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#51 焦げていく風景
 こんな場所来たくなかった。気乗りしないドライブは悪夢の居眠り運転だ。
 休日の家電量販店ほど人の声と機械音が騒々しく、競い合い共存する場所はない。
 佐藤幸辰(さとうゆきとし)は人気アイドルが微笑みながらマイナスイオンドライヤーで髪を乾かしている等身大ポップに怯み、立ち止まった。ぶん、と自動ドアが開き、砲声と思える異常な音たちが群がってきた。心のどこかでもしかしたら客足が遠のいているかもしれない、と考えていた。
 家電量販店は蛇に睨まれた蛙のような幸辰を迎え入れた。いらっしゃいませ……。どうぞどうぞこちらへ……。さあおいでおいで……。こっちのレンジは甘いぞお……。
「ねえ、パパ。はやく行こうよ」
 動かなくなった父を慮る息子の健太(けんた)が腰回りを引っ張った。幸辰はかぶりを振った。子の前で情けない。
「すまん」
「どうしたの」
「何でもないさ」なんてことはない。「さあ行こう。どこに行きたい?」
 健太は利発な子だ。父の異常に気づいている。でも子どもは子ども、親の言葉こそが真実で、すばやく吸収する。
「ママと姉ちゃんは向こうに行った」
 健太はドライヤーコーナーの方角を見た。妻と娘がなにやら楽しげに歩いていく背が見える。ポップの影響だろう。わかりやすいやつらだ。
「お前はどこに行きたい?」
 健太はうーん、と唸り、
「ゲームのところ」
「やっぱね」
 脂汗が浮かぶ額を拭って、無理して笑いかけるが健太はすでにゲームコーナーに釘付けだった。
 やれやれ。
「よし、行くぞ」
「うんっ」
「ただし買わない」
 えー、と健太が不満げに言いスキップで先を行く。幸辰は鉛玉を当てがられたような底冷えを無視して息子を追った。足取りは自然と遅くなる。
 腹が痛い。くそったれ。


 ゲームコーナーに着くなり健太は最新ゲーム機の映像が流れるテレビに夢中になった。わーすごいなこれ、と感嘆して目を輝かせている。
 幸辰も画面を覗き込んでみた。武士の格好をしたキャラクターが束でやってくる野武士たちをばったばたと斬り捨てている。歴史物のゲームらしい。キャラクターの人間味ある輪郭、服の皺までありそうな緻密な画、断末魔。ゲームもここまで進歩したのか、とアナログな2Dゲームしかプレイしたことのない幸辰は息子同等の感動を覚えた。同時に自分も時代に取り残されつつある人間──つまり中年になっているのだと自覚してしまった。
「人殺しのゲームだ」健太はいった。「でも血が出ない」
「本当だな。血がまったく出ないな」
 息子の口から『人殺し』と物騒な単語がこぼれたのに内心どきっとした。あまり触れたくない話題だ。息子には乱暴な言葉に触れてもらいたくない。
「死体も消えてくね」
 ぎゃー。画面の中で野武士たちは断末魔をあげ倒れるが死屍累々とはならずに、屍は霧のように消えていく。ぎゃー。断末魔が立派だから高尚な死を与えられているのかもしれない。どんな死体も等しく醜いから。
「あ、終わった」
 画面が切り替わる。宣伝映像だったらしい。どうりで誰もプレイしていなかったのだ。コードのあるコントローラーも見当たらないし。
 はたと幸辰は周りに視線を配った。ここまで進化しているゲームだ。コードレスのコントローラーってのもあってもおかしくない。離れた場所から誰かが……。だが、周りにはだれもいなかった。いるにはいるが画面に釘付けになっているのは自分と息子だけだ。
 切り替わった画面から大仰な効果音が流れ出した。ばばーん。どどどどどど。ききんきぃんっ。
