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#25 ケッ婚しましょ
 男は鬱屈とした気持ちとセカンドバッグを抱えながら、駅に向かって揺れる電車内で耐えていた。今日も仕事だといううんざりする繰り返し、その現実に抗うことの出来ない自分。叱咤する気はない。ただ、うんざりしていた。いつもと同じ景色を見ながらどんよりとした息を吐きつつ、うつむきながら立っていた。
 女は憤りと羞恥で頬を赤らめ、揺れる電車内で耐えていた。朝の通勤ラッシュの車内という密集地帯で起こった小さな事件。事件こそ小範囲だが、女のプライドを傷付けるには十分な威力だった。
 男と女の関係。『赤の他人』
 男の右斜め前に女が位置している。
 それ以上も、それ以下もない。一度として交わってはいない二つの人生…。


 ぷしゅー、と電車のドアが開かれた。我先に、われ先に、われさきに、と人がそのドアめがけて駆けていく。速度は歩行よりも劣る。だが、その迫る思いは全力疾走に引けをとらない。
 当然彼も、駆けた。流されるように身を任せ、会社へ向かうために、自分の中にある鬱屈とした思いはわざと車内に落とした。
 女は、眼を離さず男を追った。(またた)くことすら自らに許さなかった。強い怒りの眼差しを彼の男の背中に絶えず送った。
 男が駅に靴底をつけた瞬間──。
 背後からぐっと左手を引っ張られた。
 強く、握られている左手首。
(のが)さない…!』
 男は何事かと思い、戸惑いつつ後ろを振り返った。
 そこには女がいた。
 胸まで伸びた黒髪。目隠しの役割を真っ当している前髪。どこか見覚えのある黒のロングコートを着こなしている、すらりとした体型。
 男は小さく悲鳴をあげ、女に尋ねる前に冷やかな手を振り払おうとした。が、振り払えず男は更に混乱した。
「一体なんですか!」
 女は手を離すことを頑なに拒む。
「……」
 問いを飲み込むようなの重圧のある沈黙。
「ちょっと、は、な、離してくだ、さいよ!」
 ぶつ切りの言葉を放ちつつ、腕に力を込めるが、うまくいかない。これが女の力か?、恐ろしい。
「…るさない」
 女が震え声を漏らした。
「え? なんですか?」
「許さない!!!」
 今度ははっきりと男の鼓膜を揺らした。鼓膜がブランコなら、百八十度の位置まで何度も揺れるほどの危険を感じる音量だった。
 あぶない。
 この状況はもの凄く──危険だ!
 男は理解してしまった。
 電車を降りて、見知らぬ女に腕を掴まれる、そして「許さない」と怒鳴られる…。
 あれしかない。あれしかないじゃないか。
 女の口が開いていくのがスローモーションのように見えた。ゆっくり、ゆっくりと女は男の望んでいない予想通りの言葉を紡いでいった。
「この人、痴漢です!」
 そして車内に置き去りにした、鬱屈とした荷物が大きく膨らんで戻ってきた。


「ちょ、ちょっと待って、何かの間違いだって!」
 女に弁解するというより、ざわつく周りの人間に叫んでいるようだった。しかし、しどろもどろで不細工な弁解は、理解ではなく、疑惑と白けた目線を強めるだけだった。
「あなたは私の臀部…いえ、お尻を弄んだわ…」
 肩をぷるぷると微動させる女の顔は、狂気そのものだった。
「待って、本当。なんかの間違いだって」
「間違い? それはあなたの存在のことでしょ」
「人の話を聞いてくれ」
「私の耳は私のためにあるの。あなたに指図されて使うほど、ちゃちなものじゃないわ。馬鹿にしないで」
「……」
 男はすぐさま諦念した。街角で外人に道を聞かれ『右行って左行って真っ直ぐ、そして…』と拙い英語で説明するほうがよっぽど簡単だろう、と思った。
 この女には話が通じない。特殊なフィルターが発動して、日本語を未知なる言語へと変換しているに違いない。亜種だ。人類の中の亜種。決して関わってはいけないタイプの人間。自分に子どもが産まれたら「ばぶばぶ」としか言えない頃から「…このようなタイプの人間とは関わるんじゃないぞ」と耳に(ほこり)が溜まるほど言い聞かせる。
 だれが呼んだのか、または『異常』に気が付いたのか一人の駅員が走ってきた。
「何事ですか?」
「痴漢です! 捕まえてください! さぁ、早く! この外道を縄でぐるぐるに捲いて!」
「助けてください…」
 ヒステリックに男を罵る女に駅員はたじたじとしながら、男の腕を掴んだ。
「ご同行お願いします」
「助けてください…わかるでしょう?」
 駅員は寸分(ひる)みながらも「…ご同行お願いします」と言った。
 女は叫び続ける。「この雄豚を早く捕まえなさいよ! 現行犯よ、現行犯! 一般人でも捕まえられるでしょうが! さぁ、早く!」
 男は怯えていた。現在の状況にではない。これからの未来についてだ。わけも分からない内に自分の人生は、面識のない女のブーツで跡形もなくなるほど踏みつぶされてしまうのか?、勘弁してもらいたい。日常を返してもらいたい。先ほどまで嫌で仕方なかった、どんよりとした暮らしを、この手に、返してもらいたいと。男は願った。
 駅員は困惑していた。これまで何度か痴漢の現場に立ち会ってきたが、今回は一筋縄ではいかない。ぐちゃぐちゃの、ごちゃごちゃ縄だ。簡単に解けそうにない。この現場で真中に位置するのは間違いなく加害者ではなく、被害者の方だ。というより、被害者なのかも危うい。加害者の男性の狼狽っぷりは「捕まってしまった」というより、「巻き込まれてしまった」のような気がしてならない。
「駅員さん」口を開いたのは男だった。「私はしていません」
「ですが…」分かっている。が、駅員としては言及せざるをえない。疑わなければならない。万が一があるかも知れないのだから…。
「信じてください。この人──」と男はセカンドバッグをどさっと地べたに置いて女を指差し「おかしいんです」と力なくうな垂れた。
 駅員は何とも言わず、女に問うた。「すいません。あなたは…」
「うるさいわね!」
「す、すいません」
 頼りない駅員を見て、男は絶望した。


