#57 肌色鉛筆
体育の授業で柔道が課目だと俄然意欲を出して、率先して教師面する柔道部。彼らは初めこそ親切に手ほどきをするが、いざ実戦となると子羊を狩る眼光で容赦なく大技を素人相手に繰り出す。そしてふふん、と鼻を高くする。
意気がる。ここぞとばかりに。
その瞬間が人生の絶頂期であるかのように彼らは、意気がる。
くだらない優越感で帯が緩んでやがる。
しかし、そのくだらない、と吐き捨てたかった彼らが、いかに要領よく立ちまわっていたかに気づき、僕は眩暈に似た焦燥を覚えた。
「近藤、さっさとしろよ。ちゃっちゃと描いてくれよ。バレんだろうがよ」
「待って。待ってくれ」
「難しい事言ってねぇだろ。裸描けって言ってるだけだ」
僕は美術部で。
今現在、美術の授業で。
授業と関係のない女性の裸体をクラスメイトから要求されているのだった。柔道部に所属していればこのような苦境には立たされなかっただろう。汗臭い道着に身を包んで、連日受身の練習をしていればよかった。暴力と紙一重の年功序列に頭を下げていればよかった。
選択を誤った。が、今を乗り切ればこの短絡的な後悔は息といっしょに消えていくだろうし、深く考えないようにする。
「みてぇんだよ裸が」
ニキビ面でいかにもスケベそうな奥則夫が、僕の背に軽く抱きついて囁く。別段仲がいい間柄でもないのに、こと頼みごととなると誰しもが極端に低頭姿勢かフレンドリーである。
「帰ってエロ本でも、ネットでエロ画像でも見れば済むじゃないか」
「近藤。俺はな、女の裸が大好きなんだ」
「自信満々に言われても」
「俺はな……女の裸が大好きなんだ……」
「深刻そうに言われても。それに大好きならなおさら帰ってちゃんとした? 裸を鑑賞すればいいじゃんか。さあ席に戻ってくれ」
かれこれ五分以上も奥は僕に依頼を続けているのだった。先ほどから美術教師の末広がちらちらと視線で注意してきていて、内申点が下がっていくのを肌で感じている。
末広は美術教師なので当然、美術部の顧問も担当しているのだが、部員の僕も何を考えているかよく分からない謎の教師だ。はっきり口で注意しないから、逆に怖い。
「奥。頼むから席に戻ってくれ」
「エロにひたむき状態の俺を動かしたいなら戦車でも持ってくるんだな」
「そういうのいいから。頼むよ、末広がさっきから睨んできてるんだ。ああいう静かで何考えてるか分からない奴が怒ると、とんでもない事になるって一六年も生きてたら想像がつくもんだろ? だから頼むよ」
「イエスが聞きたい。こちらの要求はそれだけだ」
僕は嘆息をつき、投げやり気味に、
「イエス。でも期待はしないでくれよ」
「適度な期待はモチベーションアップに繋がるんだよな」
「……まぁいいよ。席に戻って」
去り際に奥は親指を立て、グッジョブ、と呟いた。先走ってる。おそらくグッドラックと言いたかったのだろう。それでも意味がよく分からないが。
やれやれ、僕は指を鳴らしてから鉛筆を握った。やっと本来の授業内容、モデルのデッサンが描ける。
中心にモデルを一人座らせて、クラス全員で円状に椅子を並べ囲んでいる。
モデルは多数決で選ばれた山口保香。死語で表現すればクラスのマドンナだ。品行方正で生徒だけでなく教師も篤い信頼を寄せている。
彼女は可愛い。
まじまじと、あくまでモデルとしてでも観察すればするほど美意識が刺激されて幸せに包まれる。
「いいなあ」
思わず率直な感想が口に出る。
「だよなあ。着やせするタイプらしいしなぁ」
はっとして隣を睨むと、奥が下品な目線を上下させていた。
「なんでいるんだよ」
「席変わってもらった」
