#50 殺すには金が要る
「今度の火曜、誕生日だよな?」男は言った。
「火曜?」女は携帯電話を開き、スケジュール帳を確認した。「そうね。誕生日だわ」
男はおよそ上品とは言い難い笑みを浮かべ、
「なにか贈るよ」と言った。
「へぇ」
「なんだよ、その反応」
「期待しないで待ってるわ」
女がこうも素っ気ない反応を返すのも無理はなかった。男には借金があった。三百万。福沢諭吉のクローン軍団のような額だった。
「まぁ…そうだよな」男は首を振った。「期待しろ、っていうほうが無理か」
女は遠慮せず首肯した。
三百万。すぐに手に入りそうな錯覚を覚えてしまう金額だ。塵も積もれば山となる。借金という山を砂場で創るのは容易かったが、崩すのは難解を極めた。
遮二無二労働に努めても、あるいは利子を請求されないからといって目を背け遊びに耽っても借金は付いて回っただろう。なぜなら、この男はそういう人種だからだ。
「どんなのにしようかな」男は無邪気に雑魚寝を始めた。猫が爪をかいたせいで傷みのある畳みがぎしゅ、と音をたてた。
女はまるで期待していなかった。プレゼント。プレゼント。声に出さず繰り返してみる。彼からのプレゼント。胸が高鳴る事もなければ呼吸が荒れることもない。一定の脈。平静。
「お前が驚くのにしてやるからな」男は天井を見上げながら笑った。
「何をもらってもきっと喜ぶわ」
「なんだよそりゃ」
「あなたからプレゼントを貰えるってのは、そういうことなのよ」
*
「やあ。待たせてしまったようだね」
「そんなに待っちゃいないわ。たかが三十分よ」
女の皮肉にわざとらしく肩をすくめ、男は言った。
「三十分もあれば大抵のことができるじゃないか」たとえば、と思案しながら女と相対する椅子をひいて座った。「そうだな。カップラーメンを十食分とかね」
「信じられないほど例え下手ね。あなたはラーメンを十食も食べられるの? 飽きもせずに。胃袋と相談もなく、ぺろりと」
「そりゃ無理な話だ。見てのとおり」男は自分の体をしげしげと眺めた。屈強、厳格、肥満、成人病。それらに対極する体温計のような体型だ。
「じゃあ金輪際その例えは使わないこと」
「了解」
「それでこの遅刻はちゃらにしてあげるわ」女は横柄に言った。しかし皮肉は込められておらず、直截な冗句。
冗句には笑って応えてやるのが順当なので男は、
「サンキュ」
言うなり女がカフェでなにを飲んでいるかを確かめようと身を乗り出してコーヒーカップを覗いた。白の、叩きつければ当然割れるであろう陶器には格調高い泥水──もといカフェオレが注がれているようだ。とけたミルクとコーヒーが喧嘩しあうことなく鼻をくすぐるかほりを舞い上がらせているから、男はカフェオレに違いないと断定した。
男は眼鏡を外してテーブルの隅に目をやった。蟻も気づかないぐらい微量の砂糖がシュガーポットからこぼれていた。それをさけるように慎重に眼鏡を置いた。それから、
「すいませーん」
あさっての方向に叫ぶ。すると女性店員──貴族につかえる侍女のようなメイド服を着た女性店員はにこりと無償の笑顔をうかべつかつかと靴音を鳴らしながら男が呼ぶままに注文を受けに来る。
「えーと、彼女と同じのを」
「はい?」
「彼女と」男は女を指さす。次に自分を指さして、「同じのを」
「ええ、お客様」
メイドは困惑ぎみに女を見た。救いの手を、言語変換を…。その目は語っていた。
女は視線を無視した。いじわるというよりは、もっと先の諧謔味をふくんだ回避だった。彼女──柏木楓にとってこれは日常に起こりうる胸踊るイベントでしかない。
「あの、ご注文」
「だからさ彼女と同じのでいいって」
「えっと」
メイドは間近で顔を拝見すると不細工だった。メイド服を脱いでしまうと彼女はどうなってしまうのだろう。彼女は彼女でなくなってしまうかもしれない。ひとつ確実にいえるとしたら、道すがらすれ違っても誰ひとりとして振り向かない無個性の顔だということ。それで化粧栄えもしないのだから絶望的だな。男──リ・ンルは苛立たしげに笑った。
「なあ、楓。どうしてジェスチャーが伝わらないんだろうな。俺が下手なのか? それじゃ例えに続いてニ冠になっちゃうね。可能なら」彼は鳶色の瞳でメイドをねめした。「すべての責任をこの貧乏貴族のジリ貧幸薄雌狐に」
楓は唇を隠して、くくく、と笑った。底意地の悪さが露見される笑みだった。本当に辛辣な物言いしかできない人ね、リ・ンル。これを加味してニ冠じゃなく三冠になってみてはどう?
