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#5 悩み事は雨天決行
 じめじめとした湿気が鼻の先端に触れ、外が悪天候なのが分かった。窓を見ると星の数ほどの水滴がついている。
 閉じるのを忘れていた真っ白なカーテンが窓に触れ、若干滲んでいた。
「これだから一階は嫌だったのよ…」ふいに独り言が漏れる。
 私は一階だけは嫌だと反対したのだが、親はそれを無視し、一階を選んだ。「だって、高すぎると怖いでしょ」母親は屈託ない笑顔で言うと、私を無理矢理に納得させるように、水洗いのせいで荒れた手で、私の頭を優しく撫でた。「ずるい」と私は頬を膨らませた。
 一向に眠れる気配がなく、ベッドから起き上がり、テーブルの上のプレイヤーに手を伸ばした。プレイヤーから蔓のようにだらしなく巻かれているイヤホンを耳にかけると、程なくして音楽が流れ込んできた。
「一週間でどんな人も生まれ変わる」そんなことを先日解散したばかりのバンドのフロントマンは気だるそうに、リズムに乗せ歌う。
「たった一週間で人が変われるわけないじゃん…」
 雨音は強くなっていった。

 薫は端的に言うと『男性恐怖症』であり、それが原因で学校では白い目で見られている。男性に話しかけられるのは勿論のこと、男性が触れたものに触れることさえも恐れている。男性に関わるだけで手の震えが止まらなくなり、酷いときは吐き気を催す。そんな薫を、人々は「お高く止まってる」や「意味が分からない」などと中傷とまでは行かずとも、薫を傷付けるには充分すぎるほどの言葉で表現する。
「好きで嫌ってるわけじゃない!」薫の思いは届くわけもなく、心の濁った部分が更に濁るだけだった。
 面倒な毎日の中で俯いてばかりいると、状況は悪化するばかりだった。比較的、擁護側についてくれていた女性たちも薫を非難し始めた。明確な理由は解らなかったが、男性の目を気にし始めたのだろう。「一人よりも多数の異性を選んだ」賢い選択だな、と薫は納得しようとしたが、まだ中学生の薫にはそれが容易いものではなく、塞ぎこんだ。殻に閉じこもった。「誰とも関わらないのが一番、楽」布団の中に入り、自己暗示をすると本当に少しだけ楽になった。

 イヤホンを耳から外すと、強くなった雨音が新たに耳に流れ込んできた。壁にかけられた時計を見ると、分を示す針よりも長さが劣っている針は零時を指していた。思ったより時間が過ぎており、損した気分になる。同時に、このまま朝を迎えるとまた学校に行かなければならない、と鬱屈な気分にもなった。
 薫は冷たい視線を浴びながらも、学校には通っていた。目に見える攻撃、つまりイジメはなかったが、囁くような陰口が耳に流れ込んでくるのが辛かった。「攻撃よりも口撃のほうが痛い」薫は痛みを堪えながら、学校生活を送った。朝を迎えると、挨拶よりも先に溜息が零れる。今日もきっとそうだろうな、という確信があった。
 ふとそろそろカーテンを閉めようと思い、窓に近づくと一瞬だけ、外が明るくなった。雷だった。音が大きかったので、近所に落ちたのではないかと心配したが、それよりも気になることがあった。窓に人影が映ったのだ。