末広を確認する。末広は心ここにあらずといった感じで壁に寄りかかっている。残念ながら問題はないらしい。末広にはがっかりである。
「描いてねぇじゃん。全然描いてねぇじゃん。イエスは嘘だったんか? 神を冒涜するのか? 暴徒化か? 我ながらすべってるの自覚してるぞ?」
「いま描こうと思ってたところだよ。わざわざ監視しなくてもいいのに」
これで描かずにやり過ごすルートは途絶えた。
「ふぅん」
「なんだよ」僕は言う。「細かい注文は聞かないぞ」
「いやいいから、手を動かしてくれ。ちゃんとモデルを見て、な」
「モデルを……」
なるほど。
「だめだ。アウトだアウト。いくらなんでも下劣すぎる」
「俺は注文しちゃいないぜ」
奥はガムを噛んでいるのか忙しなく口を動かす。憎たらしい奴だ。
「その条件は飲めない。無かった事にしてくれ。そもそもこちらにメリットはないんだ。交渉は決裂というより、最初から断裂してたな」
「か、顔は描かなくていいんだ!」
「注文したな! 今はっきり注文したな、奥!」
「あ、ミスった! 今のは取り消しだ!」
「だめだ。大抵の場合、チャンスは二度も訪れないんだよ、奥」
漫画であったような気がする科白じみた僕の一言で奥は身内に不幸があったかのように頭を抱えて苦しそうに呻いた。
こいつ本気だ、と僕は少々慄く。
「裸が大好きなんだよぉ」
奥は僕にすがりついて半泣きで訴える。
「静かにしろ。周りに迷惑だ」
「……お前が裸を描くまで駄々こねて迷惑ばらまいてやる。おもちゃ売り場の糞ガキリスペクトだぜ」
脅迫を始める。とんだ人型兵器がクラスに紛れこんでいたものである。
「お前山口が好きなのか?」
「性的欲望のはけ口にしたいぐらいには」
「一度死んだほうがいいよお前」
「褒めるなよ」
こうしている間にも時間は刻々と削られていく。どうせならやっつけ仕事で済ませて、描いた絵を退魔よろしく奥の体に貼りつけて悪霊退散してやるのが吉。アクシデントは最短距離で振り切るのが僕のスタンス。
「……さて描くか」
奥がにやり笑う。「待ってました」
裸を描く。つまりはヌードデッサン。二度だけ経験がある。一度目は春先、まだ入部したての頃だ。純朴なティーンエイジャーに対する度胸試しで、この時期の風物詩らしかった。僕以外の新入部員は女子なので、恥ずかしさは尋常じゃなく、晒し者に近い被害者意識を覚えていた。鉛筆の先が震えたり、なぜだかなんども尿意に襲われたり。
いい思い出ではない。
二度目は先週だ。モデルさんは凄く綺麗な人だった。後ろめたそうに名乗っていたから偽名かもしれないが、確かサトウさんだった。末広曰く、ヌードモデルってのは結構流動的で一度きりの人もいれば何十年と続ける人もいる世界らしく、彼女の裸を恋人や温泉客以外で見るのは君らが最後かもな、と何を考えているか読めない美術教師はぽつりと言っていた。
いい思い出にしよう、こちらは。
「山口可愛いなぁ。触りてぇ」
奥のぶち壊しな一言で僕は艷めかしい過去を心の宝箱に戻す。
「山口はドスケベに違いない」
「根拠もなく言い切るなよ。失礼だ」
山口の悪い噂は耳にしない。怖いぐらいにクリーンだ。
「いや俺には分かるんだよ。なんというか……同胞の香りというか、腹違いの兄妹というか。なにより泣きぼくろのある女はドスケベって相場が決まってるからな。染色体レベルで」
「山口が聞いたら泣くぞ。わんわん泣くぞ」
「女は泣いてる姿が一番エロいよな。喪服の女とか最高だろ、きっと。すんすん泣いてると不謹慎ながらもご相伴にあずかりたいと思うよな」
同級生とは思えない親父臭さだ。まぁね、と生返事をしておく。
