしそれでも、今日は哀にとって、特別な日。
哀は洗面所で顔を洗った。
少し風邪気味のような気がした。
しばらく、鏡に映る自分の顔を見つめる。
今日は『宮野志保』の、年に一度の誕生日・・・
帝丹高校の、振り替え休日の日。
蘭はその日、探偵事務所の棚の整理をしていた。
本当は園子とショッピングの予定だったが、京極さんが帰って来ていると連絡があったため、その予定はキャンセルされてしまった。
―いいなぁ園子は、幸せそうで・・・―
蘭は、少しうらやましく思った。
そのとき、本と本の間に、ほとんど埋まるように挟まっていた古いアルバムを見つけた。
蘭は片付けの手を休め、吸い寄せられるようにそのアルバムを開いた。
中の写真は、蘭がまだ小学生の頃のものだった。
母が家を出る直前で、両親と自分が仲良く写っている写真がたくさん貼ってある。
しかしそれよりも数の多い写真は、新一と一緒に写っている写真たちだった。
今日は小五郎は二日酔いでまだ布団の中で、コナンは学校で、事務所には蘭以外誰もいない。
そんな静かな空気の中、蘭は懐かしそうに一枚一枚の写真を眺めていく。
そのとき、ある写真に目が留まった。
幼い自分と新一が、仲良く並んで写っている。
その後ろには、動物園の入り口が見える。
ふと、蘭の記憶が甦った。
新しくできた動物園に、蘭の家族と新一の家族とで遊びに行った日のことを思い出した。
しかし蘭は、その次の日のことまで覚えている。
―そういえば私、この次の日に風邪で熱出しちゃったんだっけ―
蘭は思わずくすりと笑った。
蘭はどうしても動物園に行きたかったがために、風邪気味だったことを誰にも言わなかった。
そのため次の日にその風邪が悪化し、蘭は何日も高熱にうなされたという、今思い出すと何ともしょうもない話である。
写真を見ると、10年前のちょうど昨日の日付がついている。
つまり蘭が熱を出した日は、10年前のちょうど今日だ。
そのとき突然、懐かしい幼馴染みの声が頭に響いた。
『全くオメェは、無理ばっかしやがって』
蘭は一瞬、新一のその言葉をいつ聞いたのか思い出せなかった。
しかし答えはすぐ見つかった。
それはあのとき、風邪で寝込んでいる蘭の布団の脇についていてくれた新一が言った言葉だった。
そのとき携帯が、着信を知らせるメロディを奏でた。
画面には『新一』と表示されている。
「新一!?」
蘭は思わず大声で電話に出た。
受話器の向こうの相手はいささか驚いた様子だったが、すぐにいつもの脳天気な声が聞こえてきた。
『よぉ蘭!久しぶり』
その声に蘭は微笑み、またいつもの会話が始まる。
「ほんとに久しぶり。最近全然連絡なかったから、心配したじゃない。もっと定期的に電話してきなさいよ」
すると、新一はふてくされたように返してきた。
『悪かったな。こっちだって忙しいんだよ』
しばらくそんなやりとりをしたあと、蘭は唐突に言った。
「ねぇ新一。今日は何の日か覚えてる?」
蘭は、僅かな期待を込めて返事を待つ。
しかし新一は、素っ頓狂な声を出した。
『今日?さぁ・・・誰かの誕生日かなんかか?』
予想は出来たが、それでもがっかりする蘭。
「やっぱり覚えてないよね・・・。別にそんな特別な記念日ってわけじゃないんだけどさ」
『何だよ、気になるじゃねーか。教えろよ』
蘭は苦笑しながら答えた。
「覚えてるかな・・・?10年くらい前に、動物園に行った次の日にさ、私が熱出しちゃった日なんだ、今日」
しばらく、返事は返って来なかった。
やはりあの推理バカに、そんな些細な思い出話なんか言っても無駄だったか。
