#30 かわずかはづ
「どうも人間という生物は進化するらしい」
手にメスを持ったエタノは言った。「進化、といってもかなりのスローペースだが」
「それなら先日の授業で習いました」
ルーノが答えると、エタノはそうかそうかと関心するように短く頷き、メスを手術台の上に寝かせた一体の人間の腹部に刺した。そして丁寧に腹部を裂いていく。腹部から内臓が覗き、血が滲み、人間の臭いが室内にたちこめた。
「う…」ルーノが人間の内部を見て目をそむけた。
「なにを怖がっている」
「怖いのではありません」
「じゃあしっかり見ておけ。我々には記憶ではなく記録が必要なのだ」
エタノの語調の強い言葉で、ルーノはノートに薄めがちに見る内蔵の位置を記録していく。デッサンのような荒い絵も添えている。
「そもそも解剖に恐れる理由などないだろう? 君は理科の授業でカエルを解剖した時に恐怖を覚えたのか。私は好奇心でいっぱいだった」エタノは少年の日の断片を思い出すように語る。「血の臭さや残酷性じゃあ好奇心を打ち破ることはできない。人は常になにかを知りたい、得たいという探究心の元で学ぶ。それを恐れていては白痴になるだけだ」
エタノは語りながらもメスの動きを止めていない。その目には確かに好奇心だけがあった。
「私にだって」ルーノは理科の授業を思い出せずにいた。自分は授業を受けなかったのだろうか。いや、ぼんやりだが記憶にはある。「好奇心はありますよ」
「ほう。それにしては手の動くペースが遅いが」
「すいません」
「雑な字で構わない。あとで清書すれば」
「わかりました」
ルーノは真剣な目つきでノートと解剖された人間を交互に見て記録をすすめた。今回ルーノは記録者であり助手の為、時折エタノの額の汗をガーゼで拭ったりもした。
解剖が中盤にさしかかった所でエタノは何か想起したようにメスの動きを止め、
「そうだ、君はなぜこの解剖に付き合うことにしたんだ? 希望者は君だけだったし助かったが」とルーノに疑問符を投げた。
「それはまあ、好奇心、でしょうか」
ああ、そうかそうかとエタノは苦笑しながら、
「今はただの解剖実験に過ぎないが、これは必ず未来に繋がる。そんな現場に立ち会えた事を光栄に思ってくれよ」
「当然です」
「まあ急ぐことはないんだがな。上は何を考えているのだか」
「数十年といったもうすぐです」
「私たちの星は、まぎれもなく私たち自身が殺すのだな。何千年とかけてじっくりと」
「罪深いですね」
「裁く者がいないから罪は深くなる一方だよ、まったく」とエタノが嘆息をついた。
ルーノは記憶を刻みながら考えた。我々は今なにができるのだろうか、未来に繋がる架け橋を作り上げることができるのだろうか、その架け橋を私たちの子孫は無事に渡ることができるのか。
「なにをぼーっとしている。早く書かないか。あともう少しで終わる」血に一晩漬けたように真っ赤になったメスを握るエタノが笑った。
「はい」ルーノは不安な心を張りのある返事で隠した。が、ひとつの疑問だけは隠しきれず、溢れそうになる。「先生」
「どうした? もういいぞ、あとは塞ぐだけだ」
「先生、この星が駄目になったら他の星に移住するというのは分かります。住めなくなれば、その場を離れるのは当然だと思います。しかし一つだけ疑問というか、心配事というか」
「なんだ?」
「この人間と我々の構造が生物学的に同じ、もしくは近いのでは人間の住む星が我々の星と『同じ状況』に陥っているという可能性はないのでしょうか?」
エタノはその問いに答えず、しばらく黙々と人間の腹部の傷の縫合に集中した。
「ふぅ」とエタノは疲労に満ちた息を吐き、メスを置いた。「終了だ」
「先生、教えてください。どうなのです? その可能性はないのでしょうか?」ルーノの語気が強まった。
エタノはまたも疲れきった弱い息を吐き頭をかいた。
「それはこの人間を送り返す者たちが調べてくることだ。解剖が仕事の我々の範疇ではない」
「それはそうですが…」
「祈れ、彼らが我々と同じように残酷な生態系でないことを。
祈れ、彼らが我々の移住計画に気付かない鈍感な生物であることを。
祈れ、彼らが星を明け渡す弱者であることを…」
エタノは「上に解剖は無事に成功したと報告してくる」と言って解剖室を去っていった。
残されたルーノは台に乗せられた裸の人間を見つめ、少年の日を思い出した。仰向けに寝かされた人間は内部構造こそ自分とほぼ同一だが、カエルにしか見えなかった。好き勝手に解剖されたカエルにしか。
―終―
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