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#45 魔女の皮剥がしましょう
 色のない視線は、向けられた人の捉え方によって色彩を認識される。
 私が彼女・・から受ける視線の色は墨汁より克明とした黒で、着ているシャツの色を塗り替えるほどの存在感をもっている。
 不快だ。不愉快だ。せっかく明るめのブラウンに染めた髪も、彼女の視線をひとたび浴びると暗澹な雰囲気を醸し出してしまうようになる。
 連日、彼女は私を呪い殺す気で登校してくる。
 ──魔女。
 一時期、世界的にブームとなったファンタジーの名残が私の脳をかすめる。彼女は魔女ではないか。クラスメイトとはかりそめの姿であり、真実の姿は黒魔法を駆使する魔女ではないか。
 ──メデューサ。
 一時期、世界的にブームとなったファンタジーの名残が私の脳を再びかすめる。彼女はメデューサの親戚ではないか。視線を交錯させるだけでここまで人を不愉快にさせるのだ。生気を奪う。気力を殺す。彼女はメデューサの──。
 私はかぶりを振った。バカだ。そんな話あるかっちゅーの。
 往々にしてこのような荒唐無稽でおざなりな想像を展開させてしまう。シナプスが労働を拒否しているのだろう。
「ちょっとどいてよ、邪魔」
 背後から衝撃。肩と肩がぶつかったんだと鈍く流れてくる痛みで知る。
「ごめんなさい」
「どんくさい…。ホントどんくさい…。アンタったら、どんくさいったらありゃしないわっ!」
 響きはしない重い声。彼女だ。
 電柱の霊に憑依されたようにぼーっと廊下に棒立ちしていた私が悪いけれど、わざわざ肩をぶつけなくてもいいでしょ。避ければくれてもいいじゃない。
 しかし、私は反駁せず、軽く頭を下げた。
「ふんっ…」
 短く鼻を鳴らして彼女は去っていった。護衛のようにまとわりつく二人のクラスメイトを引きつれて歩くその様はかなりの上級階級の人種のようだ。適度に着崩した制服の色は黒。
 魔女だ…。
 私は彼女が去っていった方向へと歩み出した。といっても恐ろしいミニスカ魔女を追っているのではない。そこはきちんと否定させていただく。
 次の授業が体育だから更衣室に行かなきゃならない──。
 それだけだ。


 体育の授業中も彼女と視線は何度も衝突し、その度に私はゴーヤを飲み下した時の気分になった。彼女も彼女で顔を引き攣らせ、なによこっち見てんじゃねえよこのウスノロがっ、と眼球いっぱいに心情を吐露していた。こっちのセリフだスカタン。
 校庭五周というのは一介の女子高生には過酷でハードでハートが停止する授業内容で、私は茫然自失といった具合に前屈の姿勢で体力回復をはかっていた。周りからは、疲れたね暑いね死にそう最悪、などと現代病ともとれるような発言が跳ねまわっていて私はいっそう強く疲労を感じた。
「マコぉちゅわぁ〜ん、大丈夫かぁ〜い?」
 鼻息が後ろ髪を撫でた。顔をあげると体育教師の蓮池はすいけが悠然と立っていた。一時間、笛を鳴らしていただけの癖して額に汗を浮かべている。先生はカロリー消費が簡単そうでいいですね、と皮肉をこめた笑みを返すと、
「シャキッとしなよぉ〜。シャキッっとぉ〜お〜うぅ」
 意に介せず能天気な言葉を投げ返してきた。さすが蓮池だ。私が知る限り、私よりもどんくさいのはこの教師ぐらいだ。
 ちょっとした優越を感じながら私は袖で汗をぬぐい、校舎へと戻っていく列に加わった。
 列の先頭には涼しい顔をして護衛の二人と歩く魔女がいた。石のひとつでも投げてやろうかと思ったけど、たれてきた汗が目に入ってそんな気は失せた。


