#44 ラブチキン・ゾンビーズ
──ちゅぱ、ちゅぽ、ちゅ、ちゅぽぽ。あぱ。ぱ。
「んまい、んまい、んまい。ちゅうらんちゅ、おいしいにい! おいしいにい!」
彼はさながらフェラチオのように、生々しく丁寧にまるでそれが隆起した竿だと催眠をかけられてしまったかのように、ケンタッキーフライドチキンの骨を舐めていた。両端がゆるやかに杭の形状をしている骨から滲み出る微量のエキス──味、風味、香、エトセトラエトセトラ──がひとつの渦につつまれ彼を刺激する。
──ちゅる、ぽ、ちゅるぽ、ちゅるぽ。
本来主役であるはずの肉と皮は捨てた。彼にとって肉と骨は邪魔以外の何物でもなく、また触れるのすら生理的に拒絶したくなる──要するに嫌悪対象でしかないのだ。肉を食らって、皮を食らって、
「おいしい!」あるいは、
「んまい!」と目を煌々とさせて叫ぶなどという社会モジュールにならった模範、もとい健康的な青年のとる態度を彼に求めてはいけない。もっとも彼にそのような行動と思考を求める人などこの世にはひとりとしていないが。
ローン三か月支払で購入した皮製のソファーの上に、〈生命の誕生〉と題されてもおかしくはないありのままの姿で寝転がり一心不乱にケンタッキーフライドチキンの骨をしゃぶり続ける彼を、もし近所の殿方と奥方がセカンドバックを肩にぶらさげ街を闊歩しようかしらウフフン買い物ウフフンと鼻を鳴らし踵を鳴らし、不意にあららこの家窓が開いてますわウフフンちょっとよっと覗いてよっと、んまあ!、とまるで殺人現場を目撃したときに発する奇声の隣人で感情をあたりに細菌と共に撒いたとしても、彼はこのフライドチキンなめなめを中止するつもりはない。いくら悲鳴をあげようが、誰一人として彼に制限をもちかけることは不可能であり、よしんば彼女らが最強の武器と思われがちな道徳的観念を用いたとしてもそれは結局感情論に過ぎず、彼は短く笑いかけて口から涎と骨のしりをのぞかせるだけである。
「んまい! んまいなあ! 骨はんまいなあ! じゅるぽーじゅるぽー! んまんまー! んまっんまっんまっ! 骨。骨。うんまい骨! じゅるるるるるるる。ちゅるっぽ!」
すでにソファーはケンタッキーフライドチキンに付着していた脂と二ヶ月間風呂に入っていない彼の頭皮の脂が混同した濃い脂による指紋だらけ。
それに骨から剥ぎ取った皮と肉を同じ皮製だからかは判らないが、キャッチャーミット──ソファー──にめがけて推定時速八十キロで投げこんでいるため、ソファーの脂による汚れは異常そのものである。花を見て「綺麗だ」といえるような普通の感覚を持つ人間がこのソファーを見たら卒倒してしまうのが予想できるが、しかし彼にとってそのソファーは神聖なる場所ほかならず、もしもソファーを愚弄する他人がいたなら彼は語気を荒げ、頭皮をちらつかせ、淀んだ息を吐き、敵意をあらわにするだろう。敵意は脂をまとい吸収し、肥大化して彼の敵をかみ殺すモンスターとなり街全体を死海に変えてしまうやもしれない。そのような悲劇を起こるのを未然に防ぐには彼と関わりをもつのは控えるべきである。これまでその悲劇が起きていないということは彼の近隣住民は非常に利口であるようだ。
「んまいねえ! んまい! 骨んまい。じゅる、じゅう!」
腹部に飢餓感をつめられた犬さながらで骨をしゃぶりつづける彼は確かに異常である。他人から見れば気狂いとして即認識され、権威を持った人間が彼を偶然みかけたら目を見開き、歯を剥いて、精神科という名の堅牢な館に閉じ込め、彼の一生をそつなく終えさせることにより自分の余生を十二分満足できる恵まれた保障を手に入れようとするだろう。しかし彼は現在骨をしゃぶり白目を剥いて天井を見上げている。というのはすなわち社会全体が恐怖に片足を投げだして、ほらほら掴んでもいいですよ、と彼を舐めているのと同義の過ちを公開しているのに何故気付く者がいないのだろうか。
彼自身はその愚かな行為に気付いている。だからこそ、彼は骨に執着し続けているのである。骨を耽溺し、骨しか認識しない。骨のみが存在する世界を、彼は築三十年になる持家の中で開拓しているのだ。
社会は彼に感謝せねばならない。
社会は彼に感謝を怠ってはならない。