『リアル・アウト24』
 ぐるぐると廻ってきた血文字が磔られる。ゲームのタイトルのようだ。
 たったいまゲームコーナーに入ってきた小学生の集団が、おー、と騒ぎながらテレビを眺めだした。健太も小学生のため、小学生の集団に中年がひとり紛れ込んだ形となる。気恥しさを感じるが、まぁ子連れなのでこういうは馴れている。しかし幸辰は一応差別化のため背筋を伸ばした。
「やっべ。リアル・アウトじゃん。やっべ」
「リアアウのプロモもう流れてんだな。はじめてみた」
 話題作らしく小学生たちがわいわいしゃべりだす。
「発売日いつよ」
「来年っしょ」
「マジで? んじゃプロモ流すのまだ早くね」
「発売日早まったんかも」
「うそっ」
「うー、でもフォミ通には書いてなかったな。そんなこと」
 すこしばかりでも偏った知識が露見される会話を聞くと異国語のように思える。
「嬉しいけどリアアウ発売したらやべーな。まだ金貯めてねえし」
「僕も」
 健太がちらりと幸辰を見た。幸辰はことさら食い入るように画面に集中した。息子よ、ねだるなら父ではなく母さんにだ。男は雰囲気で語り合える。健太はしょげてはいたが希望は捨ててなかった。
 画面の中で、ちょっと目を離したすきに暴走した列車が繁華街に突っ込んだ。ぎゃー。がしゃーん。街が破壊される光景は実写映画のごときリアリティだ。女子供が泣き叫んでいる。血を流して助けを呼ぶ女に、列車から降りてきた半裸の金髪頭が、
『助けを請い、神に祈るか? それとも俺の(ケツ)を舐めるか?』
 女は子どもは抱きしめながらただただ首を振った。外国の女優にいそうなバタ臭い顔だが、美人だ。
『ノーアンサーは罪だぜ、婦女子さん……』
 金髪は女の腕から子どもを奪い、その額に鉛玉を撃ち込んだ。貫通した銃弾が腹をえぐったはずだが女は子どもを抱きしめ慟哭して英語で何事かを叫んでいる。怒りだ。
『今のは答えなかった償いだ。さあ次こそ答えてもらおうか』
『ジーザス!』
『……神はそんなに暇じゃねえよっ!』
 金髪は狂ったように女に銃弾を連射した。血しぶきが金髪を汚した。ひゃはは。金髪は奇声をあげ、最後には女子どもを足蹴にして銃弾を天高く空へ放つ。
『神よ。これがリアルだ……』
 ブラックアウト。ふたたび、あの血文字が旋回しながら画面いっぱいに磔られた。
 なんじゃこりゃ……。幸辰は苦笑した。今日日、大枚はたいた監督のネームバリューしか評価できないアクション映画以下じゃないか。進歩したのは技術だけか。でも派手な犯罪には胸が高なる。ヒトゴロシはイケナイコトだが。
 しかし、小学生の反応は違った。
「か、か、か、かっけー! リアアウやべえ!」
「ちょっとちびったかも僕。震えちゃったよ、あわわ」
「予想以上だ。リアアウ恐るべしだな」
 金髪とは縁遠い坊主頭の少年が銃を天に向けるポーズをして、「『これがリアルだ……』」
「かっけー! 『これがリアルだ……』」
「リアルだーっ!」
 わきゃきゃ、と猿と化した小学生たちは足早にレジに向かっていった。発売日を確認するのだろう。画面には克明に表示されていたが興奮して目に入らなかったのだ。
「すごいねこれ」
「ん?」息子の反応が意外だった。自分に似て妙に冷めた一面があるからだ。「そうだな」
「ださいけど、かっこいい」
 なるほどね、と幸辰は笑った。自己は否定しているが、小学生的にはかっこいいという素直な感想なのだ。結局は子どもだ。
「欲しいか?」ぴりり、と横腹が痛んだ。集中が切れた途端に腹痛が息を吹き返した。「買ってやろうか」
「マジっ?」
「今日買えるんならな」キレのない冗談だ。
「無理じゃん」