美術室の壁にかけられた時計を見る。ちょっと本格的に時間がない。モデルデッサンを諦めて、ヌードだけを描く時間しかない。
これでいて奥はクラスの中心人物なのだ。常に打算的な僕としては課題を家に持ち帰るのは良しとしても、こいつの機嫌を損ねるのはなんとしても避けたい。ずるずる話し込まず早々に適当な仕事をしておけば、と惜しむ。
「これから本気で集中するから。黙っててくれよな」
「オッケー」
よし。
山口を観察する。よく観察する。
人体に完璧な直線は存在しない。曲線が直線を騙っているに過ぎず、人体は曲線を集めて簡略化しどうにか小奇麗なフォルムに見せかけているだけ。女性の場合は曲線が強調されていて、分り易く、描き易い。よってモデルは女性が好まれるそうな。
山口は椅子にかけて、自分を抱きしめるように腕を組み、スカートから白を覗かせる長い脚はリラックスして伸ばしている。
漠然なイメージが徐々に固まりだしたら、頭の中で整理して余計なものを添削する。やがて黒鉛筆が走りだす。一旦リズムをつかむと面白いように紙の上を線が埋めていく。
「おお、美術部みてぇ」
「美術部なんだよ。一応な」
僕の思う山口のヌードと、実際の山口の情報が着々と結合していく。奥に同調するわけじゃないが、山口を着痩せするタイプと仮定する。いや断定する。イメージと泥団子は固まれば固まるほど優秀だ。
胸はやや大きめに。腰回りはやや太いが健康的で手の甲を押し付けるとぴったりはまり、弾力性は申し分ない。二の腕は生活に適した筋力をさりげなく誇示しつつも、異性に太ましいたくましいという野卑な印象を決して植えつけない膨らみ。質感、肌質は……。
「参ったな」
実力不足だ。手を止める。
「どうしたよ。おっ、すっげーな、おいおい。エッロ、マジでエッロ、お前エロエロだな、おい」
「駄目だ。質感が……」
「質感?」
「ああ。あまりに、画すぎる」
「デッサンてそういうもんじゃねぇの?」
僕は首を横に振る。「違うんだ。僕は想像とはいえより完璧に近い裸を描きたいんだ。それにはやはり生の質感が必要だし。くそっ」
ことさらに悔しがってみせる。
「いや、いいって。凄いって。よく描けてるって。うわ、エッロ! 特に胸が俺好みの割れる寸前の風船的張りとか!」
「……そうかな?」萎縮しながら問う。
「オッケーよ!」
「お前がいいって言ってくれるならいいんだけどさ」
よし。なんとかなった。時間以内に第一の課題を済ませる事に成功。なんたるかをまるで知らない相手をたばかるには自ら辛辣に批判──卑下してやることで、相手を満足させるのが手っ取り早い。
「貰っていいんだな? 遠慮はしないぜ?」
「依頼者は黙ってブツを受け取るだけでいいんだよ。なんていうか……ハードボイルドだろ?」
「しまった。葉巻ぐらいいつも持っとくんだった」
「持っててもどうせ火がないってありがちなオチに決まってる。格好がつかないな」
「はっは。言えてる言えてる」
阿呆ここに極まりだ。僕は苦笑を隠さずに、
「まだちょっと時間あるし本来の課題も描けるだけ描いとこう」
「そうだな。大体描いとけば家でどうにでも出来る」
そう言って奥は立ち上がる。「じゃっそういうことで」
「あ?」
怪訝に思うが、すぐに理解する。用が済んだら退散って訳だ。
「現金な奴」
「思ってもわざわざ口にすんなよ。敵が増えるだけだぞ」
「上から目線だな」
「違う。ただの注意だ」
僕は敵を作らない。発言はすべて相手によって決める。主体性と自己正当化はとうに捨てていた。できた子であろうと誓っているのだ。だから絵を描く。絵を描きたいと思う。僕自身が何もない空洞だから埋め合わせや、感情移入先を自分の手で、こればかりは自分勝手に。それに喜びを覚える。