蘭がそう思ったとき、いきなり新一が声を上げた。
『ああ!思い出したよ!確かオメェ、学校で体調悪くなって、俺が家まで送り届けて看病してやったんだっけ』
その言葉は蘭にとって、大いに意外だった。
「そ・・・そうだっけ・・・?」
『そうだよ!いやぁあのときは大変だったよ。家におっちゃんもおばさんもいなくてさ』
あははは、と蘭は笑った。
新一も笑う。
笑ったあとに、蘭は無性に寂しくなった。
あの頃は側にいて当たり前の存在だったのに、今はこうして数分間声を聞くだけの、幼馴染み。
今は、新一との思い出がすべて辛い。
蘭のそんな気持ちを感じたのか、新一が心配そうな声で言った。
『オメェ、元気ないぞ?どうした?』
蘭はその言葉にふと我に返ると、慌てて答えた。
「そ、そんなことないよ?ちょっとぼーっとしてただけ!」
しかし、そんな蘭のごまかしは、新一には通用しなかった。
『ウソつけ。オメェの様子くらい、声でわかんだよ。全くオメェは、無理ばっかしやがって』
―全くオメェは、無理ばっかしやがって・・・―
受話器をとおした新一の声と、10年前の新一の声が重なる。
昔から少しも変わらない、優しい声・・・。
蘭は涙が溢れた。
『なっ・・・お前、泣いてんのか!?』
蘭は、ひっくひっくと嗚咽を洩らす。
新一は、ただうろたえた。
「新一、早く返って来てよ・・・寂しいよ・・・」
コナンは溜め息をついて、携帯をポケットにしまった。
彼は休み時間、こっそり小学校の裏庭で蘭に電話していたのだ。
また自分のせいで、蘭を泣かせてしまった。
いくら『コナン』として蘭の側にいても、『新一』にはかなわない。
『コナン』では、蘭の不安をどうしてやることも出来ないのだ。
コナンの心は重く沈んでいた。
放課後、少年探偵団はにぎやかに玄関を出た。
相変わらず元気な3人の後ろを、哀とコナンは並んで歩く。
哀は今日一日中、姉のことで頭がいっぱいだった。
昔から、誕生日は必ず姉が祝ってくれた。
ほとんど記憶がないころに親を亡くして、祝ってくれるのは姉だけだったのだ。
それでも良かった。
誕生日は一日中、嬉しくて嬉しくてしょうがなかった。
だが今年はちがう。
もう姉はいない。誰も祝ってはくれないのだ。
―それも当然ね。私みたいに“黒”に染まった人間が生まれた日なんて、誰も嬉しくないもの・・・―
哀は、自分を嘲り笑った。
こんなことで悩んでも仕方ないのに。
その思いを振り払うように顔を上げると、隣りを歩くコナンもまた、思い悩んだ表情を浮かべているのに気付いた。
―きっと彼女のことを考えてるんでしょうね。眩しいくらいの“白”を持った、あなたの大切な彼女のことを―
哀の脳裏に、蘭の優しい笑顔が浮かんだ。
真っ黒な自分とは正反対の、透き通るほどに白い蘭。
自分は、彼女が苦手だ。
向き合うと、彼女の“白”の眩しさに、目が潰れてしまうような気がする。
しょせん闇は、光の前では無力なのだ。
次々と泣きたくなるような感情が溢れてきて、哀は唇を噛んだ。
そんな哀の様子には気付かず、コナンは俯き加減で哀に話しかけてきた。
「なあ、灰原。今日蘭が電話で、『寂しい』って泣いたんだよ。もう、待たせるのは限界なのかな」
どうして私にそんなことを聞くの?
そんなの、誰にもどうにもできることじゃないじゃない。
私だって、お姉ちゃんがいなくて寂しいわよ。
工藤君みたいに電話なんかしてくれないし、もう永遠に帰って来ないのに。
私はこんなに必死に寂しいのを我慢してるのに、何でそんなこと言うのよ・・・。
何で、よりにもよって誕生日の日に・・・!!