 女子更衣室は花園だと鼻の下を伸ばした男子が豪語しているのを目にしたことがある。他の男子もそれに同調して、
『エデン』『この世の終わりを迎える際の理想の場所』『もしも覗けたらその時が人生のピーク』などと噛みしめるように言い、また一部のいかにもな男子に限っては興奮してきたようで、
「俺もう死んでもいい」「バカ死ぬな! 死ぬのはまだ早い!」「私は一等兵に過ぎず想像しただけで脳が沸騰しそうな次第でして」「バカ野郎、俺を信じろ!」「しかし!」「しかしもかかしもない!」「伍長!」「ああ! いつか! いつか行こう!」
 気弱そうな男子は嗚咽をもらし、はい…、と弱々しく頷いた。そのやりとりを見ていた男子たちがまばらに拍手を始めだし、最終的には『全米が泣いた』というキャッチコピーをつけられた映画の上映後のような熱気と感動が教室を包んだ。女子はみんなあまりのアホ臭さに辟易して頭痛がしているようだった。ちなみに私は保健室に駆け込んだ。
 そんな夢見がちな男子諸君に私は声を大にして言いたい。叫びたい。耳の穴かっぽじってよぉーく聞け未来の家畜どもよ、と拡声器を使用して言いたい。
 ──女子更衣室は戦場だ。
「蓮池マジうざくね? 死ねばいいのに。五周はありえないって。男子が六周なら女子は二周でしょ」
「なんで二周?」
「なんとなく」
「あー、なんとなくね。わかるわかる。確かに二周だよね普通は」
 タオルで四肢を拭きながら彼女たちは毒を吐く。二酸化炭素の代わりに毒を吐く。グローブを使わない会話のキャッチボールは拙くて、私はむずがゆくなってしまう。
 戦場に飛び交うのは会話の銃弾だけではない。日頃ハンカチを『ハンケチ』と呼称するほど上品な彼女たちがロッカーを乱暴に閉めるときのバタンバタンという音──発砲音──は五分以上聞いているとノイローゼになってしまうことうけあいだ。
 私は急いでするすると体育着を脱いで、汗でほんのり濡れたブラジャーも外してロッカーに投げ入れる。
 ふと視線を感じた。
 背後からだ。
 ぺちゃくちゃとわざとらしくガムを噛んでいるような会話が聞こえる。
 戦場に立つ魔女だ。
 私は直観的に理解した。魔女が私を中傷しているのだ。
 だが、ダメージを受けるほどのお人好しではない。被弾する銃弾は豆鉄砲のようだ、と一笑に付して着々と着替えを済ませていく。露出した肌をタオルで撫でるように拭き、乾いたのを確認してから消臭剤をきちんと注意書きにならって十五センチ以上離して吹きかける。
「ギャハハ」手を叩く音。バタンバタン!「ギャハハ」手を叩く音。バターン!
 一刻も早くこの場から脱出しなければ。どうにかなってしまいそうだ。熱が出てきそうだ。
 私は夕べ観た『ダイハード』を想起した。脱出しなきゃ。魔女よりもこの空気に耐えられない。
 ばたばたと、または、どたばたと私は代えのブラジャーを付けて制服をナチュラルに着崩した形で身に付けて、ロッカーをしとやかに赤子をあやすような手つきで閉めた。
 更衣室の狂騒の中では完全に私がアウェイであり、異常者なのだと視線をかすめた魔女の目が語っていた。
 この違和感。
 自分が正しいはずなのに正しいと思えない違和感。
 その時、私は羨ましかった。
 ある人が羨ましかった。異性としての魅力は微塵も感じないが羨ましかった。
 戦場を脱出するとき、私は小声で言った。
「セガール。あなたに嫉妬するわ…」


 セガールじゃなくてブルース・ウィルスだった、と自分の突発性健忘の気を冷笑する余裕もなかった。急がないと授業が始まってしまう。次は現国だ。体育明けでは十中八九、寝てしまう時間だ。教師も黙認するほどの惨状だ。
 ロッカーに忘れものをしてしまった。
 廊下ですれ違う着替えを済ませたクラスメイトたちはもう、表向きのクラスメイトたちに変化していた。揃いも揃って役者だ。うちの学校に演劇部がないのも頷ける。
 廊下は走れないからといって早足で進むが、これではまるでリハビリ中のようだ。余裕がないせいで滲む薄ら笑いが客観視すると不気味だろうな、と思うが顔を引き締める余裕もない。ブルース・ウィルス。私はあなたのように逆境に強くないようです。
 女子更衣室に到着する寸前、魔女の護衛の二人が出てきて部屋の中にかける声が聞こえてきた。
「お先にー」「先いっとくねー」
 ということはつまり──。
 バタン、と閉じられた扉の前で私は硬直した。荒れていた息もぴたりと平静を取り戻した気がしたが、肩は忙しく上下している。
 おおきく深呼吸する。この扉の先には魔女がいて、声がしない事から推測すると魔女ひとりだけで、すなわち私がこの扉をバタン!、もしくはキィーコー、と静かに開けても結果は私と魔女の密室戦争勃発ってことになるのは数学の力を借りずとも計算できた。
 怖いのではない。
 恐ろしいのではない。
 その証拠に身体が震えてはいないし、喉も渇いては──いやこれは運動の後だからだ。
 どうしよう…。
 懊悩する私を無慈悲なチャイムが襲う。
 もういいや、またあとで取りにくればそれで…、そんな腐抜けた逡巡をしていると、
 額に衝撃。扉が開いたのだと分かった。
「ちょっ…な、な、なによっ!」
 ひょこっと顔を出した魔女はなぜか赤面していた。
 こっちの台詞だ、というのを飲み込んで私は額を押さえた。痛い。激痛とまではいかないし、痕が残るほどでもないが、瞬間的に、痛い。
「ごめ……」似合わない言葉を吐くかと思いきや、
「は、は、早くしないと授業遅れるわよっ!」
「わかってる…」
 私は杖を失くした老婆のようにふらつきながら女子更衣室に入り、自分のロッカーをまさぐった。
 ──ない!
 ブラジャーがない。汗に濡れたブラジャーがない。努力の結晶が滲んだものの汚いものは汚いとばっさり切り捨てたくなるブラジャーがない。
 どういうことだ、これは…。
 はっと天啓のようにひとつの推測が降りてきた。魔女め…。
 額の痛みはとっくに消えうせていた。
 私は女子更衣室を飛び出し、早足で去っていく魔女の後ろ姿を──魔女のスクールバッグからはみ《・・》でている白いそれ《・・》を確認して瞠目した。
 魔女よ、それをどうする気だ。
 私のブラジャーをどうする気だ!
 ブルース・ウィルス! 歴代のアクションスターたちよ! 今、私はあなたたちの気持ちが判った。
 ──危機的状況においては一切の校則しがらみは無効となる。
 チャイムが事切れたのを合図に私は走りだしていた。
 扉を開けたときの魔女の赤面。狼狽。護衛を離し、一人で更衣室に残った目的。
 そして──日々、感じてやまない熱い《・・》視線。
 私は走った。廊下を無我夢中で、恥も捨て走った。
 魔女の背中がどんどん近くなってくる。もうすぐ手が届く距離だ。
 魔女を捕まえて私はどうすべきか。
 問い詰めて魔女の皮を剥がすべきか。授業をサボって二人そろって保健室に向かうか…。
 そうなると、私の皮も剥がさなければならないな……。


―終―
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