一息つくと、奥に描いた山口の仮想ヌードがまぶたの裏に焼き付いていた。まばたきをするとシャッターが切られる。しかし、顔は映らない。顔だけが、見きれている。でも山口の声が聞こえ、僕の筋肉は硬直する。
当然のようにいやらしい事を考える。胸が熱くなる。
山口が微笑んだ。まぶたの裏で。
「近藤」
「なんだよまだ何か?」
鼻息を荒くして戻ってきた奥が肩を叩いてくる。
「こいつを塗ってくれないか?」
「……色を?」
奥の手には肌色の鉛筆が握られている。
どこでこんなものを。今回の美術の授業で使うのはデッサン鉛筆だけだ。学生は得てして荷物が増えるのを嫌うので普段の筆箱にデッサン鉛筆を一本入れておき、他の道具は必要とあらばしぶしぶ、といった感じで用意する。
「拾った。足元に落ちてたんだ」
なるほど。イレギュラーだ。
「色は塗らない方が映えると思うよ」
面倒だからそれらしいことを返す。
「世は二一世紀。モノクロよりカラーを尊ぶ時代だ、絵かき屋さん」
「モノクロでアナクロが流行する時代でもあるはずだよ。何から何まで最先端じゃ味気ないから。懐古主義者が目くじらを立ててなきゃ最先端は最先端に整列できないしね」
「件はエロだ。エロエロだ。各種主義の横槍は無用だろ? 無粋なくらいにな。いや、不快なくらいに露骨な追求だ。同時に命令でもある」
突然、強気になる。牙を剥き出しにして命令ときたものだ。
ありがたいことに時計は残り時間をガキの色塗り遊びに合わせたように刻んでいる。ファックだ。サノバビッチだ。昨夜、ロードショーでトカレフを乱射していた尻丸出しの刺青女が、僕を蜂の巣にして歯をみせる。
「いいよ。了解。でも時間がないんで、粗い仕上がりになると思う。あとになって、『今の方がよかった』は通用しない交渉となる。メリットは少ないね、後ろ盾に大使館を並べた希望的観測でも覆らないほどに」
「学生だ。後ろ盾も何もない。ひたむきなまでに学生なんだ、こっちは」
「分かってる。境遇は同じ。一寸の狂いなく」
「なら答えも分かりきってるはずだろ?」
「……追求」
「ひたむきに、だ。……エロを、な」
僕は天を仰ぐ。といってもくすんだ天井があるだけだが。
「オーケイ。尻の穴が濡れても後悔すんなよ」
「あいにく俺の前立腺はお利口さんでね」
薄ら笑う奥。ここではっと気付くが、彼も昨日のロードショーを見ていたらしい。
つられて薄ら笑う僕。「お絵かきの続きでもやってなさい」
けらけら笑う奥。
適当に塗っておしまいだ。課題は部活中にでも描きあげればいい。頭の中に山口のフォルムは叩きこんである。
何よりノッてきた。ノッてきてしまったのだ。愚直にも僕はデッサンとは名ばかりの、いやらしいこのお絵かきを。放課後連中が茶を飲み、ファーストフードを食らい、女の尻を値踏みしている間に得たスキルをもって楽しみだしてしまったのだ。思えば僕も山口は妄想のはけ口に何度か使ったこともある。悪い気はしない。罪悪感はペン先を滲ませもしないし、筋を痙攣させたりしないのだ。
「とことん自分が嫌になる。流されやすい性分も、受け入れては気持よくなる気質もだ」
小声でごちったら握る肌色鉛筆がエンジンがかかったように唸り出したようだった。ここまでか。こうもノッているのか、と僕の自虐に拍車がかかる。学生だ。学生ゆえにだ。性に支配され、柵の中で生きる学生ゆえにだ。華やかさとは遠い泥臭い道中のど真ん中で笑い憎み蔑み怒り戸惑い続ける。どうだ、哲学的じゃあないか。たかが同級生の裸を想像しているに過ぎないのに!