「つまりそういうこと」
「パパ、ずりい。いつもそうやって。ずりい。なんかずりい」
 健太は口を尖らせた。
「お前もいつかずるくなるさ、ははは」笑うしかない。腹痛を殺すには笑うしかない。「大人のやり方を習得しろ、健太。嫌なことは回避しろ。だはは」
 笑っていると買い物カゴを押す自分と同年代の女性が数人、現れた。レジで店員と話し込んでいる小学生の集団に向かって、名前を羅列した。小学生たちは「また来るよ。予約しに!」と店員に言い、母親のもとへ駆けた。早速、親に件のゲームをおねだりしている。
 幸辰はその光景を、仲睦まじい光景を眺めていた。するとまた脂汗がじわりと額に滲み、くらりと頭をもたげ腹をおさえた。ちくしょう。ただの親子の会話だ。他愛のない親子の会話だ。つまらない躾の一部始終だ。俺のことなんか噂しちゃいない……。
 幸辰は幻聴を振り切るように健太の肩を強く叩き、
 だはは、
 足をすたすたと、
 だはは、
 ゲームコーナーの外へ、
 だはは、
「パパ、どこ行くのっ」
 だはは、
「トイレだトイレ!」
 なかば怒鳴るようにしてトイレへ直行した。もう駄目だ。いやもう駄目なのだ。耐えられない。笑ってられない。だはは。笑い事ではない痛痒。


 幸辰は破壊衝動に従事するかのごとく乱暴にトイレのドアを閉めた。ズボンに硫酸をぶちまけられた感覚を脱ぎ捨て洋式の便器に座する。それから震える指で、かちり、と施錠した。鍵が青から赤へ変わった。
 慢性的な腹痛──。
 人混みに飲まれた途端にそいつは大層な靴音を鳴らし、やってくる。腹に氷を挿入され、きんきんに冷えた鉄パイプでなぶられるような鈍痛。下痢ならまだ良い。出るものを出せば終わりだし、神に祈りを捧げる余裕も与えられる。
「ぐああっ……ふぬっ……」
 やはりだ。出ない。アヌスはうんともすんとも言わない。ガス欠のエンジンでももうすこし可愛げのある反応をするものだ。
 健太には店を回り、母と娘を捜せと命じていた。もうすぐ中学生だろ、と。
 子に衰弱した姿を見せるのは老後だけと幸辰は決めていた。父としての威厳というより、これは男としての、本能的な性だった。健太にだけは、普通の父としてありたい。
 腹痛と手を組んで援護射撃をしてくる嘔吐感。いっそ吐いてしまえればいいが腹痛と同じく、出るものが出ない。妻が一人目の子の出産前に散々洗面所でぶちまけていた淡い黄色の胃液さえも──。
「くそっ。くそっ」拳を腿に突き立てた。「耐えろ。耐えられるはずだ。いつも耐えてきたじゃないか」
「なぁおい、聞いたか」
「ああ?」
 青ざめて鈍る頭に添え物として真っ当している聴覚がドアの先の会話をとらえてしまう。トイレに飛び込んだ際には必死で目に入らなかったが先客の見知らぬ男が複数いた。そいつらが話しだした。しょんべんぐらい黙ってできないのか。
「またあれだぜ、ほら、一丁目で下着ドロ」
「へぇ。こないだは三丁目だっけ」
「いやこないだも一丁目」
「物騒なもんだな。一丁目ってのは……」
「他人事じゃないだろ。一丁目は」甲高い金属音に似た男の声。「ここだろうが」
「まぁね。まあ盗まれたのは下着だろ。俺ら男には関係ねえっつーの」
「……それがあんだよ」
「はあ?」
「狙われてんのは下着だけじゃないんだ。金目のものもごっそりだ。下着はついでみたいなもんだ」
「そうなのかよ。──あ、もしかして」
「なんだ」
「さっき俺が言ったみたいに男たちが関係ねえって傍観してるのをさ、つまり」
「目をそらす作戦だってのか?」ははは。男は笑った。「確かに狙われてんのは全部男と同棲してる女ばかりらしいがな」
「ふーん、そこまで報道されてんのか」