「・・・知らないわよ、そんなこと」
哀は吐き捨てた。
いつもの彼女らしくない答えに、コナンは顔を上げる。
「・・・え?」
哀の心はもう、限界に達していた。
これ以上コナンと一緒にいることが、耐えられない。
「ごめんなさい。今日は先に帰るわ」
そう言うと哀は駆け出した。
前を歩く歩美たちを追い抜き、校門に向かう。
コナンは慌てて後を追った。
「待てよ灰原!一体どうしたんだよ!?」
日頃から走り慣れているだけあって、コナンはあっさりと哀に追いついた。
その腕を掴んで引き止める。
「どうかしたのか?オメェ今日ちょっと変だぜ?」
「ちょっと風邪気味なだけよ!いいから離して!!」
哀はコナンの腕を振り払おうとする。
もう一度説得しようと、コナンがぐいっと哀の腕を引っ張ったとき・・・
「きゃあっ」
バシャッ
周囲に水しぶきが上がる。
哀は校門の前のアスファルトの水溜まりに倒れ込んでしまった。
「灰原!!」
コナンが慌てて助け起こしたが、全身びしょ濡れだった。
他の3人も、驚いて駆け寄ってくる。
「哀ちゃん!大丈夫!?」
「灰原さん!」
「うわっ!びしょ濡れじゃねーか!!」
哀は無言で、服に染みこんだ水を絞った。
髪からはポタポタと水滴が落ちている。
コナンは謝った。
「灰原、ごめん・・・」
「気にしないで。暴れた私もいけなかったから」
その口調からは、何の感情も感じられない。
「とにかく、保健室でタオルと着替えを――」
そう声をかけたコナンだったが、次の瞬間、哀が信じられないことを言った。
「このまま帰るわ」
みんなは驚き、口々に心配の声を出した。
「だめだよ哀ちゃん!そのままだと風邪ひどくなっちゃう!」
だが哀は、大丈夫だと言い張っている。
たまりかねた光彦が言った。
「灰原さん、もっと体をいたわって下さい!!」
「うるさいわね!大丈夫だって言ってるでしょ!?」
哀のものすごい剣幕に、光彦は何も言えなくなってしまった。
その様子を見たコナンが溜め息混じりに言った。
「わかった。オメェ頑固だからな。その代わり、俺が送ってく。それでいいだろ?」
哀はコナンと目を合わさずに答えた。
「ご自由にどうぞ」
まだ他の3人は納得していないようだったが、コナンは無理矢理言い聞かせた。
「じゃあオメーら、また明日な」
去っていくコナンと哀の後ろ姿を心配そうに見つめながら、光彦はポケットの中に入っているモノをぎゅっと握りしめた。
「ホラ、これ着ろよ」
そう言うとコナンは、自分の上着を哀に差し出した。
哀は、断ってまた口げんかになるのが面倒になって、素直にそれを受け取った。
二人は、始終無言で歩いた。
哀はうつむいて、一度も顔を上げない。
そうしている間にも、朝から風邪気味だった体はどんどん冷えて、ぞくぞくしてきた。
結局そのまま何も話さないうちに、阿笠邸の前に着いてしまった。
いそいそと門を入ろうとする哀に、コナンは言った。
「灰原、ほんとにごめんな・・・」
そこで哀は動きを止め、初めてコナンの方を向いた。
その口元が、悲しそうな笑みを浮かべる。
「私こそごめんなさい。・・・全く、最悪な誕生日だわ」
その言葉に、コナンは目を見開く。
しかしそんな彼の表情を見る前に、哀は門をすり抜けて走り、バタンと玄関のドアを閉めた。
哀はそのままドアにもたれ、荒い息をした。
頭がクラクラする。体も熱っぽい。
外には、呆然と立ち尽くすコナンだけが残されていた。
「ただいまー・・・」
さまざまな理由で重苦しい気持ちを引きずって、コナンは帰宅した。
「おかえりコナン君!」
ドアを開けるのと同時に明るい声が帰ってきて、コナンは安心したというか意外だったというか・・・。
蘭は小五郎と一緒に事務所にいた。
まだ二日酔いから解放されない父親にコーヒーを出してやっている。
