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 一部、同じ文章を繰り返し掲載していました。申し訳ございません。(09/04/19/19時修正済み)
#36 ゴキブリを食べないで
「マサオの家ってゴキブリ出る?」同僚のマコが普段は人懐っこい顔を渋らせて訊いてくる。「昨日とうとう私家(うち)に出たのよ、あいつ。ついに一匹」
『マサオ』と呼ばれる私はこのようないかがわしい男性相手の商売をしているからもちろん性別は女だけど、彼女は私を『マサオ』と親しみを込めて呼ぶ。なぜかと尋ねると、名前がマオで苗字がサトウ──だから『マサオ』とのこと。なぜ『サ』を名前の真ん中に挟むのだ。
 なぜ、なぜ…。
 アンサー「なんとなく」。こう返されたらもう何も言うまい。
「そういえば出ないなぁ。引っ越してから見たことないや」
 マコは、いいなあ、と羨望の声をあげた。静かにしなさい。控室は狭いんだから。あまりおおきい声を出すと響くというか床に沈んでいって気分が悪い。
「あいつって何も言わないから怖いよね」
「それでいて地味にカサカサって音たてるからね。気付いてほしいんだか、無視してほしいんだか」
「構ってほしいんだよ、たぶん」
「まぁ私のとこは出ないから構ってあげなくてもいいんだけど。構ってあげる子がいないし」
「最悪。あげるよ。送ろうか? 一匹いれば百匹いるっていうし」
「最悪。いらない。百匹に構ってあげるような私はできた女じゃない。ベビーシッターでも呼べば?」
 マコは笑う。「ベビーシッターってゴキブリも相手にするの?」
「知らない」
「どっちかというとダスキンとかの業者のほうが…」
 私とマコがくだらない本気度低空さまよってますな会話をしていると、仕事を終えたレミが控室にもどってくるなり客の悪態をついた。エンジンをかけるように濡れた髪をタオルでぐしゃぐしゃに拭く。
「くっそ。うぜえ。説教たれてきやがった」
 ああね、そういうこと。よくいるよ。自分は教会の神父だと勘違いしている淫行野郎。じゃああんたなんでこんな店きてんの? なんてやんわり言ったら爆発。罵られるのな。一応客だし反論は控えておくと調子づいてぎゃあぎゃあ、と筋のない論文披露会。それでも興奮してかあれはあれで腫れあがってるし。もしかしてそういうプレイをお望みですか。なら追加料金ね、はい。
「いるよねー。そういうアホ」マコは同意して首をこっくりこっくり。最高にアホっぽい。でも可愛いから許す。
「『君はこんな店で働いてて親御さんに申し訳ないと思わんのかね!』だって」レミは口を尖らせて野太い声を作った。おそらく客の真似だろう。でもそれじゃ「ダンカンこのやろっ!」と吠えるビートたけしなんですけど。というよりビートたけしのものまねをする肥えた芸人なんですけど。
 マコは盛大に笑って手をばんばん叩く。さながらシンバルをしゃんしゃん狂ったリズムで叩くこわれた猿のおもちゃだ。私はそれがおかしく笑った。
「ああ気分悪い。私サドだから。説教されながら突かれるのってぐったり。演技するのかなり疲れる」
「だじゃれ?」マコは笑ってるくせにするどく指摘する。決して頭は悪くないのだな、と私は時折感心する。
 レミはマコの返しの意図が読み取れなかったようで溜息をついて、オンボロのソファーに倒れるように座った。部屋のベッドを買い換える金があるのならここのソファーも買い替えてほしいんですが、オーナー。
 口をつぐんで浅い呼吸を始めたレミをほったらかしにしてマコは私に向き返った。
「なんの話してたっけ?」
「ゴキブリでしょ」
 そうだそうだ、とマコは笑う。おいおい数分前の話だよ。思い出話じゃないんだよ。
「マサオがさ、男っぽいからゴキブリが怯えて出てこれないじゃないの」いきなり突拍子もない推測。
「なんじゃそりゃ」
「逆にじゃあなんで出ないか分かるの?」逆に、ってホント便利な切り返し。会話の万能ナイフだと思う。すぱっと流れ切っちゃうから。
「いや…分からないけど」
「なら決定ね。マサオが怖いからゴキブリはびびってて出ない」
「何いってんの。そんな決議認めません」
「認めましょう、現実を」
 スローガン的な言葉でしめようとするマコを阻止するために私は考えあぐねる。えっちらほっちら思考が飛ぶ。あれでもないこれでもない、とまるで初々しき頃の初デートで服を選んでいるような気持だ。結局「これだ!」という答えは出ずに一番マシなのに妥協してしまうのも同じ。
「ほら、私んち猫いるから」
 無理があったか、と後悔した。でも猫は虫を喰うっていうから筋が通ってないこともない、と思うのですがどうだろう。
「…なるほど!」
 マコは頭上に豆電球を具現化できそうな感嘆の声をあげた。どうやら「男っぽいから」なんて安直な構成の理論は消えたようだ。
 でもいいのか? これも結構安直だけど。
「私も猫飼おう!」
 まぁこれでいいんでしょう。結局今行われているのは国際会議でもなんでもなく、たんなる暇つぶしの会話なのだから。