「考え事は後回しでいいだろ、近藤」
「……だな」
どう体裁を繕ったってやってる事が下品なのは否めない。
僕は肌色を、白と黒のコントラストに一筆入れた。
──その瞬間だった。
「はぁぁっぁんっ」
美術教室は水を打ったように静まり、僕だけがその奇怪にも快楽に果てる声が誰のものか不名誉ながらに即答してしまい、唾を飲み、生々しい唾が喉を通る音が美術教室中にサイレンのごとく響いたようで寒気と怖気がした。
「末広……」
振り向きざまに僕はそいつの名前を口にする。肌色鉛筆が震える。いや震えているのは僕の指だろう。
あくびならまだしも。放屁ならまだしも。要するに生理現象なら、誤魔化しがきく。しかし末広は、のっけから本能剥き出しだった。何故に授業中に、僕や奥に負けない下品な声を!
ざわつくクラスメイトたち。当然の反応だった。普段は寡黙が祟ってよく出来た蝋人形の異名を持つ末広が急に……。
ホラーだ。
「先生どうしたんですか?」
人のいい女子が明らかに怯えながら末広に声をかけた。
「肌色……」
末広ははっきりとそう言った。
「え?」
「近藤くん、肌色、ダメ……」
末広はどもりながら、かすれ声で僕を呼んだ。
警察の掲げる標語か? すぐさま理解できるエクスキューズは与えられていない。
「手を、離しなさい」
途端に、美術教室の後方で気だるそうにしていた教師は、本来なら死人であるべき足取りで僕に迫ってきた。遅々とした、そして必死の形相で。毎日毎日、繰り返される日常で、毎日毎日、嫌気も死ぬほど顔を合わせてきた教師が僕に迫ってくる。
おぞましい!
銃は? 僕の銃は? トカレフ、トカレフ、トカレフ……! ミリタリー知識が乏しい僕にはトカレフしか頭に浮かばない。
「訳がわからない」
「近藤!」奥が猫なで声で言う。「俺は関係ないよな」
「ふざけるなよ! お前が乗せたくせに! 泥船どころか幽霊船じゃねえか!」
なりふり構ってられるか。口調が下衆くなる。
「近藤くんただちに肌色鉛筆を破棄しなさい」
僕は恐怖に駆られて即答する。「……嫌だ!」
「なんでだよ!」奥が怒鳴る。
まったくだ。「すまん。思わず」
「早く捨てろ! 足元にそれ置けよ、近藤」
「ああ分かった」
屈んで、しかし視線はひゅーこー、と切迫した呼気を吐く美術教師からそらさない。ゆっくり肌色鉛筆を床に置く。
「はぁはぁ。いいんだ。うん、実にいい。そのまま。そのままだ」
末広は下っ腹を押さえ、息も絶え絶えに僕をあやす。
未曽有の危機は去ったのだろうか?
「あっ」奥があほ面に磨きをかけて言う。
「どうした?」
「昨日テレビで映画観たんだけど。ドンパチの。チャカ満載の」
「俺も観たよ。ヤクザものじゃなかったけど」
「同じようなシーンがあったろ? ほら妻のルーシーを人質にとられたジョバンニが、敵に銃を床に置けって命令されて」
「あったな。奥さんの強情さと悔しさが表れてたこぼれる涙は名演だった。すこし泣いちゃったし」
奥は頷いて、
「そのあとジョバンニ、足を撃たれ──」
僕は奥が言い終える前に行動していた。舞台は最後の夏、甲子園の切符を賭けた高校球児らの戦い、輝く汗と太陽、九回裏ラストバッター、当たりはぼてぼてのショートゴロ、だが諦めるな諦めるな、決して諦めるな、土をかぶった白いファーストベースにバッターはヘッドスライディングを……という感じで。
床に転がる肌色鉛筆に飛びついた!