その表情はすがすがしかったが、どこか影があった。
コナンは罪悪感でいっぱいになる。
「ボク、ランドセル置いてくるね」
そう言うとコナンは蘭に背を向け、階段を昇っていった。
自分の部屋でもある小五郎の部屋に入ってランドセルを降ろしたとき、いきなり蘭が入ってきた。
「どうしたの蘭姉ちゃん?」
「お父さんが煙草取ってこいってうるさいのよ。あ、あったあった」
蘭はそう言うと小五郎のベッドの上に放置してあった煙草の箱を掴んだ。
そのまま部屋を出ようとしたのを、コナンが引き止める。
「ね、ねえ蘭姉ちゃん・・・」
蘭は振り返ってコナンに笑いかけた。
「なあに?コナン君」
その笑顔を見たら、コナンは言葉が出てこなくなってしまった。
脳裏に、さっきの電話の声が甦る。
―寂しいよ・・・―
コナンはやっとの思いで言った。
「・・・ボクがいるからね?」
蘭は一瞬きょとんとしたが、その目から涙が一粒こぼれた。
蘭自身も不意打ちだったらしく、彼女は自分の涙に驚いていた。
「なにこれ・・・何で出てくるの?」
コナンはその様子を、悲しげに見つめている。
蘭は無理に笑顔を作って言った。
「あはは、ごめんねコナン君。いきなり泣いちゃって。ご飯の準備とか、お手伝いしてくれるって意味よね?」
コナンも無理に笑う。
「うん!今日はおじさんのお世話が大変そうだからさ」
だが、蘭の涙は一向に止まらない。
「ありがとう。・・・ごめんね泣いちゃって。コナン君の言葉、勘違いしちゃって。最近ちょっと・・・寂しいから」
そう言ってまた微笑む蘭の姿に、コナンの胸が痛む。
「おーい蘭!まだかー?」
階下から小五郎の大声がして、蘭は何とか涙を拭うと急いで部屋を出て行った。
しばらくじっと佇んでいたコナンの耳に、携帯の着信音が聞こえた。
博士からだった。
哀に何かあったのではないかという嫌な予感を感じつつ、コナンは電話に出た。
「博士?どうかしたのか?」
受話器の向こうの阿笠博士は、困り果てた声で言った。
『実は哀君が熱を出してしまってのう。いろいろ手伝って欲しいんじゃが、今から来てくれんか?』
嫌な予感が的中してしまった。
―あのバカ。やっぱり無理にでも着替えさせときゃよかった・・・―
今哀に会うのは少し気まずいが、哀がこうなったのは自分のせいでもあるわけで、コナンは「行く」と即答して部屋を出た。
それに、どうせここにいても、蘭の泣き顔を見るのは辛いだけだから。
玄関のチャイムを鳴らすと、すぐに博士がドアを開けた。
「おお、新一君!すまんのう。わしもどうしていいかわからなくて」
彼は相変わらずうろたえている。
「いいっていいって。で、灰原は?」
「寝室で寝ておるよ」
哀はベッドに横になって、苦しそうに喘いでいた。
意識もはっきりしていないようで、時折うわごとを言っている。
コナンと博士が心配そうに見守っていたそのとき、哀の口からか細い声が洩れた。
「・・・お姉ちゃん・・・」
それを聞いて、コナンは今日の哀の不自然さを全て理解した。
そっと、博士につぶやく。
「博士、こいつ今日、誕生日らしいんだ」
博士が驚いて大声を出す。
「なにぃ!?ほ、本当か!?」
「ああ。さっき言ってたよ。でも、万一組織のやつらが嗅ぎつけられるといけねえから、ずっと言わなかったんだろうよ。たぶん今までは明美さんに祝ってもらってたんだろうけど、もう彼女はいないから・・・。こいつも、寂しかったんだな・・・」
博士はコナンに哀を頼み、薬を買いに出て行った。
しばらくすると哀は少し落ち着き、整った寝息を立て始めた。
コナンは、ずっと側についていた。
哀は夢を見ていた。
姉が笑顔で自分に言う。
『志保、誕生日おめでとう』
そこで、哀はふっと目を覚ました。
さっきよりは、だいぶ体が楽になっている。
「起きたか。どうだ、具合は?」