だが、フジツボのごとく謙虚な彼はそれを望んでいない。静かな声援すら彼は望んでいない。孤独こそが最大の後押しであると無垢の鑑の彼は思っている。
「骨じゅぽー! 骨骨骨んまんまじゅっぽー!」
細菌を凝縮した涎が頬につき、眼球にも飛来しているが彼は気に留めず骨ちゅぱを続ける。肩まで伸びた黒髪がソファーに垂れた涎を墨汁のようにして這い廻り意思表現をする。んまい、んまい、んまい、と黒髪で一筆された彼の意志は彼が公言している意志と遜色がない。無垢な彼に表裏などという狡猾な思考は存在しないのが見てとれる。素晴らしい。彼に賛辞を送れば老若男女問わず、国籍問わず、崇拝する宗教問わず、高尚な気分になること間違いない。
一冊の小難しい古典文学を渋面で読み捨てるぐらいなら彼の家の方角へ、二三度慇懃に礼をしたほうがよいのではないか? 何度も言っているが彼はそんなことは一切望んでいないが…。
──ちゅぽっちゅ、ちゅぽっちゅうううううう。
彼はようやく一本の骨をしゃぶり尽くしたようだ。満足げに文字通り骨抜きになった骨を眺めながら微笑む。
──宝石のような。
──希望のような。
骨をみつめる彼は精通に目覚めていない少年よりも少年らしい瞳をしている。そんな彼を惑星に住まう生物の一個人として扱うのは憚られる。
「んまんま!」
彼は躁。彼は躁の目付、風格。視界は冴えない。それでも立ち上がる。ふらつきながら閉め切った窓を開けた。
彼は肢体を見せびらかすショーの出番が来たように裸体を惜しげもなく広げ、
振りかぶった。
その瞬間、世界──大勢の観客にあふれる球場──は息を飲む。静寂の訪れに思考放棄と刮目を決める。
彼の脂ぎった手から放たれたケンタッキーフライドチキンの骨は窓先に広がる一切の雑草も許されていない整然された庭に落ち、土の上で数回バウンドした。ぐちゃり。
今度は彼が息を飲む。じっと庭を見つめる。例の研ぎ澄まされたような純真な瞳で刺すように庭を見つめる。
──庭から、手。
──浅黒く深爪の、手。
──出現。発現。土がおこされて人間の手が顔を出す。本来手首にうかぶはずの薄い水色の血管は確認できない。
目の前の奇異な光景を彼はさも日常の一片であるように眺めながら指に残った脂を舐める舐める。
──ちゅぽちゅちゅちゅ。
庭に現れた手は指先に目がついているのではないかと錯覚をおぼえる正確な手付きで、彼の投げた骨を掴んだ。数回確認するように握る。浅黒い指の間に白い骨が挟まり対照的。
「どぞー! どぞー! んまいんまい骨どぞー!」彼は叫ぶ。「どぞどぞー! 骨骨どぞー! ちゅぱぱぱー!」
〈庭の手〉は答えるように彼が丹念にしゃぶった骨を握り、ゴモモモモ、と音をたて土の中に還っていった。
彼は久しくあった友人にむけるような笑顔をうかべ気が狂ったように手を振り続けた。指についた唾液があたりに霧散したが気にせずに手を振り続けた。
彼はしたたかに望んでいる。
いつしかあの土に潜む何者かがあたえられた骨を装着していき〈完全体〉となりあわよくば分身し一隻の軍隊と化し、彼をかこむようにして至福の死へ誘ってくれるのを望んでいる。
昼夜問わず、彼の頭の中では腐臭を身にまとい生気のない眼孔をサーチライトのようにくばらせるゾンビーが、唸り声をあげながらゆっくり、ゆっくりと彼の体を刻む光景が再生され続け、彼はその光景を思い浮かべるたびに「はやく、はやく」と神に祈る。
あの浅黒い指で、ひきちぎるような力で首をしめてくれるのを望んでいる。
社会もそれを望んでいるように、彼も強く望んでいるのである。
社会は悲劇の種を隔離して、無意識で滅する。
──ちゅぱ、ちゅぽ、ちゅ、ちゅぽぽ。あぱ。ぱ。
彼は次の骨しゃぶりにとりかかる。
「頑張れ!」とカーネルサンダースが微笑みかける赤いボックスからフライドチキンを握りつぶす勢いで掴む。殺気立った手付きで皮と肉を剥いで壁に投げつける。べちゃりと鈍い音がする。そして、しゃぶるしゃぶる。骨をしゃぶる。いくらしゃぶっても骨は溶けないのに、彼しゃぶるしゃぶる……。
―終―
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