「──というわけなんです。いきなりでしょう?」
 男は駅員に簡潔に説明した。簡潔に、といっても省く所などなかった。短く唐突な痴漢呼ばわりだからだ。
 ここでやっと駅員は男の腕を離した。
「わかってくれましたか?」
「大体は」
「冤罪です」
「でも証拠がないので…」
「証拠なら、痴漢したという証拠もないじゃないですか!」
 男は思わず声を荒げてしまった。
 駅員が女に恐る恐る視線を向け、「証拠とのことですが」と尋ねた。
 女は眼を鈍く光らせながら、「私が触られたと言っているんです。被害者が訴えているんです。それだけで十分でしょう!?」と顔を歪めた。
 男は絶句し、駅員はどうしたものかと思考を巡らせた。
「とりあえず事情はあちらで…」
 と、駅員が指さす方向には駅員室があった。
 男は力なく足を引きずるように駅員に付いていき、女は男を睨みながら歩んでいった。
 駅には、電車が突風を起こして野次馬を連れて去って行った。これが何度目かは覚えていない。


「あなたおかしいよ。言ってることめちゃくちゃだよ…」
「どこがおかしいのよ。痴漢することの方がおかしいじゃない!」
「だから、何度も俺は言ってるだろう? 俺は痴漢なんてしていない。誤解だ」
「息をするように嘘をつくのね。さすが変態だわ」
「それは君だろ!」
「人を指ささないでくれるかしら。マナーがなってないわ。あ、そりゃそうよね。電車で痴漢するような人だもの。そんな変態にマナーがあったら、平和をつくる戦争もあるはずだわ」
 男が激昂しようとした瞬間、駅員が「あの…」と遮った。
「お二方の住所、氏名は分かりましたので、これから詳細のほうを説明してほしいのですが」
「さっき説明したじゃないですか」
「ですが女性のほうは納得していないようですし」
「彼女は少しおかしいんだ。いや…だいぶおかしい。駅員さん、あなたも気付いているはずだ」
 駅員はそう言われて胸に針の先でちょんと刺されたような痛みを覚えた。ちらりと女の顔を見ると、女は執拗に右手の親指の爪を噛んでいた。かりかり、とある種軽快な音が聞こえた。
「冤罪だ」
 男はなんでこんなことに、と肩を落とした。駅員はそんな男を見て気の毒に思った──思ってしまった。
「私は触られたんです。信じてください」
 駅員は何とも答えることができず黙った。
「信じてくれないんですか?」
 駅員は沈黙を続ける。
「もしかして…」女が両手で顔を覆った。「二人とも…グルなのね!? そうなのね? 私は…はめられた…」
 妄想。仮定。憶測。そして発狂。
 男と駅員は顔を見合せて、苦笑しようとしたが失敗した。そんな余裕などなかった。
「冗談はやめてくださいね。もう一度、詳細を聞かせてもらえますか。あなたの口から」
 女は呼吸を乱しつつ「私が立っていたら後ろから手が、私のお尻を撫でるように這っていって、何度か振り払ったんですが無駄だと言わんばかりに何度も何度も迫って、私…怖かった」
 男はあんたが怖いよ、と口には出さず遠い眼をした。
「その手がなんで私の手だと分かるんです? さっき聞きましたが」
「分かるといったら分かるんです」
 はいそうですかなるほどと頷くことは当然できるはずもなく、男はため息をついた。
「あのですね、俺──」男は一度痰を切るようにわざとらしく咳をした。「僕はですね。右手に鞄を持ってたんですよ。あなたは僕の右側に立っていた。しかも車内は知っての通りあれだけ人がいるんだ。不穏な動きをしたり、無理やり左手を伸ばして触れることなんてしたら丸分かりじゃないか」
「まぁ、そうですね」と頷きながら淡泊に言う駅員。
 女は無言のままうつむいた。