「マスコミは要らない情報まで垂れ流しにするのが仕事だからな」
「仕事ならしゃーないわな」
「仕事は免罪符さ」これを最後に男たちの声は遠ざかっていき、最後はドアの閉まる音に遮断された。
 男たちの推理は的を射ていた。ひとつ違うのは作戦ではなく偶然に身を任せて、偶然生じた法則に乗馬しただけだ。幸辰は苦笑し、額の汗をぬぐった。
「教えてやりたい」唇が震えた。「なにもかも」
 幸辰はズボンをあげ、施錠を解いた。出るものも出なければここにいる必要性は皆無だ。個室にこもったのはあくまで息子からの父を心配する視線から逃れるためなのだ。
「俺は、もう……」
 手を洗う鏡にうつる髭剃り後のように蒼い顔した中年。
 ふと幸辰は拳を天井に突き出してみた。
 これがリアルだ……。
 リアルナントカというゲームの金髪男の諦観じみた台詞を思い出す。
 手についた雫が、頬を濡らした。


 幸辰は暗澹たる気分をクッションに、テレビコーナーの前で休憩していた。ふらふらと千鳥足のようにベンチを探しあて、踊り狂い指で弾けば破裂しそうな心臓はすこしばかりの安息を得た。
 テレビと妊婦の尻は大きければ大きいほど優れているらしく、両手を広げてもお釣りがくる巨大テレビの前では人々が足を止め、ぽつぽつと何事かを呟いていく。
 いや──あの呟きはすべて俺の噂なのだ。
 幸辰の脳裏にいつもの被害妄想が疾る。
 すぐさまそれを否定する。
「そんなはずはない。俺は完璧だ。完璧すぎるから押しつぶされかねないんだ……」
 口に出して否定するが、ぎりぎりと痛む腹痛が弱気と幻惑を呼び起こし、それを過去と呼べと命令形で下す。過去? 俺の過去。
 過去と呼ぶには新品すぎる記憶が、たわんだ意識にふわり浮かびだす。
 買い物カートを押す音。車輪の音。駄々をこねる子どもの泣き声。叱責する夫と妻。昨日の逃走。「見えないっ」。ひしゃげた音声。「またやっちまった……」。
「くそっ」幸辰はベンチの脚を蹴った。「やっぱりこんな場所くるんじゃなかった」
 爪先に痛みが瞬間的に生まれ、腹痛が消え失せる。しかしまた数秒もすれば腹痛はぶり返し、額に脂汗を滴らせた。
 蒼白な顔の人間を見かけても、このご時世どんな難癖をつけられ、損をするか分かったものじゃない。発作的に髪を掻きむしる幸辰に、
「大丈夫ですか?」「どこか体が悪いのですか?」
 などと慮ってくれる赤の他人は現れない。せいぜい残していくのは地方テレビのニュース番組で連日話題の警官拳銃強奪事件についてのコメントだけである。
 今もワイドテレビ内で高画質の歯茎を剥きながら、知性を笠に着る大学教授が冷静な見解を垂れ流していた。
「警察も警察ですよ。拳銃を盗まれるというのは市民の暮らしに直結する重犯罪。それを防げなかった? 笑わせないでほしいですな。懲戒免職? 笑わせないでほしいですな。気の抜けたコーラみたいな意識で平和を守っとるからこんな事態が起こるのです。聞けばその警官はまだ二十歳そこそこだとか。かぁー、これだからゆとりゆとりと、すっかすかの教育を受けて一人前ぶっている人間は駄目なんだっ。腐っとるっ! 甘えとるっ! その警官を無能としてしょっ()け!」
「ははは。星崎(ほしざき)さん、言い過ぎですよ」
「言い過ぎ? 笑わせないでほしいですな──」
「……では、明日の天気を聞いてみましょうかね」
「大体若者は──」星崎なる大学教授の音声が萎んでいく。
「今日はなんと、桜の木の下で桜子(さくらこ)ちゃんが元気いっぱいに教えてくれるそうですよ。ほら、星崎さんも一緒に。せーの……桜子ちゃんよろしくー!」