 マコが帰りにペットショップに寄ると言いだし、帰るときには早朝だからまだペットショップは開いてないよ、と極めて冷静に指摘した。彼女が残念そうに頷いたその時、控室の扉が開かれた。
「マコちゃん指名でーす」顔をだしたスタッフがのびやかに言った。
「はーい」マコものびやかに返してソファーから立ちあがった。
 視線をソファーに座ったままの私に落として「行ってくるね」とマコは言った。さっきまで猫がどうだとかゴキブリがどうとか騒いでいた顔じゃなくなっていた。
 ──こんな顔を見てもあんたらは説教できるの? 事情も知らないのに感情論をさも誇らしげに並べて悦に浸りやがって。
「いってらっしゃい」
 扉の先に消えていくマコの背中はいつもいつも儚げで、私は目をそむける。


 この日、私に指名はひとりも入らなかった。こんな日もある。毎日こうだったらいいのに、と生活を丸投げにした願望もあるけどそれだとやっぱり食べていけないから困る。
「ただいま」
 猫しかいない家でも挨拶をかかさない私は律儀。ブルー入ってても習慣は抜けないってだけだけどね。どんなに泣いてもお腹が鳴るのと一緒。
「みゃお」
「はいはい、ごはんね」
 足にすり寄るふわふわ茶色の毛をまとう愛猫の『ロッチ』をかわして私はベランダから餌の袋を持ってくる。重い。餌の袋を抱える度に小分けしよう、と思うけどそれはなんか嫌だ。面倒とは違う。なんか嫌。この重みはおそらく命を握っていると錯覚するためにあるものだと思う。だから小分けするのは違うと思う。
「みゃおみゃお」
 わかってるって。
 餌皿にががが、と餌を盛ってあげるとロッチは負けず嫌いだから、ががが、と同じようにもしくはそれ以上の勢いで貪欲に餌を食べていく。美味しそうに、とか上品なんて言葉はロッチには似合わない。ただ貪欲なロッチを見ていると汗だらけのスポーツ選手を見たときと同じ気分になる。ああ生きているな、っていう感動と刺激。
 ひざをついてロッチを眺める。がつがつ、と餌を頬張るロッチは勇ましい。食べているときは目下の食べ物のことしか考えてない表情。猫にも表情があることを猫を飼ってからはじめて知った。猫をもっと可愛く思うにはこれに気付くのが前提。気付いたら最高に愛らしく見える。
 でも時々不穏な思いを抱く時もある。まさに今。ロッチに餌をあげている今。せっかく晴れた気分に暗雲が突如現われるのだ。
 ロッチに餌をあげなかったら死ぬんだろうか。
 残酷な事を考える私。餌をもらえないロッチはもちろん死ぬだろう。人間だって栄養を補給しなければ死ぬ。熊だって、あめんぼだってみんな死ぬ。生きたいから食べる。憂鬱に侵されてもごはん炊いたりする。でもそれは滑稽なことじゃない。確かに笑えるけどそれはバカにしているんじゃない。
「みゃ」
 ロッチは空腹を解消したのか短くお礼を言って餌皿の前をあとにしてここ一月フローリングに敷きっぱなしで湿気臭い私の布団に我がもの顔で潜っていく。食べてすぐ寝たら太るよロッチ。猫なのに豚になったらどうすんのロッチ。豚を飼う気はないよ臭いから。たまに養豚場の車とすれ違うと鼻がもげると悲鳴をあげたくなる悪臭の襲われるけどあれに毎日耐えられるほど私は辛抱強くない。ロッチは猫だからいいのだ。ロッチは猫だから私がいないとだめなのだ。
 ──私がいないとだめ?
 目をつむって浅い呼吸を早くも開始したロッチは返事をしない。どうせ起きてても返事はしないだろうししたところで人間の私が理解するのは、まだ、難しいけれどなんか返事をしてくれなくて助かったって感じ。
 ごめん、ロッチ黙っててくれて。
 ありがとう、ロッチ黙っててくれて。
 私の家のゴキブリをもしもロッチがすべて退治して空腹を満たしているのなら餌を与える私はロッチにとって用済み。義理か同情で付き合ってくれているってことになる。そんで私はロッチに依存しているのだから、自分のごはんよりもロッチのごはんを優先するぐらいだから。でもロッチは私に依存していないってことになる。そんなのは嫌だ。片思いみたいで嫌だ。せつなくて痛くて嫌だ。泣きたくなるけど泣き方はもう忘れちゃったからできないしこの思いの発散方法を私はしらないからそんな気持ちにさせないでほしい。
「にゃあにゃにゃにゃあにゃ?」
 猫を真似て、まさに猫なで声を出す私をロッチは笑いもしなかった。貪欲に爆睡。
「ロッチ。ゴキブリを食べないで」
 今度は人間の言葉でロッチに言った。
 ロッチは私に依存するべき。ゴキブリなんて食べなくていい。ゴキブリなんて出てきても怖くないから安心してよ。新聞紙で叩いてやるから大丈夫、ってこんなことするから私はマコに男っぽいなんて言われるのかな。
 ロッチは私のこと女だって思ってる? もしかして思ってるから──
「みゃおみゃ」
 猫も寝言を言うってはじめて知った今日。今日からもっともっとロッチを愛おしく思える。


―終―
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