 室温と外の温度差で出来上がった濡れた窓。そこに映った人影。確認するか、迷っていると窓を軽く叩く音が聞こえてきた。びくりと、薫の肩が上がった。
 強盗、それとも更に劣悪な何かか。薫の頭の中をいくつもの憶測が巡る。だが窓を叩く音が、どことなく謙虚である為か、不思議と強い恐怖感は抱かなかった。窓の一部分を上着の裾で拭い、耳を当てた。ひんやりと冷たい感覚が伝ってくる。「あの…誰かいるんですか?」
 薫の声が聞こえなかったのか、それとも誰もいないのか、窓の向こうから反応はなかった。窓をノックするような音も消え、気のせいだったのかと薫が自己完結を始めた時だった。「すいません、勝手に雨宿りをさせてもらっています」窓の向こうから、痰が絡んでいるような低い声が聞こえてきた。男性の声だった。
 男性だと認識するや否や、薫は窓から離れてた。この場合、離れたというよりも逃げたと言ったほうが良いのかもしれない。体が反射的に窓から離れていった。大声を出し、両親を呼ぼうと思うが、今日は二名とも不在のことを思い出した。今日は自治会の集まりがあると言って、朝まで帰宅しないと言い十七時には二人揃って家を出て行ったのだった。「どうしよう…」薫は怯えながら、ベッドから掛け布団を奪うように取り、それを頭から被ったがノックの音は絶えず、聞こえてくる。合間合間に「すいませーん」と呼びかけるような声も聞こえてくる。
 すると段々、恐怖よりも苛立ちのほうが強くなってきた。
 薫は枕を窓に力強く投げつけ、「け、警察を呼びますよ!」と叫んだ。
「やっぱりご迷惑ですよね…」と、窓の向こうの男は残念そうに言う。
「…当たり前です!」男の謙虚な態度に戸惑いを感じる。
 ふと薫は冷静になり雨音が強いにも関わらず、なぜはっきりと声が聞こえてくるのかと考えた。原因が分かった瞬間、背筋が凍った。窓の右上にある小窓が開いているではないか。「最悪…」
 小窓を閉めねばと、薫が意気込み、ベッドから降り再度窓に近づくと、「すいません、もう行きますんで」と男の声が聞こえてきた。「…この雨の中をですか?」薫が自分の口走った言葉の意味を理解するのに数秒かかった。

 薫の住むマンションの窓には雨が窓ガラスにつくのを防止のために、小さな屋根が備え付けられていた。この屋根は横雨以外には大変成果を上げていた。「どうせなら水滴防止のガラスも欲しかったな」水滴防止のガラスというものが存在するのかを知ってか知らずか、薫は思っていた。
「え? ご迷惑じゃないんですか?」窓の向こうから困惑の声が聞こえてきた。その問いを投げかけられた当人も困惑しているため、すぐに答えることが出来ず、「えっと」などと言葉を濁す。
「雨…強いですよね」薫は小窓に手を伸ばしながら、怯えるような口調で言った。
「えっとまあ…そうですね。雨が弱くなるまで雨宿りさせてもらえると有難いです」
「じゃあその」一時、口ごもる。「雨が弱くなるまでなら別にいいです…」
「えっ! 本当ですか? ありがとうございます!」男の驚喜の声に、薫は戸惑っていると、くしゃみが聞こえた。「風邪引いたな、こりゃ」と男が言い、鼻を擦るような音を立てた。
「あの、大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫!」男は風邪を引いた人間とは対照的な笑い声をあげた。薫はいつのまにか小窓に伸ばした手を下ろしていた。