「教育教育といってね私もガミガミ言いたくはないんですよ。ええ、あ、よろしくー! ……それで私が訴えたいのは教育の地盤がそもそも崩壊──」
 はーい、とバトンを受け取った茶髪のアシスタントが明日の天気を読み始めた。幸辰はうんざりとして視線をそらした。
 重犯罪。そうだ、重犯罪だ。あの馬鹿の長台詞で唯一正しい。
「パパ?」
 幸辰は顔をあげた。そこには息子の健太が立っていた。心配そうに顔を覗いてきた。
「健太」
「やっぱり具合悪いんでしょ?」
「そんなことない」
「嘘だ。僕だけじゃなくてさっきからここ通る人みんなパパのことじろじろ見てるよ。変だ、って」
 視線は感じていた。無言の視線は確かに感じていて、ことさら無視していた。直接指摘されなければ、無言と変わりはない。
 はぐらかすように、
「健太、どうした。パパのことはいいからママのところに行きなさいと言ったろ」
「行ったよ」
「見つからなかったのか」
 健太は、ううん、と首を振った。
「パパの調子が悪いから早く帰ろうって言ったんだ」
 余計なお世話──、言いかけて飲み込んだ。肉体的疲労が口をすべらせ、言わなくていいことをすんなりと言わせようとする。危なかった。実際、これ以上この場にいれば気が狂うのは目に見えていた。
「そうか。すまんな」健太の頭を撫で、立ち上がる。ふらりと視界が傾ぐ。「おっと」
「ふらふらじゃんか」
 健太は父の体を横から支えながら笑った。
 こんな息子を俺は裏切れるのだろうか。息子だけじゃない。妻も娘もだ。自分の欲求に直向きなのは他人の幸せを奪うのに等しい。我慢は嗚咽だが、本能の開放はそれだけで済まない。もっと家族的には大規模なのだ。
「ママがダイエットの道具また買ってたよ。しかも姉ちゃんも乗り気でさ、ふたりでやるんだって張り切ってた」
 ぷぷ、と堪えきれないように笑う健太。よく笑う息子に違和感があった。
「ねえ、パパ。賭けしようよ。ふたりが何日で飽きるか」
 幸辰は悟った。息子は苦しんでいる親を励ましているのだ、と。
「ああ、いいよ」
「やったっ」
「パパはさっきのあれ、ゲームを賭けよう」
 健太の目が爛々と輝いた。
「マジでっ?」
「マジだ」
「でもそれじゃ僕は何を賭ければいいの」
「何も賭けなくていい」
「賭けになんないじゃん」
 父さんを信じるな──、またしても言いかけて飲み込んだ。父さんを信じるな。父さんはお前の理想の父さんにはなれなかった。最初からなれるはずはなかったんだ。
 言いたかった。何もかも本当は曝け出して開放感とカタストロフィーを感じ、罪の意識を滅却して真人間になりたかった。父になるのはそれからでいいと思っていた。しかし、順序が狂ってしまった。
 ──「六ヶ月だって」。
 そのとき、妻に言えばよかったんだ。妻にだけ真実を打ち明け、妻にだけ拒まれ、妻にだけ後ろ指を指されていればよかった。
 ──「私は……産みたいよ。絶対に産みたい。名前だってもう決めてるもん」。
 遅い。軽くステップするように二人目も生まれた今、そんな後悔は意をなさない。蓄積され、腹痛になるだけだ。
「健太。ママはどこで待っているんだ?」
「え、えっともう多分レジ通して車に乗ってると思う」
「そうか。じゃあちょっと先に行っててくれ」
「なんで? ふらふらじゃん。一緒に行くよ」
「駄目なんだ。格好悪いだろ、子どもに支えられて歩くのは。パパの気持ち、同じ男なら分かるだろ。格好悪いのは最悪なんだ」
 無理して口角を吊り上げてみせる。シニカルに。あくまで父としての威厳として。
「分かるけどさ……」健太は父の身長を目測するように上から下まで目を這わせた。「本当に大丈夫?」