「警察は呼ばないでくださいね」
 と、男は駅員に頭を下げる。「ここで終わらせたい」
「しかし…」
「彼女ももう諦めたのでは?」
 男が駅員を促すように視線を女に向けた。
「どうしますか?」
 駅員がパイプ椅子に座りうつむいて押し黙ったままの女の顔を覗き込むようにして、問うた。
 女は沈黙を続けたまま、貧乏ゆすりを始めた。
「あのですね、黙られても困るんだ。こっちは会社を休まなきゃいけなくなったんだ」
 男は駅員室に着いてすぐに駅員に了承を得てから会社に有休の電話を入れた。上司は「そろそろ有休を消化してもらいたかったところだ」と笑ってくれていたが、内心どう思われているかは分からない。
「おい」
 女は貧乏ゆすりを続ける。
「おい」
 女の貧乏ゆすりでグレーの簡易的な机が微かに揺れている。
「何とか言ったらどうなんだ!」
 男は怒鳴った。埒があかない。こんなところで時間を割きたくはない。迷惑だ。
「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい──」
 女はまるで「うるさい」という一言をコピーアンドペーストするように小声で並べていく。
「うるさいとは何だ。あんたが…」
 女の黒髪で覆われた目が虚ろになっているのが見えた。
「とにかく、僕は痴漢なんてしてませんから。分かってもらえましたか?」
 駅員は小さく頷いた。そして「あの、大丈夫ですか?」と女に体調が優れないのかと尋ねた。
「病院に行くことを薦めるよ…」男が苦笑した。
「ねぇ…」
 女が(かす)れた声を出した。
「ん?」「ん?」駅員と男の声が重なった。
「結婚しましょうよ」
「はぁ?」男の声だけが予想していなかった言葉に反応する。「なに訳のわからないことを…」
「それがいいわ。そうしましょう。ねぇ、結婚しましょうよ。ふふふ。それがいい。だってあなた私のことが好きなんでしょう? 分かってるんだから。照れなくていいわ。いつも電車に乗るとき私の近くにいたじゃない」
「そうなんですか?」と驚いたように駅員。
「いや、覚えがない」
 男は女の言葉に戸惑った。この女を見たのは初めてだ。それは間違いない。しかし、何か違和感があった。
「あなたはいつも×○(ばつまる)線で乗ってくる。そして私と同じここで降りる」
「なぜそれを」
「気付いてないとでも? 私は気付いていたわ」
 ふふふ、と含み笑いを女が漏らした。
「あなた彼女のストーカーなんじゃ…」駅員がまるで真実に驚愕したような顔をした。「警察を呼ばなくては…!」
「ちょ、ちょっと待ってください! それはただの…」
 男が言葉を途中で停止した。
 駅員は電話機に伸ばす手を止めて、つばを飲み込んだ。
「通勤コースです! 彼女のことなんて知りません」
「…そりゃそうですよね」


「いいの。素直になりなさいよ」
「病院へ行け」
「いいの。思わず触ってしまったんでしょう? 我慢できなかったのね」
「病院へ行け」
「許すわ。私はそこら辺を歩いている軽薄な女たちとは違うの」
「病院へ行け」
「ふふふ。焦っちゃって、可愛い人」
 女の表情は笑みなのか判別できないほど歪んだ。口元から白い歯がのぞく。
「駅員さん、だめだ…」男は頭を抱えた。「彼女はおかしい。はじめから言っていたけど、おかしいよ。間違いない」
 駅員は黙ったまま電話機に手を伸ばした。どこかに電話をするつもりだろう。
「ねぇ、あなたの朝の景色に私はいつもいたはずよ」
「そんなわけ…」
 男は、はっとした。朝の揺れる電車。窮屈な車内の中で立ちつくす自分。その視界に入るものは普遍的なものだった。しかし──。
「私はいつもあなたといた」
「その服…」
 男は意識していなかったが、女が着る黒のロングコートが記憶に微かに息をしている。
「そう」
「そんなわけ…ない。それじゃ君はいつも本当にいたのか」
「あなたのそばにいたわ。わざと」
「わざと?」
「あなたと接触するために」
 男の背中がぴきぴきと恐怖で凍っていくのに、駅員は気付いているのか、気付いていないのか、電話に小気味よく番号を入れていく。
「どこに電話を?」男は辛うじて小さく開く口で問うた。まさか警察か?
 駅員は簡潔に答えた。「チャペルです」
 まったく笑えない冗談だ。


 男は鬱屈とした気持ちとセカンドバッグを抱えながら、駅に向かって揺れる電車内で耐えていた。昨日は酷い目にあった。帰ってから酒を飲んで泥のように何十時間も眠った。そして朝になり、会社へと向かう。こんなにも会社へと向かうことが憂鬱じゃない日がくるなんて…。
 視界に例の女の姿はない。男は安堵して、ゆっくりと視線を下に落として「よかった…」と呟いた。
 だが、目的の駅に着いたことを知らせるアナウンスが聞こえる、その数秒──零コンマ何秒前かに右耳に吐息のようなものを感じた。
 吐息は言葉だった。すぐにアナウンスに掻き消されたが、男の耳にねっとりと残った。
「結婚しましょ…」
 かくして、男はその日も有休を使うことになった。


―終―
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