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猫ねずみ
作:椎名 奎


 猪突猛進な新参の同心、佐伯幸之助さえきこうのすけは、数々の盗賊を捕らえたとして有名な定町廻り同心だった亡父と同じ役職に就くことを目指していた。
 しかし新参者に、そうそう手柄を立てられる機会があるわけもなく、この一月で行った仕事といえば、諸事の使い走りと警護くらいなもので、同心の花形というべき捕り物には、まだ一度も加担したことがなかった。腕に自信があったため、定町廻りの筆頭同心に自分を売り込んだりもしたが、経験が浅いとあっさり却下され、今に見ていろ、と悶々とした日々を過ごしていたのである。
 日が真上にくるある日、門付近でばったり会った日下部久輔くさかべきゅうすけから「昼飯を食べに行かないか」と誘われて、佐伯はあからさまに嫌な顔をした。
 日下部は物書き同心で、佐伯が目指す激務な定町廻りとは無縁の、窓際の役職である。温和な性格で気だても良いが、佐伯よりも五つ上だというのに、懐にはいつも菓子を忍ばせ、暇を見つけては猿のように木によじ登るという、奇天烈な一面も持ち合わせていた。周囲に好かれ、佐伯の亡父の懇意でもあるが、日下部の何に対してもやる気のない所が、佐伯は気に入らないのである。
 断りの言葉を挟む間も与えられず、日下部はにこにこと笑いながら話を続ける。
「先日、美味しい蕎麦屋を見つけて、君にもどうかなと思って。ま、ちょうど話したいこともあるしね」