「パパをなめるなよ。たかが数メートル、これくらいのハンディがないと物足りないくらいだ」
 健太は薄く笑ってから父からそっと離れた。
「うん。じゃあ先に行っとくね」
「おう」
 手を振り、跳ねるように健太は去っていった。その背中は途方もなく小さい。さらに、さらに、小さくなっていく。
 ふう、と一息ついて幸辰は遅々とした足取りで歩き始めた。
 このテレビ売り場から、出入口まで何マイル? 笑わせないでほしいですな──。
 家族全員に打ち明けるのも、テレビでコメンテーターとして出演して不特定多数に打ち明けるのも差異はない気がした。
 幸辰は何かにゆっくり引きずられながら歩いた。複数の家族の風景の隙間からレジが見えてきた。出入口はすぐそこだ。
 レジを通り過ぎる直前、シッという擦過音が鳴ったが人間の聴覚には引っかからなかった。次の瞬間には幸辰の上着のポケットが膨らんでいた。ふっくらと食後の子どもの腹のようにだ。
「楽になってきた」
 腹痛が一歩、一歩、そして一歩ごとに和らいでいく。禁断症状からの解放のそれと同じ原理だった。
 わざわざ使い道が思いつかない単一電池を盗んだのだ。
 レジには三人の店員がいたが、まるで気付かず、それどころか陽気に、
「またのご来店お待ちしております」
 と送り出してくれた。
 言いたかった。いいのか、また来ても、と。
 落ち着いてきた腹をさすりながら、店を出ると息子と娘の舞央(まお)が並んで待っていた。
「遅かったね」
「姉ちゃん、パパは具合が悪いんだからそんなこと言うなよっ」
「冗談よ冗談」
「たちが悪いんだよ姉ちゃんは」
「なにをう!」
 こいつらはまったく……。幸辰の腹痛は不思議なほど綺麗に消え失せていた。
 今だけ。今だけだぞ幸辰。お前は今だけ幸せなんだ。簡単に崩壊する。お前の築きあげた家族の風景はお前の手で、口で、お前の悪癖によって必然的に崩壊する。その崩れ落ちるすさまじい音でお前やっと気づくんだ。今はまだ気付いた振りをしているだけだ。甘えだ。お前はお前と家族に甘えているんだ。お前は許されない。今のままのお前を許せる人間などいない──。
「分かってるさ……」幸辰は唇を噛んだ。「その通りだ、俺」
「なにが?」
 子どもたち、二人同時に父に尋ねた。
「何でもないよ。帰ろう。母さんが待ちきれずに車でダイエットを始める前にな」
 舞央がくすりと笑い、健太は大変だ、と車に向かって駆け出した。
 父として俺がこいつらにしてやれることは限られている。
 父として俺がこいつらと一緒にいてやれる時間も限られている。
 それは他の家族の風景には映り込まない翳りを持ち込んだ自分のせいだ。反論も異論もない。
 ただ欲を言わせてもらえば他の父親が教えてやれないことを、ひとつでも教えてやりたい。それを武器にして、俺を見捨ててくれればいい。
 隣を歩く来年高校受験を迎える舞央に幸辰は笑いかけた。
「なにニヤニヤして。キモイんだけど」
 舞央は口は汚いがいつも笑っている。品行方正とは言い難いが友達の数は、舞央の言葉でいうなら「ハンパない」。きっと親にも見せない魅力があるのだろう。
「舞央、電池が焦げる匂い知ってるか?」
「はあ?」
 女の子は興味ないか。ならば助手席から手を振る息子に教えてやろうと思った。
 ──薬莢の匂い。焦げた電池の匂い。父の匂い。
 それらを教えるころには自分はもう二度と家族に会えないだろうな、と漠然ながらも確信していた。どうもこうもない。抗えやしない。発覚しない罪はいつだって裁かれることを待ち望んでいる。


 ―終―
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