#40 穴も石もない人生
「最悪だ」
男はそういってから、ねじきれてしまうのではないかと他人が心配する速度で首をまわした。
「最悪なのはわかった」シクハク博士はなだめるようにいう。「君の人生は最悪だ」
肩をつかむシクハク博士の手を払って男はむっと顔をかためた。「ひとから言われると不愉快だ」
じゃあなんと応えればいいのだ…。
シクハク博士の自宅兼研究所。急須のような外観をしたここには、なんらかの理由で人生に行き詰った悩める老若男女が根の場所が不明の噂の噂のその噂──それを頼りに連日訪ねてくる。不思議なことに呼び鈴を鳴らすのは一日一人という規則性があった。今日は三十代の男性だった。彼の三十数年の人生は酷く鬱屈としたものだったという。冗長の極みで語られた内容はプライバシー保護のために割愛させていただく。
椅子を潰すように男はうつむいた。負のかほりが研究室に充満し、シクハク博士は突発性の息苦しさをおぼえ、ことさらに痰を切った。
「そうやって塞ぎこんでも仕方がなかろうに」シクハク博士は自慢の髭(といっても剃るのを怠っているだけ)を撫でて立ち上がった。そして、つかつかとブラウンの踵を鳴らし別室にいった。数分後、フルフェイスのヘルメットを抱えて戻ってきた。歯を食いしばっている表情から、やけに重量があるのが読み取れ、おまけに黒のコードが複雑に生えており大分運びにくそうであった。
シクハク博士は運んできたヘルメットを「やれやれ」とテーブルに置いた。
「なんですかそれは」男は顔をあげて尋ねた。
「記憶からトラウマを抹消して、それからの人生も数々の不幸から守られるように脳を改造する発明品──そうだな、『タイラット』とも呼ぼうか。数分で脳に変化をもたらす。もちろん脳に損傷をあたえるような危険はない。脳波をすこしいじるだけだ──不幸を踏まないように行動を規制するように、すこし」
「す、すごい」男は愚直に感嘆した。「ぜひ私に使ってほしい」
「それはダメじゃ」シクハク博士は苦笑しながら肩をすくめた。
「なぜですか?」
目を点にした男を見据えながらシクハク博士は応えた。「これは間違いなく人生をつまらなくする」
神妙な顔のシクハク博士を見つめて数瞬後、男は噴きだした。そのとき米粒と同じ程の唾液が『タイラット』の真黒のディスプレイに付着した。
「そんな馬鹿な。嫌なことがない人生は楽しいに決まってる! 躓かない、怖がらない、死にたくならない。障害のない人生……なんて素晴らしい響きだ。魅力的すぎる」
「障害か…」シクハク博士は物思いにふけるように軽く目をとじた。「はたして障害は本当に障害なのだろうか」
男は口の端を歪める。「なんです、説教でもはじめるつもりですか?」
説教か。たしかに今の彼には何をいっても聞こえのいい台詞にしか聞こえないだろう。擦りむいた傷は治ってもシミとなって皮膚に残り続ける。どれだけ薬を塗ろうがシミが完全に抹消されることはない。
「なにを黙ってるんです? 早くその機械を使わせてくださいよ。ぼくはもううんざりなんですよ。人に認められるために人を認めて、人に嫌われないために人を嫌ったり──人を好きになっても人に好きなってもらえなかったりね…そういう人生は、もう……」
「ダメじゃて」
シクハク博士が辛辣に拒否すると男はあっけなく引き下がった。「…わかりました。もういいです」
男はとぼとぼと研究所を去って行った。シクハク博士は男の背を見送って「ふう」と吐息をつき、夕食の支度をはじめた。にんじんシチューを作った。天才発明家のシクハク博士だが、食事だけは自分で作ると決めていた。なぜなら好みの味をみつけるのはどんな機械よりも自分の舌がもっとも適しているからである。
シクハク博士は今日も安眠だった。
絶命を危惧されているフクロウがまるで「人間なんかに心配される筋合いはねえなあ」と鳴いているその日の真夜中。シクハク博士の研究所に忍び込む人影があった。むろん、夕刻に訪ねてきた例の男である。
「おっ」男は堂々と正面から忍び込んだ。ドアに鍵はかけられていなかった。「不用心なもんだ」
もしかしたら警護ロボットでもいるのだろうか。いや…まさかな、夕方に来たときはそんなロボットの姿はなかった。
男の記憶どおり警護ロボットは研究所に一体もいなかった。しかし、今日だけの話である。いつもなら二体の警護ロボットがシクハク博士の寝室と研究室を護衛している。
男は足音を殺し、研究室にむかった。研究室の鉄板のように厚く、キッチンのように広いテーブルの上には男がもとめたものがそのまま放置されていた。
「これこれ」男は『タイラット』のつるつるした表面をなでながら笑った。「これさえ使えば…」
