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#26 古本紀行
 遠くへ行きたくなった──。
 どこか遠くへ──。

 無職になった。外から聞こえる近所の子どもの遊び声さえも耳鳴りと同列で、苛立つ。
 無職になった。家にいるだけで胸に存在する無情さが憂鬱と同列で、苛立つ。
 なにもなかった。
「これから」や「これだ」と言える未来像は、なかった。
「どうしようもないな」「どうして」「俺なりに頑張ってきたつもりなんだけど」
 何をすればいいのか。いったい何処へ行けばいいのか。

 貯金は少なからずだが、ある。趣味という趣味がなく、友人と呼べる友人もなく、使い道がなく、それなら当然金は溜まっていく。
 通帳を覗くと当分の暮らしは大丈夫そうだった。しかも、これに失業手当が加わるのだ。大丈夫だ、大丈夫だ、と自己暗示する。
 会社が倒産し職を失って数日が経ち──退屈が襲いかかってきた。
 趣味がないのは痛かった。せめて趣味があればこの逆境を「趣味に費やせるチャンス」などと言えたかも知れない。
 テレビをザッピングするが興味を持つ番組はなく、やらせ臭いドキュメンタリーに仕方なくチャンネルを合わせる。それを漠然とした目で見続ける。内容はまったく入ってこなかった。
 外から、なぁーなぁー、と野良猫の小生意気な鳴き声が聞こえ、たまたま手に掴んだ本を窓に投げた。
 投げた本はかつての上司に薦められ購入した自己啓発本だった。「こうすればああすれば、あなたも…」などと助言めいたことばかりが羅列され、うんざりしたことを覚えている。
 ぐしゃりと力なく落ちた本を拾い上げて、ぱらぱらとめくってみる。頁をめくっていけばいくほどうんざりとする。
 趣味に関しての項目を発見し、一応読むことにした。
『無趣味の人はとりあえず読書を始めましょう。読書は視野を広める事───』
 なるほどなるほど、そうかそうか。
 明日、本を買いに行くことにした。この本に誘発されたからではなく、どうせ暇だから、だ。

 通勤には専ら電車だったため、自転車置き場に自転車があるのか(盗まれてないか)心配だったが杞憂だった。
 自転車に乗るのはかなり久しかった。しかし自転車という乗り物は不思議なもので、違和感はあるものの、下手になるということや乗り方を忘れるということはない。数分も経てば違和感も、消える。
 昼過ぎの生ぬるい風が顔に当たる。悪い気分でもない、かといって良い気分でもない。
 平日だというのに賑わうスーパーマーケットや楽しそうな若者の集団。焦燥を感じざるを得ない。
「俺は何をやっているんだ」
 頭を抱えたくなる衝動を押し殺しながら、古本屋へと急いだ。

「いらっしゃいませー」若々しい店員が一寸だけ視線をこちらに向けた。
 全国チェーン店の店員は古本屋だろうが、レストランだろうが元気がいい。もしかすると葬儀屋でも元気がいいのかもしれない。普段なら「やかましいな」と煩わしく思う所だが、今日ばかりは「その元気を少しでもいいので分けてくれませんか?」と思った。
 漫画コーナーを一瞥もせずに通り過ぎ、小説コーナーへ足を運んだ。
 ずらりと並ぶタイトルに圧倒される。聞いたことも見たこともない作家ばかりだが、時折見知った作家もいた。学生時代に読んだ作家たちだ。
 それからはノスタルジーなのだろうか、一度読んだことがある本ばかりを(かご)に入れていった。
「檸檬」「羅生門」「肝臓先生」…エトセトラ・エトセトラ。
 (かご)がいっぱいになり、やっとレジへ向かった。店員が驚くのではなかろうかと内心期待したが、店員は一礼して「お預かりします」と言ってから淡々とレジを打って打って打って打って打って…。
 二つの大きな袋を持って、「ありがとうございましたー」という声を背に受け、自転車を見て思う。「これは帰りが大変だ」
 なんとか帰宅し、息をついた。
 山になった本を見ながら小さく笑う。「これで当分は退屈しないで済む」
 例の自己啓発本を窓から投げ捨てた。

 それから数か月は一心不乱に本を読み漁った。
 つまらないと判断した本を容赦なく読むのをやめ、面白いと思った本は読み返したりした。
 このぶっきらぼうな読書には一つ発見──楽しみがあった。
 古本にはおかしなものが挟まっているのだ。
 よくある髪の毛やゴミをはじめ、なんとお札が挟まっていたこともあった。
 何も挟まっていないことが普通なのだが、あたらしい本に手をつける度に雑誌の袋とじを開けるような妙な興奮がある。この興奮のために読書をしていると言っても過言ではないと思われる。
 だが、この些細な楽しみも今日で終わる。とうとう最後の一冊を迎えてしまったのだ。
 ふう、と弱々しい気合を入れる。
「ついに…」息をのむ。
 はじめの頁をめくると、ぽとりと何かが本から落ちた。どうやら当たりのようだ。
 枯葉だろうか?、と思った。手にとってみると材質は紙だった。薄茶色に変色したと思われる(しおり)だった。
「栞か…」
 がっかりしている自分がいる。
「栞ね…」
 最後だから特別なものだといいな、と生意気な期待を抱いていた自分がいる。
 そんなもやもやとした気持ちで、しげしげとその栞を見ると思わぬ発見で笑いが出た。一人で笑う。傍から見ると奇人だ。しかし、笑う笑う。
 書店によるオリジナルの栞らしく、栞にはその書店の地図が載ってあった。小さく見難いが、見えないこともない。
 その地図は明らかに、ここから随分遠くの東京のものだ。
 東京の書店で誰かが買ったこの本は、その誰かが古本屋に売り、また違う誰かなどを流れ流れて、今「ここにある」という奇蹟。大袈裟だと言われるだろうが、感動した、大袈裟なくらい笑った。
『現実は小説より奇なり』
 ありがたい言葉。これこそ真理だ。
 と、またも大袈裟に思う。

 翌朝、東京行きの新幹線に乗った。


―終―
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