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#35 後ろめたさのしるし
 赤い電気が点いているだけでも、隣で寝息をたてている不細工の顔はよく見えた。不細工は仕事までは死んだようにぐっすりと眠り、俺の声で水底から浮上。その疲れた体のまま、体を売りに行く。
「私は不良品だから」俺が珍しく心配した日には必ず舌をだしておどけてみせる。滑稽なほどに、その笑顔は美しかったりする。皮肉なほど、その笑顔は愛おしかったりする。
 しかし、それは錯覚だ。虚像だ。俺なんかが理解できる範疇じゃない。そんなこと俺が一番判っている。
 帰宅して、ワイシャツを捻りあげるように脱ぎ捨ててシャワーを浴びる前に鮮血を浴びるような気が狂ったセックスをする。毎日毎日。気が狂うまで。気が狂っているのに気がつかないのは気が狂っているから。思えば気が狂っていなかったときなんて女を知る前だけだった。あの頃は、まさか自分が抱いたばかりの女に「早く寝ろよ」なんて冷淡に吐くなんて思ってなかった。
 こんな不良品でもご立派に役職に就いているからこの国は傾いているのだ。すべての責務を押し付けていい気になっているが、本当は知っているはずだ。
 たったひとり──どれだけの権力を持ってようが、一人には変わりないということを。命の重みは知ったかするのに都合よすぎるぜ、みんな。
 みんないけないやつなんだ。みんな、みんな、みんな。
「おい」間抜な不細工の寝顔を見ながら、肩を揺すり起こす。「時間だぞ」
 腕時計の秒針が三回廻っても起きない不細工に彼は苛立つこともなかった。また、溜息をつくこともなかった。寝顔を見つめて、無表情だった。
 秒針が回されたダーツの的のように力なく失速していく。彼が目で追う前に、女が目を覚ました。
 寝ぼけた顔の彼女は体を起こすなり、無言で目をこすった。何度も目をこすった。今見てるのは現実じゃない、と拒絶するかのごとく目をこすった。
 彼が何も言わずとも、ベッドのシーツに残された体温が彼女に現実を突きつけた。現実に立った彼女は、「おはよう」と言った──つもりだったが水分に飢えた口は言葉を上手く生めなかった。
 おはよう、も上手く言えない彼女が上手に生きていけるはずがない。彼は苦笑しながら思った。
「顔洗ってこいよ」
 こくん、と彼女は頷きだけを返して重い体を引き摺るようにして洗面所に向かった。
 痩せた背中。後ろから蹴りを入れたら間違いなく折れるだろうな。
 彼はベッドに腰かけたまま、ガラステーブルに目をやった。テーブルの上に置かれた二つ折りの携帯電話が彼女の背中とだぶった。
 こんな先のない暮らしをして、何になるんだろうか。
 彼はぼんやりと自分の携帯を眺めながら思った。先ばかりを求めたり、結果論だけを崇拝しているつもりはなかった。でもこのまま下るだけの暮らしをするのも、何か──
「物足りないの?」
「は?」
「親指噛んでるから」
 彼は面食らった。顔を洗った彼女のすっぴんにではない。自分の行動に、だ。まるで赤子のように親指を噛んでいた自分に驚いた。俺はもう三十だぞ…。
 洗顔のときだけ髪を結う彼女から石鹸の香りがした。毎夜、嗅ぐお馴染みの匂いだ。彼にとってはギターの音よりもこの匂いのほうが、響く。血液を染みわたっていく快感とは違って、現実ってのが俺を笑いにくる感覚だ。
「上着ろよ。みっともねぇ」
「もう見飽きたって?」
「ちげーよ」
「あら、嬉しい」
 言いように弄られて彼は舌打ちした。調子が狂う。
 無地のシャツを頭から被った彼女はそんな彼を声をださずに笑った。シャツから顔を出す前の表情だったから彼には見えなかった。
 彼女は仕事に行くときはだらしない格好でと決めていた。こだわりとまではいかないが、自分の仕事に誇りを持っているわけでもない彼女は恰好をつける意味を持っていなかった。どうせ店に行けば着せ替え人形のように、あれやこれやと客の趣味に合わせた格好をするのだ。気を抜けるのは今だけなのだ。だから好きにさせてよ、と彼女はいつも言っている。