男は『タイラット』をしげしげと眺めた。スイッチが二つある。それぞれのスイッチの上にちいさく『オン』『オフ』と書かれている。こんな簡単でいいのか、と男は拍子抜けした。三センチぐらいの厚さの説明書があるのを覚悟していた。
テーブルの前に前回の訪問で座っていた椅子を運び、『タイラット』をすっぽりと頭にかぶった。はたからみると真黒だったがディスプレイになにやらシュールな文字列がならんでいる。どうやらご丁寧に電源は入っているようだ。
用意がよすぎる…。
そんな不穏な思考が頭をかすめたが、迷う閑はなかった。なるべく早く研究所をあとにしなければならない。シクハク博士がいつ目覚めてくるか判らないのだ。年寄りはトイレが近いしな。
「スイッチ…オン」ぽちゅりと左耳の位置にあるスイッチを押した。すると脳に、朝目覚めたときのような──そう、じわりと覚醒する意識のような刺激が襲った。その刺激は低周波マッサージのようでもあり、決して不快ではなかった。むしろ解放されていくような至福の思いが脳いっぱいに広がっていくのを感じて男は自然とほころんだ。
ピピピ、と無機質な音が鳴って男は『タイラット』を脱いだ。
すっきりとして、妙に目が冴えている。これは、どうやら成功したようだ。わかる。自分の脳なのだ。自分の脳に異変があったのは自分が一番わかる。
男は一度ぐうっとのびをしてから快活な足取りで研究所を辞した。人様の家に不法侵入したとは思えないほど気分はひやりとした夜風にユニゾンするように気持ちのよいものだった。
「やれやれ」寝間着姿で研究室に立ち、シクハク博士はつぶやいた。「使っちゃいかんとあれほど言ったのにしかたのない奴じゃ。しかし、これで私のせいではないぞ。私は止めたのだからな。彼が勝手に──やったこと」
シクハク博士はトイレで小用を足してから寝室にもどった。
半年後、シクハク博士の研究室にある男が噂を聞きつけ訪ねてきた。その男は開口一番こう言った。「ぼくの人生は最悪だ」
「なぜだね」
「退屈なんです。なにも起きないんです。ぼくの人生にはなにもない。ただの真っ直ぐな道。深夜のハイウェイよりも……永遠につづいていく真っ直ぐな道です」
「ほう」
男は以前シクハク博士の研究室に忍び込み、勝手に機械を使って自分の脳をいじったことをおぼえていなかった。なぜならそれは彼にとって、まぎれもなく不幸な出来事だったからである。
「ほとんど覚えていないんです。いや…覚えるようなことがなかったんでしょう。つまらない人生だったからかな。毎日同じことを繰り返して過ごしてきたような気がします」
「それはそれは」シクハク博士は残念そうにつぶやいた。
「不幸なこともなかった。しかし幸福もなかった…」
やはりあの発明品は失敗だった。やはり──。
といっても男の脳波を正常とよばれる状態に戻すことはできない。それは私の義務ではない。彼は自分で決めて勝手に『タイラット』を使用したのだから。
不幸だの幸福だのと決めるのは本人だ。さまざまの出来事をどちらに転ばすかも本人の手腕にかかっているのである。それらすべてを避けるとなると幸福との出会いも必然的に消える。彼はこれからも、彼の言うとおり「なにもない平坦な道」を歩んでいくことになるだろう。
安全なだけのつまらない人生──。
「たすけてください」男は懇願した。「もういやだ。こんな人生は」
シクハク博士は応えずに、研究室を後にした。それからややあってシクハク博士はあたたかいかほりと共に研究室にもどってきた。
「これを食べなさい」
そういってシクハク博士が差し出したのは、器によそわれた熱々のにんじんシチューとスプーン。男は数回瞬きをしてそれを受け取った。湯気が顔にかかる。
「食べてみなさい」
シクハク博士がうながすが男は首をふった。「む、無理です。他人のつくったものを口にするなんてありえない…。保証がないんだ、食中毒になったりする可能性があるじゃないですか…」
「いいから食べなさい」シクハク博士は微笑した。「そんなことは食べてみなければ分からないだろう?」
男は生唾をごくんと飲んだ。そして、おずおずとスプーンでシチューをすくって一口。
「どうじゃ? 昨日の残りをあっためたんだが」
「……まずい」
男の歯に衣着せぬ応えにシクハク博士は笑って、男の肩を優しくぽんぽんと叩いた。「まぁ毒は入っておらんから安心しなさい」
まずいまずいと言いつつも男はにんじんシチューを全部平らげた。男ははじめて危険な橋を渡った気分になった。同時に、心にあたたかな湯気を──。
―終―
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