 町をぶらりと歩くだけで、何人かの町人が日下部に対して気さくに声をかけてくる。「これから昼飯か」とか、「たまにはおごりで連れて行け」とか、「仕事ちゃんとしろよ」とか、たまに説教じみた婆さんまでいたが、日下部は嫌な顔ひとつせず、それどころか冗談まじりに嬉々として返していた。
 以前同じ役職の同心から、日下部久輔はもともと定町廻り同心で、一年も経たないうちに降格し、今の物書き同心に収まったのだ聞いていた。おそらく、定町廻り同心としての短い期間に、町人達から慕われる事柄でもあったのだろう。例えば迷子を親元に届けたとか、落とした財布を持ち主に届けたとか、そんな些細な善意に違いない。そう佐伯は、一人得心した。
 日下部が絶賛する蕎麦屋は、人通りから外れたこじんまりとした店だった。父娘で店を切り盛りして、客の大半が常連という、非常にくだけた雰囲気だ。先日、と言った日下部も、店に入るや店主の娘に「あら遅いじゃない、日下部さん」等と、もうすっかり常連客のようであった。
「で、話というのはなんですか?」
 席に座って早々、佐伯はぶっきらぼうな口調で話を切り出す。
「そう急がずとも、蕎麦でもすすりながらゆっくりと……」
「俺はあなたみたいに暇ではないので」
「言ってくれるな。ま、その通りだけどね。なに、大した話じゃない……いや、ちょっと忠告を、と思ってね」
 日下部は腰の大刀を鞘ごと引き抜いて足元に立てかけると、椅子に腰掛けた。奥で町人風の男が店主の娘と馬鹿騒ぎし、後ろでは女房の財布の紐がきついと話し、蕎麦をすする音は至る所から聞こえる。
 まったくもって騒がしい。こんな場所なのだから、本当に大した話ではないのだろう、と佐伯はいらいらしながら腕を組んだ。
「猫ねずみ、という人がいる」
 日下部が唐突に訳の分からない話をするもんで、佐伯は呆れたように溜め息をついた。
「妖怪話をするために俺を呼んだんですか」
「妖怪ではないよ。そういう種類の人がいるという話。そうだな、窮鼠猫を噛む、という諺があるな。弱い奴でも追いつめられたらがぶりとやられるってやつ。猫ねずみというのはそれとは逆に、猫がねずみになりすまして、油断したところをがぶりとやる」
「なにがおっしゃりたいんですか?」
 佐伯が怪訝な表情で語気を荒げたところで、娘がざる蕎麦を二つ運んできて机に置いた。日下部は娘に軽く礼を言うと、箸を割って汁のなかに薬味を入れる。
「君は定町廻りを望んでいる。下手人を捕縛する花形職だ。勇敢で腕っ節もあるし、なによりあの佐伯さんの息子だ、きっとなれるだろう。だがその反面、猪突猛進で世間知らずな部分もある。ま、若いから仕方ないがな」
 佐伯は憤慨し、箸を机に叩き付けると腰を浮かせた。
「俺には定町廻りは務まらないとでも言いたいのか!」
 今にも血管が切れそうな相手にも、日下部は全く動じる様子もなく、涼しい顔でもって箸で、座れ、と示す。気がつくと店中の者がこちらに注目していたので、佐伯は拳を握りしめたまま、渋々といった感じで腰を下ろした。
「佐伯さんには世話になったからね、ちょっと節介を焼きたくなっただけなんだ。しかし血気盛んというのも父親ゆず……」
 突然、日下部の言葉を遮る怒号が店の外から聞こえた。入り口から外を伺うと、向こうの通りに、人相の悪いごろつき三人組が、店主に因縁を吹っかけては、棚の品を地面にばらまいているではないか。
「また面倒なの見ちゃったな」
 日下部のあまりにも呑気な物言いに佐伯は舌打ちをし、同心として騒動を収めるべく颯爽と店を飛び出すと、野次馬をかき分けて騒動の渦中に躍り出た。
「やめろ、ごろつきども!この佐伯幸之助が参ったからには好きにはさせんぞ」
「おい聞いたか?ガキがぴいぴい喚いてるぞ」
 ごろつき達が、下品に笑う。
 佐伯は片目を引きつらせながら、柄に手をかけた。
「薄汚いクズどもめ、ガキかどうか試させてやる……!」
「なんだと?下っ端の同心風情が舐めた口ぬかすんじゃねえ!」
 ごろつき達が、懐の短刀を佐伯に向けた。
 野次馬達が小さく悲鳴を漏らす。
 佐伯は薄く笑うと、すらりと鞘を走らせて抜刀した。ごろつき達に切っ先を向けて、腰を沈め、地面を擦って間合いを計る。
 斬り合いは初めてではなかった。亡父が存命だった昔に、一度だけ、今と似たような状況で人を斬っている。相手は重傷を負ったものの、生きて裁きを受ける羽目になった。いや、おそらく、もう生きてはいないであろうが。
 腕には自信がある。
 負ける気はしない。
 あの時の興奮が蘇る。
 求めていたのは、この感じだ。
 一人が叫びながら腰に短刀を添えて突っ込んできた。
 佐伯はこれを左へかわし、柄頭でごろつきの後頭部をしたたかに打つ。素早く手首を捻って刃を上に向け、上段から振り下ろしてくる短刀をすくい上げると、返した刀で無防備な胴を横に払った。ごろつきが後ろで絶叫する。
 視界の端に、店の商品を拾う日下部の姿が入り、佐伯は喉の奥で嘲笑した。
 俺とお前ではこれほど差があるのだ、精々町の便利屋でいるが良い!
 三人目のごろつきに目を走らせると、そいつは怖じ気づいたらしく、短刀を握ったまま青ざめていた。
 相手をするまでもない。そう、佐伯は思った。だがそいつは、突然「旦那!旦那!」と喚いた。どうやら他にも仲間がいるらしい。
 野次馬を押しのけて現れたのは、一本差しの薄汚れた素浪人だった。眼光が鋭く、深い傷が閉ざした口を笑ったように見せかけている。ごろつき達とは明らかに違う、人殺しに慣れた目だ。
 旦那と呼ばれた素浪人は、仲間を得て笑う奴にも、地面に倒れた奴らにも見向きせず、無言で滑るように歩いてくる。佐伯の抜き身にも全く動じる様子がない。血走った目で見据えたまま、じりじりと、間合いだけを狭めてくる。
 佐伯の頬に汗が伝い、柄を持つ手に力がこもった。震えるほどの殺気が、場を凍りつかせる。佐伯は初めて、恐怖と絶望に奥歯を鳴らした。
 腕には自信がある。負ける気はしない。けれど相手の方が、遥かに、上だ。