「俺さ。今日仕事休もうかな」
「なんでよ。風邪でもひいたの? そうは見えないけど」
「いや、なんとなくな」
 彼女は肩をすくめた。何もいわずにガラステーブルの上の鏡と見合った。鏡の中に映る彼女の顔がみるみる変わっていく。
 別人のようだ。化粧ってのは便利だな、と彼はこの劇的な光景を見るとつい思ってしまう。
 仕事やめてえな。不満もないが、責任もない。あるはずなんだが実感がない。あるべきはずのその実感がなくなったのはいつだった? わからない。わからないんだ。
 彼が自問自答する間、彼女は顔を作っていった。知らない人になっていく自分に畏怖することはなくなった。むしろ知らない人になりたい、と思っていた。好きなように自分の顔に絵を描いていくように彼女はファンデーション、アイシャドウ、口紅を塗った──素の自分を塗りつぶした。
「飾りじゃないのよお、涙はっ、ああぁ」口からメロディが溢れた。
 急に歌いだした彼女を先のない自問自答を終えた彼は訝った。「どうしたんだ。そんな古い曲うたって」
「ここから先が分からない」
「俺だって知らねえよ。そんな昔の曲」
「使えない人ね」
「お互い様だろ」
「あ、そういうこと言うんだ。じゃあ今すぐ帰っていいよ? この時間に帰ったらどうなるか知らないけどね」
 彼は嫌悪ではない鋭い目つきで彼女を睨んだ。こう言われては退くしかないのである。女ってのは賢いやり方ってのを知っている。敵に回すなら男に限る。これは社会の常識だと痛感する。
「おーわり」せっかくできあがった顔に波をたてて彼女は彼の隣に腰かけた。「怒った?」
「別に」努めて淡泊に返す。
「怒ってるう」
「怒ってないって」
「じゃあ悪かったなって思ってる?」
「…別に」
 すこしは思えよお、と彼女は泣きつくように彼を押し倒した。華奢な腕に負けるほど彼の体は軽くないがされるがままベッドに背を沈めた。一緒にいる女からだ、悪い気なんてしない。時々喧しくも思うし、疎ましくも思う──だがそれは心の底から湧く冷めた感情じゃない。もっと着色も名前も付いていないような感情だ。
 キスでもしてやろうか。彼は覆いかぶさって胸に顔を押し付けてくる彼女の頭を撫でた。ずっと撫でていれば今彼女が何を思っているか読み取れそうな気がしたが──やめておいた。知りたくなかった。知ったところで距離が縮まるわけではないのだ。なら、知らない現状を維持するのが懸命な判断だ。
 ──怖がってるだけだろ、俺は。
 違う。
 ──何が違うんだよ。
 それは…。
「ごつごつしてる」
「ん、何が?」
 気付くと彼女は手を握っていた。握るというには弱々しく、触れるというにも弱々しく彼の指の間に自分の指を挟んでいた。「お父さんのと似てる」
「お前の?」
「うん」
「へぇ…」彼はこんな言葉しか出てこなかった。
「お父さん、画家だったんだよ。死んじゃったけど」
「画家? お前の親っぽくないな」
「なによ、それ」
 彼はふっ、と鼻で笑って誤魔化した。「お前のこと描いたりしてたの?」
「そりゃちいさかった頃はね。でも歳とったらそういうの気恥ずかしくなってやめた」自分で言っておいて恥ずかしい、と感じていた過去があったことに驚いた。同時に、これこそ気恥ずかしいものがあった。恥ずかしいと感じているうちに聞いてしまえ。今なら大丈夫だ、きっと。彼女は手をぎゅむ、と握った。
「ねぇ」心臓に囁くように彼女は呟いた。「聞いていい?」
「…どうした?」聞かないでいい、そんな風に突き放せたらどんなに楽だろう。知らなくていい、こんな風に逃げてる俺はすでに楽している。
 彼はどんな質問を投げられるか推測していた。消去法で聞かれても大したことから順に消していけばおのずと出た。
 外でカラスが鳴いている。素っ頓狂な声をあげている。鶏は朝を告げるが、カラスは夜の延長を告げる。いつもならうざったいだけのカラスの鳴き声が沈黙にはありがたかった。