末広が目を見開いて、
「いやああああっ」絶叫する。して海老反りで、悔しそうに身悶えする。エレクト、エレクトだ。
「あぶねぇ……」
「お前意外と行動力あるな……」
「三度の飯より安定が好きなだけだよ」
額に嫌な汗が横切り、学生服の裾で拭う。
「近藤くん今なら先生怒らないからね? 本当だからね。先生極めて冷静よ? 早くそれを……んんっ……敏感なところをんっ」
「絶対やるなよ近藤」
「ああ。『怒らないから』は悪い大人の常套句だ」
「先生は悪い大人じゃないよ。先生嘘つかない。先生は敏感なだけ。人より敏感なだけ」
「インディアンも腹いっぱいなら飯残すし、命の危険感じたら嘘もつくわボケ!」
「奥、言い過ぎ」
「交渉はどれだけ優位に立ち続けるか、だ。こちとら一歩も引くつもりはねえぞ!」
経験から納得である。教師と生徒の会話とは思えないが。
「お、お願いします。敏感なんです」
苦しいのか気持ちいいのか分からないが、末広は最早こちらに向かってくるのをやめていた。肌色鉛筆の代わりに床に転がっている。下腹部付近を押さえて。
すこし冷静になって思索をめぐらすと、とてつもなく脈絡のない話だ。笑えない。
「おい近藤……何ぼーっとしてるんだ。早くしろよ」
なぜか奥は、僕をかばうように腕を横に広げている。
「え、何が?」
「肌を塗れ!」
「しょ、正気ですか! そんな場合はとうに過ぎてるだろ!」
「肌色を塗りたくれ! ここは俺が死守する!」
「オージーザス、対話が不可能ときたもんだ。おまけに自分に酔ってやがる」
映画のワンシーンを再現中なのだ、彼は。
「ぐっ……あまり長くはもたねぇようだな……。だが悪くねぇ、好きな女のために死ねるなら……俺みたいな馬鹿がいてもいい、そうだよな神さんよ……」
「絵だから。これただの絵だから」
「うだうだ言ってねぇで早くしやがれ、ブラザー! 愛してるぜ!」
「……サノバビッチ!」
自棄だ。ああ、この際自棄だ。クラスメイトたちはとっくに終業のチャイムを待たずして潮が引くように教室に戻っているし自棄だ。
僕だってとっくに自棄になっている!
「肌を塗る! 塗ってやる! 塗ってやるぞ!
「そうだ、肌を塗れ!」
「やめてえええええええ」
末広の痛切な悲鳴。だが僕はすでにブレーキが壊れたトロッコ。ひたむきに純情。曖昧に冷静。激動に感謝。悪戯に、制止の声に軽快なノーを叩きつける。
なんて事のない、一見して他の肌色鉛筆と違いの分からない肌色鉛筆は、いったいどうしたのか末広の性感帯を刺激しているらしく、それを僕は偶然にも、というより奥が見つけたらしく、それを僕は偶然にも握ってしまったらしく、ああ、末広の、仏頂面の末広の性感帯を僕は荒々しくぎゅっと握っているわけで、ならばどうすべきかは一択なのだろう、自我が不安定な学生諸君なら同意をもって僕に頷きを返すはずだ。
恨みがなくとも、相手を虐げる快楽は別腹なのだと。悪意の親戚を僕は知った。知ろうとしているんだ。
探求!
「足から!」
探求!