 素浪人が鯉口に指をかけ、地面を蹴った。

 瞬きほどの間。 

 鈍い金属のぶつかる音で、再び空気が動き出した。
 佐伯は自分の刀を見た。先ほどと同じ姿勢のままでぶら下がっている。
 地面に映る、重なった短い影が見えた。そちらに首を向けると、素浪人と日下部が、お互いの刀を交差させて止まっていた。日下部の表情から愛想の良い顔は消え、変わりに、眇められた冷たい目で相手を強く威圧している。
 佐伯は、素浪人が抜刀したのも、日下部が隣にきていたのにも、まったく気付かなかった。自分に向けられたものではないと知りつつ、背筋に冷気が走るのを感じた。
 物騒な獲物を挟んだまま、素浪人がにやりと笑う。
「どうやら噂は本当らしい」
「ほう、そいつは一体どんな噂だ?」
 素浪人は勢いをつけて後方に跳ねると、小気味良い音を鳴らして刀を鞘に戻した。日下部も刀を鞘に戻すと、それが合図であったかのように、素浪人は不気味な言葉を残して背を向けた。
「いずれ、また」
 その背に、まるで落とし物を知らせる親切者のように日下部が声をかける。元の穏やかな顔で。
「おーい、忘れ物!」
「仲間ではない、好きにしろ」
 素浪人は振り返りもせずに片手を振ると、野次馬の中に消えた。
「……だってさ。ああ、面倒くさいなあ」
 日下部は腰に手を当て、本当に面倒くさそうに溜め息をついた。
「日下部の旦那」
 散り始めた野次馬の中から、尻をはしょった白い鼻緒の雪駄をはいた男が寄ってきた。誰かが抱える御用聞き(岡っ引き)のようである。
「あっしにまかせてくだせえ」
「相変わらず鼻が良いな。あ、これは佐伯さんの手柄だから」
 御用聞きは「へい」と短く返事すると、佐伯の手元に一瞥してから奉行所の方角に駆けていった。
 何事かと自分の手を見てみると、短刀を持ったまま呆然と立ち尽くすごろつきと同じように、僅かに血が付着した抜き身の刀をぶら下げていた。

 帰りの道すがら、黙って歩いていた佐伯が、ぼそりと呟いた。
「日下部さんはどうして……」
 人通りの少ない、静かな古びた橋の上だった。その真ん中で、日下部はきょとんとした表情で振り返る。あの冷たい目は、どこにもない。
「……どうしてあなたのような方が物書き同心でいるのですか」
 自分よりもずっと定町廻り同心に相応しいのに。
 日下部は「ああ」と納得すると、橋の欄干に背中を預けた。
「いや、あれでちょうど良いんだよ。さっき見た通り、私は猫ねずみだからね。ま、がぶりとやりはしないが」
 縄で結わえられた不自由な舟が水流にあわせて上下し、その横を、朽ちた板きれがのんびりたゆたってゆく。その様子を眺めながら、日下部は静かに語る。
「私に二つになる娘がいることは知っているね。とても愛らしくて、良い子だ」
 日下部の妻が、娘の年齢と同じだけ過去にこの世を去ったことも、佐伯は知っている。
「娘のためならいつでも命を捨ててやるが、生憎と、他の奴のためにくれてやるつもりはないんでね」
 日下部は刀の柄を拳で軽く叩き、佐伯の方に顔を向けると、白い歯を見せた。
「そんな薄情な奴に任せたんじゃ、皆もたまったものではないだろう?」

 その後、佐伯幸之助は念願の定町廻り同心に抜擢された。かつて日下部に言われた言葉も忘れるほどの激務に追われ、何人もの下手人を捕らえ、いつのまにか、町で一目置く存在となるに至った。
 それからさらに数年が経ち、雪が積もる川辺に、なますのように切り刻まれた佐伯幸之助の死体が発見された。御用聞きによると、佐伯は絶命する前に、不可解な血文字を雪の上に残していたという。
 猫ねずみ、と。















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