その声に一瞬驚いた哀は、ベッド脇に座っているコナンに気付いた。
「・・・博士は?」
「薬買いに行ってるよ。でもこのぶんだと、きっと売り切れててあちこち探し回ってるんだろうな」
「そう・・・」
それからぽつぽつととりとめのない会話をしたあと、いきなりコナンが切り出した。
「さっきはごめんな」
哀は首を振った。
「気にしないで。もともと風邪気味だったんだから」
するとコナンは、少し困った顔をして言った。
「いや、そうじゃなくて・・・お前も寂しかったのに、察してやれなくて」
哀はしばらく意外そうな顔でコナンを見つめていたが、やがてふっと笑って天井に視線を向けた。
「私も、大人げなかったわ。でも私が寂しかったのは、それだけじゃないの」
「・・・え?」
哀は目をつぶって話し始めた。
「嫉妬してたのよ。あなたの大切な彼女の“白さ”に。私は真っ黒の人間だから、うらやましくて」
それを聞いたコナンが何か言いかけたとき、玄関のドアが開く音がした。
「いやあ、すまん二人とも!やっと薬を見つけてきたぞ!」
博士の声の他に、もう一人の声がした。
「おじゃまします」
哀は驚いて、体を起こした。
「今の声って・・・円谷君?」
博士と光彦が、寝室に入ってきた。
哀は唖然としている。
ニコニコと光彦を招き入れる博士とは対照的に、当の本人はもじもじしている。
その手には、小さな白い包みが握られていた。
「一体どうしたんだよ光彦?」
コナンはそう尋ねたが、光彦は照れて言葉を濁した。
「えっと・・・その・・・」
埒が明かない光彦の代わりに、博士が説明した。
「実はさっき薬を買いに行ったときに、たまたま彼に会ったんじゃ。そこでうっかり、今日は哀君の誕生日だと口を滑らせてしまっての。そしたら彼が、どうしてもプレゼントを渡したいと言ってきて」
光彦は顔を真っ赤にして俯いた。
小さな包みを握る手の力が、さらに強くなる。
哀はそんな光彦を、まだ唖然と見つめながら言った。
「円谷君が、私に?」
光彦はコクリとうなずくと、意を決して哀に歩み寄った。
「あの、灰原さん、お誕生日おめでとうございます!!」
そう言うと彼は、持っていた白い包みを哀に差し出した。
哀は一瞬戸惑ったが、笑顔でそれを受け取った。
「ありがとう。開けてもいいかしら?」
それを聞いた光彦の表情はぱあっと明るくなり、嬉しそうに返事をした。
「はい!」
哀は包みの口のシールをはがすと、中に入っているものをそっと取り出した。
それは、真っ白な天使の置物だった。
それを掌に乗せて眺める哀の表情は、ふっと陰った。
悲しい笑顔でつぶやく。
「きれいな天使・・・。今の私に、一番似合わないものね」
その言葉を、コナンが否定した。
「やめろよ、自分のことそういうふうに言うのは」
だが哀は続ける。
「あら、だって本当のことじゃない。黒い私に、純白の天使は正反対の存在だもの。そうね・・・言うならば私には堕天使のほうが合ってる」
「だから、自分が黒いとか言うなよ!」
コナンが何と言おうと、今の哀の心理状態ではそんなこと無理だった。
自分の周りの、心に汚れのない人々との平和な日常の中にいると、自分がいかに黒く邪悪な存在かを思い知らされる。
自分の周りに溢れる光が眩しくて、疲れる。
光彦が純粋な気持ちでくれたプレゼントだとわかっていても、それは天使からかけ離れた自分を皮肉る、たちの悪い嫌がらせのように感じてしまう。
「あの・・・お二人とも、さっきから何を言ってるんですか?」
その言葉に我に返ると、光彦がきょとんとこちらを眺めていた。
「僕は灰原さんに天使、似合うと思いますよ?そう思って買ったんですから」
思いがけない光彦の言葉に、哀は俯いて、手の中の真っ白な翼を見つめた。
―私に、天使が似合う?こんなに黒い私なのに・・・?―