「腰まで!」
「山口、好きだああああ」奥が叫ぶ。
「一気に、登り詰める……」
「山口、やらせてくれえええ」奥が叫ぶ。
「顔は丁寧に……だ。たまらないよ、もう何がなんだから分からないけども。分からないからこそなんて思えちゃうほどにだよ。たまらないんだ」
自分自身に慄きながら、肌色鉛筆を床に置いた。
奥が死線を超えた顔付きで僕の元へ。山口の裸が描かれた紙を眺める。なめるように眺める。足の先から乳房の先まで。目がぎろぎろと動いている。
「違う……」
「え? どうした? 血迷ったか?」
「違う! こいつは……」
蒼白に顎を小刻みに揺らす。奥は、違う、と言った。否定だ。イメージと違う? いや、そいつはなしだと予め釘をさしてある。奥は下衆だが、無粋ではないと思う。共に死線を乗り越えた身としては信頼したく思う。
美術室に冷たい空気が満ちた。床に転がる末広はぴくぴくと痙攣している。末広の横たわる床は、びっしょりと濡れていた。僕は、奥の真意を待った。
「こいつは、山口の裸じゃねぇ。もっと恐ろしいもんだ……」
「何なんだよ! だったら何なんだ!」
奥は言った。「分からない。怖い。怖い。俺は、怖い!」
情けない男がいた。クラスで権力を持つ男は、未知の存在に怯える小市民じみていた。もうだめだ、奥は。僕の中にあった打算からくる丁重な扱いはもう使えそうにない。
紙の上の裸は慄然とそこにあった。怯える奥を笑い、山口の裸は僕に語りかける。まだ分からないの?
「まだ分からないの?」
誰かが言った。
あえて誰かがと言わせてほしい。僕も情けない男だった。
「教えてあげるよ」
誰かが言った。恩着せがましく。
「言うな」奥が怒気を顕にした。「言うんじゃねえ、末広」
「知っての通り、私は美術部の顧問だ。日々、部員たちを見守っている。彼女、もしくは彼らの行動言動。嫌な話もね、聞くよ当然だけどね。致し方無いと諦めて聞き流している」
「うるせえよ。黙れよ」
棒にでもなったような四肢が不気味に、末広をその場に顕現させる。まさにそう言うしかない立ち上がり方。末広と目が合った。末広は口角を、にまぁとあげて語り続ける。
「私は日々、部員たちを見守っている。美術室に顔を出さない日はない。察しはつくだろうけど私は同僚たちの中でも浮いてしまっているんでね。ふふ。居場所が美術室だけだってのも多分にある。いいや、認めよう。悲しい事だがね。事実は不幸ばかり生むよね……」
末広は目を細めた。先程まで奇怪な行動をとっていた者とは思えない滔々とした語り口がいっそう気味が悪い。全身の神経が、すぐさま逃げろと警鐘を鳴らしている。でも動けない。一歩も動けず、聴覚がやけに鋭敏になっていく。
「私は彼をみていた。毎日毎日、彼をみていたんだよ」
奥は、やめろやめろ、とたわごとのように繰り返している。
「何が言いたい?」彼は訊ねた。「僕に何が言いたい?」
彼──僕の声は強がるガキそのものだったのだろう。末広が一笑した。
「不可解な事は一つもない」
「不可解そのものじゃないか!」
「理解を拒む道理だよ、そいつは」
「世迷い言を口にして気取るのはらしくないでしょう、鉄面皮さん」僕は嘲るように言った。「喉まで出かかってるものを早く吐き出したらどうです?」
授業を終えた美術室には僕と末広だけがいた。一生徒と一教師だけがいた。静寂が矛盾するようだけど、ひたすらに囀っている。耳を塞ぎたくなる。
「その裸は……」
静寂を末広が切り裂いた瞬間だった。重なるように、
びりぃ
紙を裂く音。二枚になった紙を指でつまんで、けたけたと笑う奥。
「やってやったぜ。やってやった!」
「奥!」
末広が怒鳴る。「私の裸! 私の裸を!」
奥は耳を塞ぎながら、興奮を体で表現しつづける。けたけた。
「君をみていたんだよ! 私はいつも君をみていた! 来る日も来る日も君の指先、君の呼吸、君の毛先を! 参加自由な美術部じゃあ毎日顔をだすのは君と私だけだ! 恐らく、いや絶対に、いやそうでなくてはならない! 君にとっても私だけのはずだ!」