リ・ンルは楓の笑い声を聞いて、だめだこりゃと肩をすくめた。
「まぁいいさ。最優先事項は遅刻した俺が、ぜえぜえ走ってきた俺が乾いた喉を潤せるかどうかってことだ!」
リ・ンルは怒鳴るなり、楓のコーヒーカップを取り上げ、まるで行水でもするようにまだ湯気だつ高温のカフェオレを、ぼんくらなメイドの顔面に浴びせた。
首をしめられたようなメイドの短い悲鳴。
悲鳴にねじ込まれる楓の喜劇役者じみた笑い声。
「その味と寸分違わぬ飲み物を持って来い。わかったか?」
メイドは細い指でカフェオレを拭う──払いつつ、熱にうなされながらもこくこくとうなづいた。状況が飲み込めていないようだが命令は飲み込めたらしい。逃げるように去っていく。足跡代わりにぽたぽたと濁った雫が店内にまかれる。台風の日にやんちゃしたガキのようだな、リ・ンルは思った。
「馬鹿ね、あんた」楓は目尻をこすりながら、「言葉が通じないならメニューを指させばいいでしょうに」
「ああ、そうか。その手があったか。失念してたよ」
「本当かしら」
「もちろん嘘だ」
「リ・ンル、あなた最低ね」
「お互い様だろうに」加虐趣味をもつと生活に支障が出てこまる。こらえられない性癖は人種は違えどあふれるには十二分すぎる。言語なんかよりずっと。
「ところで楓。用ってのはなんだい。こんな場所なんかに呼び出したりしてさ」
「こんな場所なんかってことないでしょ。いいじゃない、ここ。私は気に入ったわ。熱湯をぶっかけるオプションがあるならもっと早くくればよかったと後悔してるし」
「そうかい」
「嘘だけどね。用はプレゼントの話よ」
爆発的に増加しているメイド喫茶だがリ・ンルは一度として足を運んだことがなかった。日本人の流行り廃りにいちいち付き合っていては心労でノックアウトしてしまうからだ。それにメニューに記載されている値段が悪徳そのものだ。品目もふざけている。
らぶらぶジャンケン☆ケーキ……1800円
ミルクでご主人様のお名前書いてア・ゲ・ル(ホットコーヒー、ホットココアに限ります)……1000円
ツーショット……1500円
頭なでなでしたげる……500円
馬鹿が。馬鹿めが。
だが、とリ・ンルは思った。二番目に注目する。ココアにミルクで名前を書くのは熟練の腕が要求されるだろ。ただものじゃないはずだ。メイドのエキスパート。プロ。バイトでやっているんじゃあないだろう。感服するね…。
「リ・ンル? どうした?」
「ああ、ごめん。ちょっと驚いてたんだ」
へえ、とだけそっけなく返すと楓は本題に入った。リ・ンルが着くまえに確認したおぼろげなメニューに『熱湯をぶっかけるオプション』は見当たらなかった。おそらく、ここに居座れる時間は極僅かだ。あと数分もすれば注文したカフェオレではなく、しかし劣らず熱した鉄のような感情を振り回しながらメイドの上司がくる。
「殺してほしい人がいる」
楓は呼吸をするように言った。自分たち以外には大学生風の数人──アニメキャラのコスプレをしているのもいれば、詰襟の学生服のもいたがそんな着せ替えお遊びをするのは退屈を不燃焼している大学生ぐらいだろう──が店内にいるはずだし、まるっきり死角で距離もある、盗み聞きされる心配はないだろうが念のため英語を使った。日本人離れした流暢な英語だ。
「…マジでか」
リ・ンルはぼそりと呟きをおとし、シュガーポットの前においてあった眼鏡をかけ直した。レンズは入っていない。
「本当よ」
「ついにか」リ・ンルは宝くじに当選したかのように身震いした。「ついにきたのか。このときが」
「そう。待望のって感じでしょ」
「ああ」彼は首肯した。「非合法の夢も叶うものなんだな」
まさに夢みるように言ってから、十字を切る。「神よ、感謝します」
「神って私のこと?」
「すべての神にだよ。名もない神もふくめてね」
おお。ああ。うう。喜びを隠さずにリ・ンルは呻いた。人を殺せる。人を殺せるんだ。じりじりと人を殺せるんだ。この手で、今しがた十字をを切ったこの手で。素晴らしい。想像が現実になるカタルシス…。いや、待て。まだ早すぎるぞリ・ンル。喜ぶのは彼女の提示する条件を聞いてからだ。いやまだ堪えるのも一興。殺人を実行してから万感の思いとショートホープで肺を満たすんだ。彼女に感謝するのはそれからだ。
「殺してもらうのは私の彼氏」
リ・ンルは臆面もなく、素直に拳を握った。ヒャッフ、とげっぷに似た噛み殺した歓声をあげた。彼氏。最愛の彼氏。彼女が育んできた愛をぶち壊せる。それも彼女が望んでいるのだ。最愛を裏切る最愛ってのはどんな気分なんだ、楓。君はいまどんな気分で僕に殺人を委託している? 答えなくていい。それより続きを聞かせてくれ。