「そういやオメェ、これ今日買ったのか?」
そうコナンが問うと、光彦はまた少し顔を赤らめた。
「いえ、実は・・・ずっと前に買ったものなんです。でもなかなか渡す勇気がなくて。そしたらたまたま博士に、今日は灰原さんの誕生日だって聞いて・・・」
照れ笑いを浮かべながら、光彦は楽しそうに続ける。
「灰原さんは優しくて強くて、笑った顔が本当に天使みたいだなって思って」
光彦の温かい気持ちを聞いて、哀の心は少しやわらかくなった。
「嬉しいわ。ありがとう。それからさっきは怒鳴ったりしてごめんなさいね」
哀は自然と優しい笑みを浮かべて光彦に言った。
光彦の顔がほころぶ。
「いえ、気にしないで下さい!」
哀の笑顔を見て、光彦は思った。
やはり哀は、自分にとっての天使だと。
光彦が帰ったあと、いつの間にか寝室から出て行っていた博士が、薬とお粥を用意してきた。
哀は天使の置物を大事そうにベッド脇のテーブルに置き、しばらく微笑みながら眺める。
博士はキッチンにスプーンを忘れたと言って、再び姿を消した。
哀とコナンは、穏やかな表情で向き合った。
コナンが言う。
「よかったじゃねーか。堕天使じゃなくて」
哀は苦笑した。
「まあね」
まさか自分が、誰かからあんなふうに思ってもらえているなんて、夢にも思っていなかった。
もしかしたら自分は、闇の中に一人ぼっちだと勝手に思っていただけなのかもしれない。
―いつもにこにこして、素直なだけが、天使の条件じゃないのかもしれないわね―
温かく優しい気持ちが、心を満たしていく。
だが哀は、いきなり表情を切り替えて言葉を継いだ。
「さあ、あとはあなたの問題だけよ。今日はもう大丈夫だから、早く彼女のところに帰ってあげなさいよ。寂しがってるんでしょ?」
だが今度は、コナンが苦笑する番だった。
「いや、蘭にはここに泊まるって言ってきちまったから。それに俺、オメーにいろいろ迷惑かけちまったし、プレゼントも何も持ってないからさ、せめてもの気持ちで、今日はついててやるよ」
だが、哀の表情は一層真剣になった。
「逃げてはだめよ、工藤君。『自分の運命から逃げるな』って言ったの、あなたじゃない」
コナンはもう、苦笑する余裕すらない。
「でも・・・俺がいたって、蘭には『新一』じゃなかったら意味ないんだ」
そのとき哀の表情が険しくなり、コナンに向かって声を荒げた。
「あなた、あれだけ彼女の側にいて、まだわからないの!?『誰』かは関係ないじゃない!例え『コナン』の姿でも、泣いてる彼女の側にはいられるはずよ!!」
その言葉に、コナンの心は大きく揺らいだ。
しばらく言葉が出ないまま、沈黙が流れる。
静かな空気の中に、哀の声が響いた。
「『工藤新一』として帰ってあげられないんだから、せめて『江戸川コナン』としては、帰ってあげなさいよ」
その言葉はコナンの心を揺るがしただけでなく、奮い立たせた。
彼は部屋を飛び出した。
スプーンを持った博士の横をすり抜け、荒々しく玄関のドアを開けて、毛利探偵事務所まで一目散に駆け出した。
その様子を、窓から温かい瞳で見守っていた哀は、不思議そうな顔の博士に言った。
「彼、彼女のところに帰ったわよ」
毛利探偵事務所では、蘭が夕食の片付けをしていた。
父は急な依頼で外出中のため、先ほど独りぼっちの晩餐を終えたところだった。
コナンも、博士の家に行ってしまった。
―コナン君、ここにいてくれるって言ったのにな・・・―
『ボクがいるからね』という言葉を聞いたとき、一瞬心を見透かされたと思った。
たまらなく寂しい心を。
「もう!こんなことでウジウジするな!」
蘭は、また溢れそうになる涙をこらえるために自分に言い聞かせた。
そのときだった。
バタンッ
ドアが開く音がして振り返ると、そこには息を弾ませたコナンが立っていた。