「こいつはいい。愉快だ! 愛だよ! 違いねえよ!」奥が気が狂ったように野次る。
「母のいない君にとって異性は私だけ……。異性のイメージは私なんだ。そうでなくてはならない! 繰り返す、そうでなくてはならない! そして証明された! 繰り返す、君にとって異性のイメージは私なんだ! だから私の裸を描いた。私の目に、私の裸が目に入ったとき、大喜びだったよ私は……身悶えが止まらないほどに大喜びさ……もうどうにも止まらないよ、獣欲が抑圧に耐えかねて、今にも胸を突き破りそうさ!」
敵を作るな。
父は子どものころから僕に何度も言った。母はすでにいなかった。僕の人格は、他者に迎合できずたたらを踏み形成されていった。確かにそうなのだろう。しかし。
認めてたまるか。
「さあ、おいで」
「断る。糞野郎」
「居場所はいらないのかい?」
「そりゃ欲しい。正直な所」
「正直な子は好きだよ。学生はそうでなくちゃ、ね。君も重々承知の上だろ?」
僕の行動をすべて見透かしているようだ。虫唾が走る。
「君が色を加えようとしたとき、直感的に危機感を覚えた」末広は肩を落とした。「でもそれは快楽が怖かったからだった。今は幸福に満たされてる。感謝だ」
「質感……」
「リアリティは、やはり色からだよね。私たち画家に胸を焦がす人間に言わせればさ」
「くだらない」
「まーたそうやって認めるのを拒むスタイルだ。私といれば明日が明るいよ? どうだ? どうなんだい?」
奥の姿はなくなっていた。代わりに、一年以上毎日顔を合わせていた知らない人が、僕の顎を撫でている。僕の視界は酷く狭くなっていて、心臓はどうにかして活動を停止しようと一生懸命だ。どうにでもなれ、とは決して思わない。しかし、どうにもならないんだ。
山口保香を思い出す。山口は僕の下の名前を覚えてくれているだろうか。僕は山口が好きだ。山口を好きでいればいいのに、と他人ごとのように願う。きっと恋の域にも達していない邪で最低な感情なんだろうけど。山口を利用してでも僕は現状を打破したい。
「いいよね?」
末広が僕の制服のボタンを外しながら問う。
「気持ち悪いよね? でもしょうがないよね? 気持ち悪いの先に気持ちいいがあるんだからしょうがないよね?」
現実ってなんだろう。椅子に腰掛ける僕の体を愛撫する末広の頭越しに、僕の教室が見える。数学の授業を受けているクラスメイトたちが見える。誰も僕を見向きもしない。なぜ僕はブルー入ってるんだろう。さっきまで愉快に、はしゃいでいた気がする。友人とふざけあっていた気がする。内向少年の僕が、だ。
それさえも現実じゃなかったのかもしれない。遠い過去のように感じ、まぶたが誰かに押されているように重い。
美術室のドアが固く閉まっている。終令のチャイムが聞こえてこなくて、僕はここから出られないみたいだ。足が床に埋まっている。
なぜ辛い?
なぜ泣けない?
なぜ拒めない?
必要とされたから?
必要としたから?
「いいよね? いっぱい、いーっぱいいいよね? だって私たちは──野暮だよ。言わせるのは。結論はふたりだけの秘密……だよね!」
事が済んだら家に帰って。祖母のルーシーが焼いたアップルパイと熱いコーヒーを飲んで。ドラマの再放送を見て。羊たちに餌をあげながら父のジョバンニを待って。もし隣の家のヨシくんがいるのならキャッチボールに誘って。日が暮れたら家で母の末広と明日についての考察をしながら晩ご飯を食べて。風呂から出たら幼なじみの山口保香に面倒だけどおやすみの電話をして。
それから、それから……。
僕が射精すると、末広は、
「いけない子だ」と腐った笑いを浮かべ、肌色鉛筆を振りかざした。
根本的な質問で悪いけど、そもそも肌色鉛筆ってなんだ?
言下に末広は、そんな画材はないよ。あとは振りかざした『それ』を僕に突き刺すだけだった。
―終―
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