「なんで私と付き合ってんの?」彼女は言った。胸に顔を任せたまま、体重をおろしたまま呟いた。愛の告白を彷彿させる気恥しい言葉だな、と彼は彼女の頭を撫でた。もう片方の手は決して絡むことのない手と体温を交換している。不毛なものだ。
 なんで、か。
「ねぇ、なんでだろうね。なんで私たち」
 絡み合う手から金属の衝突する音。その音に同調するように外のカラスが鳴いている。なかないでくれ、と頼んだら去っていくだろうか? なかないでくれ、と懇願すれば許してもらえるだろうか? 誰に? 何を? どうして? わかりゃしねえよ。わからないから困るんだ。学生のとき、ばっちり予習した日でも突然あてられたらこんな風に口ごもったっけな。何も答えられずに立ち尽くして視線を浴びていた。
 しかし今は、その視線がない。
 追いうちをかけるその視線がない。
 だから、
「後ろめたくないから、かな…」寂しさも憂いも必要のない愛情ってのは後ろめたいもののはずだが、その実感すら今の俺にはない。ないものねだりする気もない。愚直に、俺は…。
「そっか」彼女は顔をあげて自己暗示するように繰り返した。「そうだよね。うん、やっぱりそうだよね」
「俺は…」
「いいよ。もういい」
「良くねえよ」と怒鳴りながら安堵している自分に辟易する。助かった、なんて思っている自分に反吐がでる。この国でピストルが合法化されてなくてよかった。もしそうなっていたら俺は何度銃弾を頭に受けていたことか。俺は何度自分を殺したか。
 彼女は何も応えずに立ちあがって、代わりに微笑した。それから羽振りのいい給与で現金払いで購入したブランドもののハンドバッグを肩にかけて部屋を辞そうとした。
 待てよ。
 彼はそのたった一言をいえずに唇を噛んだ。
「じゃあ行ってくるね。ちゃんと帰るときは鍵──」
「わかってる」
 言葉を遮られた彼女は、「…あっそう」と濃いアイシャドウに囲まれた目を瞬いた。
 ドアが閉められても彼は動けなかった。彼女が歩いてくのを窓から眺めてからやっと彼は身を起こした。電気を点ける気にはならなかったが、このまま真っ暗の空間で自己嫌悪してもいいが流石に自分の年齢を考えたらそうするのは憚られた。
 それでも人工的な光が部屋を満たすと彼の胸は他人の体温の残り香のせいでやけに重かった。重く苦しかった。薬があればもらいたかった。だがピストル以外の特効薬はないと知った。
 後ろめたくないわけないんだ。そんなわけあってたまるか。
 彼はさっきまで他人と絡めようとしていた指に触れた。ひんやりとした感触だけがあった。彼女の付けている指輪とは違う輝きを放っているが温度は同じだ。同じであって同じでない、と理解する。無理やり理解して、後ろめたさを取り戻そうとする。
 ──「物足りないの?」
 ──「お父さんのと似てる」
 ──「なんで私と──」
 彼女の言葉ひとつひとつを反芻しながら後ろめたさを探した。部屋のどこかに落ちてそうだが、どれだけ見回しても見つけることができなかった。
「ったく…」溜息をついて立ちあがりは洗面所で──それを見つけた。
 彼は笑った。笑うしかなかった。
 やはり女は敵に回すべきじゃない。いつだって狡猾な手段を使って男を手の上で転がす。男はころころと転がって落ちる寸前でやっと気付く。
 ──彼の着ている白のワイシャツに口紅がべっとりと付けられていた。
 白いキャンパスに絵具をひねり出して、幼児が掌で好き勝手伸ばしたような雑な模様がワイシャツに彩られていた。キスマークと呼ぶには不細工だ。
 洗面所の鏡の前で彼は彼女の父親が画家だというのを信じた。疑いようもなく信じた。
「あー、くそっ」
 蛇口をひねると流れ出る水で彼は必死になって彼女への愚痴を心中で呈しながら何度も顔を洗った。水が跳ねてガラスにしぶきがつこうが、ワイシャツが濡れようが構わずに彼は何度も顔を洗い続けた。
 顔を洗う彼はワイシャツを洗って帰るつもりはなかった。


―終―
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