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#37 さっきまでは恋がしたい。
 おおお、猛烈に恋がしたい。勘定的かつ感情的な恋ではなく燃えたぎるようなヤカンが「あ、あかん! もうあかんで!」とぴーぴー音を終始鳴らし続ける衝動的な恋がしたい。
 俺が拳を震わすと傍らの彼女は言う。「アホや」
 俺は言う。「アホじゃねえよ」
「はいはい」と唇の端をくっ、と吊る彼女の浅ましさたるや憎たらしさたるや世界の悪をここに凝縮しました!、というキャッチコピーを進呈したくなる。俺は発作的にこめかみを掻いて平静を装うが前述の発言の通り心が荒んでいるのはあきらかな為、彼女はフハハなどと嘲笑。フハハだと? フハハはないだろうが! アハハならともかくだな、フハハはダメだって。許せんって。いい歳した女の子がフハハなんて絶対にダメ。EUが認めると言ったとしても俺は認めんぞ。
 テレビの黒い照明が俺と彼女を照らす。これは波乱の予感。ショーアップナイターの予感。
「なによ。あたしの顔になんかついてるの?」
 予感的中。
 見てくれ、この怪訝顔。それに時折頬に殺意の『サ』の字をちらつかせる器用さ。
「ついてねえし、見てねえよ」
 アホが、と語尾に添えてもよかったが思いとどまった。これを添えるとゴングが鳴る。間違いない。何年このヘチマ顔と付き合ってると思っているんだ。サインペンとスケッチブックを渡されたら三秒で日本列島よりも複雑な尻の痣を正確に描けるんだぜ。
 あああ、猛烈に恋がしたい。ヘチマを抱いて眠る──ためしてガッテンの二番煎じの残りカスみたいな番組が健康法として紹介したら翌日のスーパーからヘチマがごっそり姿を消す──そんな恋ではなくてですね、当方が希望するのはそのですね、あのですね、もっとこうナポリ的といいますか「恋い焦がれるううう!」だとか「死んじゃうううう!」と高熱に犯されて這いずりまわるような──そう、情熱。現状には情熱が足りんのですね。はい、これは由々しき事態だと思いますし当方の年齢を考慮すると非常に厳しいのは確か。
「ねえちょっと、ジュースなくなった」空になったコップを眼前で振り振り。「冷蔵庫から取ってきてよ」
 ちょい待ち。俺はお前の召使じゃねえし。むしろお前が取ってくるべきだろ今度は。さっき俺電気消したし。わざわざよっこらっしょと立ちあがりーのてくてく歩きーのドア横のスイッチぱちん。これ結構重労働なの分かる?(この場合面倒な事を重労働と呼ぶ)
「自分で取ってこいよ」
「えぇ…」
 なにそのガッカリ顔。腹立つんですけど。かなり腹立つんですけど。
「なんでぇ…?」
 え、なんでほっぺ膨らませちゃったりしてんの? …こちとらザ・立腹って感じなんですけど!
 こんなやつと沈みゆく船の先端で抱き合って両手を広げて真実の愛を悟る、そんな真似は俺はできない。したくない。断固拒否の姿勢。全力で遺憾の意を示す。船員が「この船は沈む!」と叫んだとしても俺は「あっそう」と一蹴し爆睡するね。しかも部屋の鍵かけて彼女が入れないようにする。ややあってドアどんどんどん。「うるせえなあ」。ドアどんどんどん。「安眠妨害で訴えるぞ」。なんてクールなんでしょうか、こんな人生の終焉ってかっこが宜しいですよね。男の憧れ。あ、こ、が、れ。
「じゃあジャンケンしよ」
 雨が降ったら傘をさせばいいでしょみたいなテンプレート通りの提案をした彼女は俺の肩に触れる。「ジャンケンしよジャンケン」
「やだ」
「えぇ…」
「やだね。お前が取ってこいよ」俺は自分の空になったコップを彼女に突き出す。「お前の番」
「なによ、番って」
「俺はさっき電気消したもん」
「さっき? もう二時間以上も前じゃん」
 しまった。
 虚を突かれてちょいとばかしたじろぎながらも俺は反論する。「俺の『さっき』の定義はギリ二時間」
「長すぎ」
「はあ? んじゃあお前の『さっき』ってどれぐらいよ」
「五分」
「ありえん」
「いや十分ぐらいかな」
「ありえんな」
「三十分かも」
「まだまだ」
「一時間かなあ」何故か遠い目。「うーん」
「まだまだ。常識ないのな」
