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#33 ペンを折る。
 先日五歳になったばかりの愛娘のマコが、自分の絵を描いてほしい、とシャツの裾を引っ張ってきた。
「あー、はいはい」
 適当に了承した。といってもわざわざ画家の仕事を使う画材を寝室まで持ってくるのは億劫だった。
「パパ早く」
「はいはい、わかりましたよ」
 ちょっと待っててね、と優しく言いマコの手をシャツの裾から離した。そして首の骨をぽりっ、と鳴らしながら机に向かう。
「どっこいしょーたろう」
 シルバーの椅子に腰を下ろすとぎしっ、と悲鳴がきこえた。太ったのかイスがもろくなったのか。
「あらあら大変ね」
 妻のウメが化粧台と睨めっこをしながら笑った。「マコったら寝る前にいったいどうしちゃったのかしらね」
「さぁね」
 マコは、早く早く、と隣に立ってせがむ。
「わかった、わかったから」
 眠気よ、もう少しの辛抱だ、耐えてくれよな、と身体に鞭打つ。
 机にアイデアが浮かんだときなどのためにメモ用として据え置きしておいた紙と黒いのボールペンがある。それを握る。
「面倒だなあ…」
 思わずに口にすると、ウメが鏡越しに、きっ、と睨んできた。
「家族サービスよ、サービス。たまにはかまってあげなさい」
「わかった、わかった」
「ほんと、もう。この旦那ときたらいつも絵ばっかり描いて、周りのことなんか見ちゃいないんだから」
「いや、俺は絵を描くのが仕事だから」
 ウメの発言が皮肉だと理解しているが、すかさず訂正を入れた。我が家では皮肉はボケなのだ。そしてボケにはツッコミが必要不可欠なのは常識問題である。こんなことはテレビを見ていれば他人に言われずとも学ぶ。今の時代この決まりを知らないのはN●Kしか見ていない団塊ぐらいだろう。
 あまり気が進まないが、ボールペンを走らせる。時折マコの顔を凝視する。その繰り返しだ。絵なんてものはそんなもんだ、一から十までやって完成というわけではない、一と二を何度も繰り返して完成するものだ。単純作業で複雑なのを作り出すのが──画家の仕事。
「パパ、パパ」
「なに?」
「マコ、こんなに太ってない」
 マコが途中経過を覗きこみ、抗議した。
「いやいや、最近ぽっちゃりしてきたよ。お菓子ばっか食べてるから」
「食べてないもん!」
「食べてますぅ」
「食べてないもん!」
「食べてますぅ、マコちゃんはお菓子ばっか食べてますぅ」
「食べてないもん! マコ、お菓子食べてないもん!」
 ほうほう、と小馬鹿にして頷き、
「今日パパがポテトチップス食べようと思ったら、なくなってました、今日のお昼はママはいませんでした。バレーしに行ってました。マコとパパしかいないお家で、パパが食べてないチップスがなくなったってことは誰が食べたんでしょうかぁ」
 と緩急をつけた口調でマコに問うと、
「うーん」
「あれあれぇ? もしかしてマコなの? マコちゃんでしょ。パパのチップス食べたのマコちゃんでしょ!」
「…マコじゃないもん!」
「はいはい」
「ねずみさんだもん!」
「はいはい」
 ちいさな体で必死に暴れるマコの頭を左手で軽く押さえながら、利き手は引き続きボールペンを走らせる。適当でいいか、そんな思いが浮かぶが、そこは一応画家。心中を無視して納得のいく仕上がりを目指し手が勝手に動いてしまうものである。
「あら、うまいじゃない」
 寝る準備を終え、仕上げに髪をゴムで結いながらのウメが賛辞を呈した。
「そりゃ、どうも」
「駅前で描いたら儲かるかもよ」
「プロだから無理。怒られる」
 ウメは、冗談よ冗談、と口元に手を添える。ややあって、ふうあ、とだらしない声を、息をもらした。
「寝る」
「おやすみ」
 ウメは目で「おやすみ」と返事をし、ベッドにもそもそともぐっていった。
「パパ、まだぁ?」
「もうすぐ」
 目尻がなかなか上手く表現できない。マコのなんというか、ふっくら感、が上手く表現できない。
「もういい!」
「ちょ、ちょいちょい」
 ウメの寝るベッドにもぐろうと向き返ったマコを呼びとめると、ベッドの上からふふふ、とウメの嘲笑が洩れた。
「できた、できたから!」
 適当でいいや、そんな思いが容易く浮かぶのが画家。締切が来てしまったのだから仕方ないじゃないか、と自分を納得させるのはお手の物である。
──でもこれ、そこそこ良い線いってんじゃないの。
 そんなかすかな自信を持って、マコに似顔絵の描かれた紙を手渡した。
 似顔絵を眺めたマコは、
「ううん…」
 と生意気にも唸り、渋面で猛抗議をはじめた。
「似てない!」
 こうきっぱりと言われるとわが娘でも流石に、むっ、ときてしまうのが芸術家の悲しい性である。芸術家というのは、否定するのは好きだが、否定されるのは腹の虫が何匹いても足りないほどの憤りを感じるのだ。
「似てるよ! そっくり! こりゃクリソツだよ!」
 幼子には判らない死語で反論した。
「似てないもん!」
「似てます!」
「似てない!」
「似てる! むしろこっちがモノホン! あなた誰! マコちゃんはそっち! こっちのマコちゃんは誰!」
「マコだもん!」
───「うるさい! 寝られないでしょ!」
 せわしい論争はむくっと起き上がったウメの一喝によってあっさりと終止符を打たれた。
「見せてみ」
 不機嫌そうなウメがマコから半ば強引に奪い取り、似顔絵の紙を先ほどまで閉じられていたのであろう瞳でまじまじと見つめた。
「…似てるじゃん」
「似てない!」「似てるよな!」
 マコと反応が重なった。しかし、その意はまったくの反対である。
 親の仇を睨むような視線を実の親にたいして発するマコが、唐突になにか思いついたのか化粧台の前に走って行った。
「どうした?」
 マコは化粧台に貼られたマコぐらいの幼女なら足先以外を映す鏡を指差し、
「こっちのほうが…うまい!」
 と、どうだまいったかと言わんばかりに胸を反って言った。
「はぁ?」
 マコの意図がわからず訝っていると、ベッドの上でウメがくすくすと笑った。
「なんだよ」
「鏡のほうが上手いって。あんたの描いたのより、鏡の描いた似顔絵のほうが上手だってさ」
 ああ…。
「あらら、お父さん立場ないね。画家なのに」
 ああ…。
「パパ、下手!」
 もうなんだ、もういいや、眠いし疲れたし、でもこれだけは言っておかないとな…。我が家の決まりなのだから。
「こりゃ一本とられた。父さん降参ですわ──って、それ似顔絵じゃないから! ホンモノが映ってるだけだから! モノホンだ、モノホン! 負けるに決まってるだろうが!」
 マコは耳に人差し指を挿して、
「パパ、うるさい」
 と何処で覚えてきたのか小生意気な反応をした。
 マコのその反応で思わず、大人げないと己を制止する前に手に持っていたペンを折ってしまった。ああ、わざわざ画材を持ってこなくてよかった…。


―終―
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