「蘭!・・・姉ちゃん」
蘭は驚いて言った。
「コナン君!?どうしたの?今日は泊まるって・・・」
そこに立つコナンの姿が、何故か幼い日の新一の姿に重なった。
「やっぱり、今日は帰って来たんだ。・・・蘭姉ちゃん、無理ばっかするからさ」
―本当に、言うことも新一そっくりね・・・―
蘭は、心の中でくすりと笑った。
さっきの寂しかった心がうそのように晴れ渡った。
蘭は気付いた。
自分はこの少年が帰って来てくれて、たまらなく嬉しいんだ、と。
「やぁね!無理してなんかないわよ?ところでコナン君、晩ご飯食べた?」
「あ・・・まだ」
蘭は一度外しかけたエプロンを再びつけた。
「待ってて!残り物しかないけど、急いで作るから」
鼻歌交じりに料理をする蘭の後ろ姿に、もう寂しさの影はなかった。
コナンはそれを見て、帰って来て良かったと思うのだった。
数日後、コナンは阿笠邸にいた。
灰原のお気に入りの天使の置物は、リビングのテーブルに置かれている。
窓から差し込む陽光をまとったその白い翼は、今にも羽ばたきそうだ。
その横でコナンが、すっかり回復した哀に包みを手渡していた。
大きさの割に軽い包みに、哀は不思議な顔をした。
「これは?」
コナンが意気揚々と答える。
「蘭からの誕生日プレゼントだよ。俺が蘭にオメェの風邪のこと話したら、急いで用意してくれたんだ。いいから開けてみろよ」
コナンに急かされるままに、哀は包みを開けた。
そこに入っていたのは、白い毛糸の――
「・・・マフラー?」
「手編みだぜ?」
それは、ふわふわと肌触りの良い真っ白なマフラーだった。
素直に喜べず戸惑う哀の目の前に、一枚の紙が落ちた。
哀ちゃんへ
お誕生日おめでとう!!
これから寒くなるから、風邪には気を付けてね
蘭より
哀はふっと微笑んだ。
真っ白な彼女らしい、真っ白なプレゼント。
「哀君、付けてみてはどうじゃ?」
博士がニコニコと言う。
「でも・・・」
「いーからいーから」
コナンは半ば強引に、そのマフラーを哀の首に巻いた。
「どうだ?」
「・・・温かいわ」
3人の間に、穏やかな時間が流れる。
哀は、久しぶりに幸せを感じていた。
「じゃ、俺からもプレゼント」
そう言うとコナンは、何やらポケットをゴソゴソし始めた。
次の瞬間、哀の頭上に何かが降り注いだ。
「え!?」
哀の目の前に、たくさんの白い羽根が舞っている。
それはコナンが試行錯誤してやっと思いついた、精一杯のプレゼントだった。
「もう自分のこと堕天使とか言うんじゃねーぞ?」
「・・・ええ」
天使の翼からこぼれた羽根が舞う中、哀はすがすがしく頷いた。
博士は心底嬉しそうで、笑顔が絶えない。
それもそうだ。
彼は、同じ寂しさを持った二人の姿を、ずっと心配していたのだから。
首に白いマフラーを巻き、肩や髪に羽根を乗せた哀の姿を見て、コナンが言った。
「お前結構、白似合ってるぞ」
哀は、素直に微笑んだ。
「ありがとう」
白い天使の置物が、哀の掌で翼を広げている。
哀はそれを見つめながら、姉と蘭のことを思っていた。
蘭さん、あなたの“白”さが、私の“黒”を薄めてくれているのかもしれない。
白と黒は対極的でも、時には混ざり合うものだから。
あなたの“白”が、私の“黒”を“グレー”にしてくれているのかしらね。
“黒”のままでは天使になれなくても、“グレー”なら・・・少しでも“白”に近づければ、私は天使になれるかしら?
天使になって、天国のお姉ちゃんの使いになれるかしら?
私は、“白”でも“黒”でもない“グレー”で、生きていけばいいのよね?
ねえ、お姉ちゃん。
哀の手の中の天使が、日の光を浴びて眩しく輝いた。
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