#21 TSUNAMI
待ってよー、と間延びした声を出しながら追いかけてくる涼汰を、私は置いてけぼりにした。「捕まえてみなさいよ!」
まったく…頼りない男だ、涼汰は。そこが可愛い、というのも否めない真実だけど。
私は一面に海が広がる砂浜で足を止めた。遅れて来た涼汰は、肩で呼吸をしながら、どうしたの?、とコンパスの針で開けた”点”のような円らな瞳で問う。
「海、綺麗…」頬に触れる潮風が体中にまとわりついている柵をそっと解放したような快感。
「そう?」涼汰は腰を屈めて、砂浜に落ちているポテトチップスの袋を人差し指と親指で慎重に──というよりは汚いものに触れるようにそっと掴んだ。
「空気読んでよ」眉根を寄せる。
「ごめん、ごめん」涼汰はポテトチップスの袋を放り投げた。片付ける気はないらしい。
「海、綺麗でしょ?」
演技っぽく遠い目をしながら、涼汰は「ソウダネ」と呪文のように唱えた。「そうだね、ソウダネ」
「確かにゴミがなければ、もっといいんだけど」
私は呆れながらも認めた。
海に映るぼやけた夕陽は美しかった。これを見れただけでも津波警報が出されたのを無視して、というより強行したに近く、二人で海に来たかいがあったと思った。こんな日に海に出てくる猛者は私たちしかいなかった。
「寒いよ…」涼汰は若干震えた声で唐突に呟いた。自分を抱きしめるように肩を掴み、寒い寒い、と身振りをする。
「そんな格好してるから、当たり前でしょ」
頭上を見上げると、天気は最悪な曇り空。それなのに涼汰と私は水着姿だった。理由は簡単、『夏で、海だから』。それでも私は露出があまり好きな人格ではないので、薄手の上着を一枚羽織っていた。
「上着、貸してあげようか?」
涼汰は一瞬、目を輝かせたが一応意地があるのか、「いや、いいよ」と首を振った。
「貸してあげるよ」うりうり、と脱いだ上着をを見せびらかす。「ユー、着ちゃいなよ」と、他国の人のような日本語訛りを作り、からかう。
「いいって」
「本当に?」
「…貸してください」
私は笑いながら、その申し立てを受理せずに砂浜を駆け出した。それはもう脱兎のごとく。疾風のごとく、だ。
「待ってよー」また無様なほど可愛い間延びした声が後方から聞こえる。
私は笑う。楽しいから。涼汰と過ごす夏が、一生で一番楽しいから。
「待ってよー」
「捕まえてみなさいよー」私も涼汰の語調を模写するように叫ぶ。
砂浜を踏みしめていくサンダルには、目に見えるざらついた粒子たちが進入してくる。もし戦争をしかけられたら、現在の私たちの国はこんな感じに、いとも容易く侵入を許してしまうだろう。ニュースを見る都度、そう思う。
『まぁ愛の融通が利かないこの国は、竹箒で掃かれるように滅んじゃってもいいけどね』私は冗談半分でこうも思う。残りの半分はきっと涼汰に対する「ごめんなさい」の感情だ。私が私じゃなくて、別の形の私だったら、涼汰と私はもっと幸せになれるのにな…。市役所に提出した結婚届が受理されなかった日の事を思い出し、私は唇を噛んだ。
「待ってよー」「あはは」
「待ってよー」「あはは」
「待ってよー」「あはは」
「待ってよー」「あはは」
「待ってよー」「あはは」
「待ってよ」
「あはは」
「待って」
「あはは」
「まっ」
「あはは」
「待って!」
「あはは」
「待てよ!」
「あは…は?」
涼汰の声が必死になっていることに気付いた。何がどうしたのだ? 急に? もしかして怒っちゃった? あはっ!
私は精一杯の天真爛漫な表情を作り出し、軽く謝って許してもらおうと振り返った。
走り迫ってくる涼汰は付き合い始めてから今まで見たこともないような、戦慄した顔をしていた。
「どうしたの?」
涼汰は青ざめた表情で私の前に止まり、餌を欲する池に住む鯉のように口をパクパクと動かす。声は出ていないような…。
──声は出ている? でも聞こえない。
「もっと大きい声で言って!」
涼汰はぶつ切りの平仮名を並べるように──「つ・な・み」と口を動かした。
私は海を睨み付けるように見た。
そこにあったのは先ほどまでの綺麗な青の海ではなく、例えるなら腹をすかせた化け物のような猛々しい姿を…駄目だ! 漢字を正しく読めないほど頭が混乱している! 何、この状況? 津波って何だっけ? 『見つめ合うと素直におしゃべり出来ない』んだっけ? いや、私と涼汰は見つめ合うと愚直なぐらい素直にお喋り出来るし、ていうかぬるーいキスもするし。
「じゃあ津波って…?」
私と涼汰は答えを出す余裕もなく、一心不乱に走った。逃げないと。とにかく逃げないと。
「涼汰! どこに逃げればいいの!」
涼汰はちらっと私を見て、「分からない!」と甲高い声を出した。
まったく…頼りない男だ、涼汰は。…この状況だと可愛くないぞ。救いようがない頼りなさだ。
「涼汰!」
「うわぁぁん!」
涼汰、さようなら。私たちはここで…。
海なんか見に来なければよかった。冷静に考えると、そんなに綺麗じゃなくない? むしろ汚い。ゴミだらけだし。あ、これは涼汰がさっき言ってたっけ。
津波の音が聞こえる。
津波が迫る音が聞こえる。
津波が「いただきます」と言ったように聞こえた。
私たちは猛々しい津波の口の中に飲み込まれた。涼汰は最後まで頼りなかったけど、それは涼汰が最後まで涼汰のままでいてくれたってわけで…私はちょっと嬉しかった。
「こちらが津波によって──され──になった、若い──二人組がいた砂浜です」石つぶてのような大雨のせいで音声が所々遮断される。「そして──」
普段はバラエティ番組で、とんちんかんな言動で人気の女性リポーターは淡々とお茶の間に哀れな若者が居たことを報告する。これが本職ですから、と言わんばかりに凛とした立ち振る舞いで。
リポーターを舐めるように映すテレビカメラに一瞬だけ、同じ柄をした二枚の海パンが見切れた事に気が付いた視聴者の数は、一人の人間が一生の内に食べる食パンの枚数よりも少なかったかも知れない…。
―終―
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