「十年付き合ったわ。この際、年数は自慢にはならないけど料金には結構関わってくるわよね。だから言う。十年付き合った彼氏。それを殺してほしい」
「無料でか?」そんなはずはない。だが話をすすめるにはちょうどいい問い。
「いいえ」彼女は首を振った。まぶたが震えている。「三百万で」
「安い。安すぎる。たったの三百万で? それは安すぎるよ」
リ・ンルは明確に嘲り、
「僕を舐めないで欲しいね。そこまで安い男じゃあない」
「でもいいのよ、三百万で」
「三百万なんて、今すぐ銀行に行って」リ・ンルは腕時計を一瞥した。「訂正。コンビニに行っておろせる金額じゃないか。ありがたみがまるでないだろ。安すぎる。もっとうなるような金額じゃないと」
楓は訴えかけるリ・ンルの目を見据えた。三百万。たった三百万か。三百万ってのはどれぐらいの厚さなのだろう。視線を落とすとチョコレートをかたどったコースターが目に入った。これよりは厚いだろうか。貧困な想像力ではたった三百万すら思い描けない。
「なあ、楓。その倍でどうだ」
「いや、いいの。三百万で。曲げるつもりはないわ。私にはこれ以上の金額は無理」
リ・ンルは何も言えなかった。目をそらした相手に詰め寄るのは駄々をこねるのと同じだからだ。希望通りに物事が進まないと拗ねて相手を不快にさせる許可証を持つのはおもちゃ屋にいる子どもだけだ。リ・ンルは楓よりは年下だがそこまで幼児化してはいない。しない。したくない。
ふたりが沈黙に身を任せていると、つかつかという靴音が聞こえてきた。近づいてくる。その足取りは恐る恐るといった感じだ。怯えている。会話が聞かれたか。ふたりは同時に音の方向を──
先刻のメイドだった。前髪はまだ完全に乾ききっておらず、化粧はほとんど落ちている。彼女は豆のような目を潤ませながら、
「お、おまたせしました。ご主人様」メイドはテーブルにカップをとすんと丁重に置いた。「こ、こ、こちらご注文のホ、ホットココアですう」
ホットココア──楓が口の端をわずかにあげた。
「先程、大変失礼な、あの、ことをしてしまったのでこれはサービスですう」
メイドはリ・ンルからの許可も待たずにサービスを開始した。小ぶりのミルクポットから白濁色をココアにたらしていく。リ・ンルは無言のままそのサービスを受けていた。
「できま、したあ! よかったですう!」メイドは膨張する服の上からでもわかるちいさい胸をなでおろした。「本当によかったですう…ううっ…」
事なきを得たと勝手に自己完結をし嗚咽をあげるメイドにリ・ンルは無味無臭の声音で尋ねる。
「この名前をいれてもらうオプションは何円だっけ?」
「せっ…」
「千円らしいわ。それにしてもなんであなたの名前知られてるのよ」と楓がインターセプト。
「そりゃ入店するときに書くからな」
「サービスだから無料ですう、ご主人様あ」わーん、とミルクポットを抱きしめるメイド。「すいませんですうう」
リ・ンルは注文違いのホットココアに描かれた『李』という字を視線で書き順通りなぞって、
「安すぎる」と感嘆の声をもらした。プロの技が千円だと。
「三百万」楓は繰り返す。「三百万よ。おかしなことをするんだもの。破格でお願いするわ」
リ・ンルは答えずに『李』に口をつけた。ずずずず。ホットココアは舌がとけるほど甘かったが渇いた喉を潤すには適しちゃいないな。
*
翌週の月曜日。つまり誕生日の前日に柏木楓のもとに男からプレゼントが贈られた。
なんの装飾もされていない茶封筒は無造作にポストに届けられていて、楓は顔色ひとつ変えずにそれを部屋まで持って帰った。彼女は戸惑いもしなかったし喜びもしなかった。無論、吃驚することもなかった。
すべてが予定調和だった。
ペーパーナイフも使わずにびりびりと封をあける。
「あーあ」溜息混じりに呟いた。「あーあ」
彼女は壁にもたれながら生の現金を撫でた。三百万。五年前から増減していない三百万。コーヒーコースターより厚い? 彼女はすでにあのカフェのコーヒーコースターの形状を忘れていた。
通販カタログでもめくるように三百万を指先で扱いながら、プレゼントの約束をして以来、会っていない男の顔を思い出そうとした。付き合った年月の割に克明には思い出せなかった。ぼやけている。ピンとがずれている。数年前から男の顔なんて見ていなかった気さえした。
いまや男の顔を確かめる術はない。
楓はプレゼントを雑に扱うだけで、その日を無駄にした。
明日はさらに有意義に無駄にする。三百万の使い道は限りなく有限だが、彼女のこれからは無限となり、同時に虚しさをともなう。
―終―
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