 時計は静かに零時半を指していた。沈黙の中を時計の針の音が歩き回っている。実際に姿が見えないためか、沈黙の気まずさはなく、あるのは男にたいする若干の不信感と興味だけだった。
「あの…どうしてここで雨宿りを?」
 男は一度考えるように唸る声を出し、「買い物帰りでね」とだけ簡単に答えた。「そうですか…」河合が続かず、再び沈黙が訪れる。
「あ、あの!」薫はなぜ自分がここまで必死なのかと疑問を抱きつつも、男に再度問いかける。「私、その…男の方が苦手で…だから、本当はそんなところじゃなくて、他の暖かいところで雨宿りをさせてあげたいんですけど…怖くて…」
「君は優しいんですね」男の返答に薫は安堵をする。父親以外の異性に温もりを感じるのは、小学生以来だった。
 薫が「男性恐怖症」に悩まされ始めたのは、中学一年生の頃に受けたストーカー被害が原因だった。男に説明するには少々、言い辛いこともされたので薫は簡単に説明した。一通り話し終えると、男は低い声を更に低く出し、「許せない!」と語調を強めるように言った。
「許せないよ! そんなの!」男は感情的になり地団駄すると、雨水が跳ね、靴を汚してしまったようだった。「水が…」うな垂れるような声が聞こえ、薫は声には出さなかったが面白い人だな、と思った。
「ストーカーなんて最低だね!」
「最低です…」もしかしてこの男もストーカーなのでは? と、一瞬あらたな憶測が頭の中を過ぎるが、男と会話をしてから受けた柔和な印象があってか、その憶測にはすぐに「没」の烙印が押された。
「次は僕の話をしていい?」男は余程寒いのか、声が震えていた。
「あ、どうぞ」
「僕は君とは逆で、女性が苦手なんだ」そう言うと男は苦笑を漏らした。顔こそ見えなかったが、言葉にはそのような表情が埋め込まれていた。
「…そうなんですか」
「そうなんですよ」男は一度溜息を吐き、「でも君とはなぜか普通に話せているね」と続けた。薫は「私もです」と言おうとしたが止めた。雨音が弱くなっていたからだ。

「さて…雨も弱くなってきたし、そろそろ帰ります。ありがとうございました」男の感謝の言葉を聞き、薫はなぜか残念だ、という思いを抱いた。それがなぜかというのは認めがたかったが、すぐに理解した。しかし、その思いとは逆の言葉が出てしまう。「お気をつけて」
「本当に助かったよ。ありがとう。それじゃ」男が湿った地面を歩いていく音が遠ざかっていく。薫はその音を聞きながら、自分を励ます。「早く引き止めろ、引き止めろ!」と。
 ぎゅっと左の拳を握り、右手を小窓にかけ、小窓から、口を出すほどの勢いで近づき、外に向かって声をだした。「…傘、貸しましょうか?」
 水を跳ねながら、遠ざかっていく音が踵を返す音に変わった。「…お言葉に甘えようかな」男の声は優しく、薫は悟られないように笑みを零した。
 男の返事を聞いた後、薫はすぐさま玄関に走り傘を持ってきた。傘を渡すには、小窓は文字通り小さすぎた。そのため、窓自体を開ける必要があった。「窓、開けますね」薫のおどおどとした声を聞き、窓の向こうの相手が「どうぞ」と答えると窓は水滴を飛ばし、間抜けな音を出しながら大きく開いた。



「ごめん! 待った?」肩で呼吸をしながら薫が言うと、優希は空模様と比例した笑顔で「いま来たとこ」と言った。
 優希の女性らしい声を聞き、薫は安心するように微笑みながら言う。「あ、やっと風邪治ったんだ。良かったね」
「うん、ありがとう。薫の家で雨宿りしなかったら確実にもっと酷かったと思う」
「感謝してよね!」ふざけながら薫が言うと優希は頷いた。「枯れてた声もやっと治ったし」
「あの低い声も結構好きだったんだけどなぁ…で、今日は何処行く?」と、薫。
「今日はねぇ…」優希は薫の笑顔を見ながら、思考を巡らす。なるべく男のいないところにしよう、と薫のことを第一優先にして考える。自分にとってたった一人の友人と今日をどう過ごそうかと考えるのが、優希は楽しくて仕方がなかった。薫と出会った数日前の雨の日を思い出すと大事なことを忘れているのに気が付き、同時に行き先を決めた。
「ねぇ、決まった?」薫は目を輝かせながら優希の背中を指先で軽く突く。
 優希は薫のほうを振り返り、行き先を告げる。「今日はウチにおいでよ! 借りてた傘を返さないと!」優希は薫の手を握り、日曜日の街を歩き出した。
「私たちカップルに見えるかな?」
「さぁね、分かんない」と言った後に優希は「そうなれるといいね」と薫には聞こえないように呟いた。


―終―
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