「…一時間半ぐらいかも」
 俺は待ってました、と指をぱつぅんと鳴らし、「一時間半も二時間もそれほど変わらんやろ! よし、じゃあ『さっき』ってことでジュースとりに行くのはお前な」
 はめられたのに気付いた彼女は露骨に怒気をまきちらした足音をたてて冷蔵庫へ向かって行った。下の階の人に迷惑だからやめてくれ。
 ややあって戻ってきた彼女にコップを渡されたがなみなみ注がれていたから受け取る時にコーラがすこしこぼれた。悪意のある注ぎ方だが、一応ありがとうと礼を言っておく。
 沈黙。
 敵兵沈黙。
 気まずい空気。
 堪えられますか? イエスオアノー。
「もちろんノーだ!」
「うわっと、なによいきなり」
「ああ、ごめん」
「次の見る?」彼女は上目遣いで問いかけてきて応えを待たずしてテレビの前に歩いていく。「どれにする?」
「ああそうやな…」俺の頭の中で幾多のストーリーが目まぐるしく再生されていく。しかし話のさわりだけ。なぜならあらすじしか情報がないからである。「どれでもいいわ」
 がしょがしゃ。衝突音。
 そうねえじゃあねえ、とぐずぐずする彼女。その横顔──可愛いじゃないですか、ねぇ皆さん。
「これにする!」
 てれれれってれー、という具合に彼女はテレビと周辺機器をいじりはじめる。今日日機械に苦手な女性などは少数派である。それは企業の成果ともいえるだろうし特に女性に根強くある──即ち「機械は難しいもの」という蔓延した風潮が根絶し──(以下略)。
 準備を終えた彼女が俺の傍らに帰還して腰をよこっしょ…もとい静かにおろす。オレンジを羽交い絞めにして作られた橙色の液体が注がれたコップを掴んでからテレビを食い入るように見つめる。俺もそれに倣う。
 次第に真っ黒だったテレビの画面が不明瞭ながらも段々と色彩を帯びてひとつの物語を映しだしていく。
 ──殺し屋とその妻、そして二人の子ども。両親は過去を隠し平凡ながらも幸せに暮らしていた。しかしある日彼らの過去を知る者、つまり昔の同僚達が彼らの『今』を崩壊させようとする…。というサスペンス展開は前半だけであり、後半は父と母とその息子の三人は超能力に目覚めてしかもガンアクションも豊富となり悪党共を完膚無きままに圧倒するという三文小説に泥を塗ってレンジで一分加熱したような展開であった。
「無茶苦茶な話だったね…」二時間の労働を終えたテレビの画面にエンドロールが流れはじめて彼女は苦笑した。「エスエフがやりたいならはじめからそうすればいいのに。脚本家は相当なアホか悪いクスリでもやってんじゃないの」
 俺は沈思黙考の構え。…違う。これはそんな軽率な物語ではない。この元殺し屋一家の物語はディ●ニーが実写に参戦した際に採用しそうな話ではない。もっと内奥に潜む何かが…。
 突如俺の頬に伝う涙。おうおうおうおう、涙が止まらないよ父、母、ファーザー、マザー、神話の神々たちよ。おうおうおう。
 蛇口をひねったように涙を流す俺を見て彼女は目をぱちくりとさせる。どこで泣いたのこいつ、といった表情である。そんなの関係なしに俺は自分の感性を信じる。
 おおお、猛烈に超能力に目覚めたい。人々を苦しめる愚劣な超能力ではなく(シモ)の世話に役立つものでもなく万感の思いを具現化したような眩しい善の力がほしい。俺は超能力者になりたい。超能力とは先天的なものなのだろうか? やはり科学の力で証明できないのだからそうなのだろうな。しかし諦めることはない。まだ目覚めていないだけという可能性があるにはあるのだ。
「ないない」
「俺のモノローグを勝手に読むな!」
 俺は超能力者になりたかったんだ。ずっとそうだったんだ。ちょっとばかし忘れてただけだったんだ。
「『さっき』は恋がしたいとか言ってた癖に」空になったコップを持つ彼女は笑う。「アホや」
「『さっき』じゃねえし」
「じゃあ何よ」
 そうやなあ、と俺は一応思考を巡らす演技をする。顎に手を添えたりしてみる。だが答えはとうに出ているのである。よしじゃあ、はい、答えドン──。「随分昔の話や」


─終─
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