(追記:平成21年12月4日)
若干の加筆修正。しかし展開の変化はなし。
#18 延長線ヘブンズドア
高校を退学した。
親に無理を言ってわざわざ地元から飛び出してはみたものの、周りの環境が変わっても自分自身は全く成長しなかった。しっぽを巻き、また逃げ出してしまった。
どうやら人間には二種類いてそれは『必要な人間』と『不必要な人間』らしく、それを決めるのは人間以外の何者でもなかった。深く言うなら他人の目だ。そして、僕は誰がどう見ても、たとえ贔屓をしたとしても後者なわけだ。周りの人間からは水が下流に流れていくようにごく自然と淘汰され、居場所を失った。(初めから無かったとは出来れば思いたくはない)
母はこんな僕を限りなく過保護に近い形で守ってくれていたが、正直な話、僕にはそれが酷く疎ましく思え、クラスメイトによる恥辱の材料にされるのが痛く辛かった。
母はとにかく僕は守ることに必死だっただけなのだ。必死にさせたのは自分であるのに、このような汚い感情を抱く自分を醜いと強く嫌悪する。嫌悪しても足りないくらいだ。
「高校を辞めたい」と、電話越しに告げると母は一寸間を開け、
「分かった」
と震えた声で言った。
残念そうに顔を歪める母の表情が浮かび上がり、自分でも信じられない位の涙が、にきびのせいで凹凸のある頬を伝った。悲しみと悔しさが雑に練り混ざって作り出された、自分に対する憎悪が拳を振動させた。その震える拳を何度も太股に振り下ろした。
悔しかった。自分自身に自分は負けた。
僕がくだらない言い訳をしても、母は詰問することなく「帰ってきなさい」とだけぽつりと呟いた。説教臭さや押し付けがましさとは程遠い、ただ息子の帰宅を願うだけのやんわりと包み込むような声だった。
「うん…」
「待っているからね」
「うん…」
手に持った携帯電話の電源ボタンを押すと、母の声は呆気ないほど簡単に途絶えてしまった。電話が切れた後、母はどんな表情をしているのだろうか。僕が中学の頃、誰かに上履を隠されたとき一緒に学校中を捜し回ったときよりも悲しい顔をしているのは容易に想像できた。
携帯電話をベッドに放り投げたつもりが思いのほか勢いよく、ベッドを軽々超えその先の壁に衝突した。二つ折りの携帯電話は『壊れました』という注意書きが浮かび上がってきそうな、見事な二分割になった。
ふと目を向けた十四インチのテレビに映る美人なだけが取り柄の女性アナウンサーが話題の硫化水素を使用した自殺のVTR後に、
「お悔やみ申し上げます。…では、次はスポーツです」
とすぐさま悲壮から一転して輝かしい笑顔になり、緩急のある表情の変化に僕は慄然とした。人にとって知人以外の死はどうでも良いのだということをまじまじと見せつけられた気がしてならなかった。
テレビを消し、ベッドに横たわると不思議な安心感が僕を包み込んだ。掛け布団の中に、まるで穴を掘るかのように潜り込むとその安心感がどこから湧いてくるのかは分からないが、ただもう何もかもが遅すぎたように思う。
遅かった…。という言葉はやはり過ぎてから思う事だ。
もしかしてこの差出人不明の安心感の正体は残念賞なのかも知れない。
「人生の残念賞にしては結構いいものだな」
目蓋を軽く閉じると、深い淵に落ちていくような眠りが僕を待っていた。
今朝も鳥による自己中心的な存在表現の声で目覚めた。
覚醒する途中、何か騒々しい声が聞こえたが、ベッドから体を起こし辺りを見渡し、目に映るのはいつもと何てことのない小汚い一人暮らし臭い部屋だった。
いつもなら起きてすぐに、どれだけ眠っても目を擦るのだが、今朝はそれを行わずに洗面所へ直行した。奇妙なほど目覚めがいい。
ばしゃばしゃと、恒例の音で顔面を包み終えると歯を磨いた。口をあけ、歯磨きの途中経過を観戦してみると『赤、青、白』と配色された歯磨き粉は口の中で何とも表現しづらい色へと変貌していった。混沌とした世の中を示しているように思えた。『血、憎悪、喧騒』
歯磨き終了後、上下ねずみ色のスウェットを脱ぎ、Tシャツとだぼついたジーンズに着替え、すぐに帰り支度を始める。
「卒業するまでは帰らないからね」
家を出る際、母にこんな誓いをした気もするが、都合よくぼかす。
「母に会わなければならない」
この思いが強くなっていくのを感じながら、荷物をまとめていると不意に外から甲高いサイレンの音が鼓膜を揺らした。
「なにか事件でもあったのかな?」
窓から少しだけ体を乗り出すと、このアパートの一階に恐らく先程のサイレンの主である赤いパトロンをつけた車と野暮ったい救急車が見えた。まだ八時だというのにごく少数だが野次馬も集まってきている。自分もその野次馬に加わり、このアパートで起きた何らかの事件(または事故)を観察したい衝動に駆られるが、ボストンバッグに荷物を詰めると同時に、その衝動も無理やり押し込んだ。自分にはそんな暇はないのだ。
実家行きの電車の時刻が迫っている。
焦燥感に苛まれながら、律儀に実家への電車の時刻を覚えている自分に苦笑した。
荷造りはボストンバッグ一つで事足りた。
茶色で無地のボストンバッグを抱え、玄関のドアをあけるとさっき見たときよりも数倍の人だかりが出来ていた。そのことに驚きつつ、僕は人だかりを裂くように一人暮らしのアパートを後にした。僕の他に住む一階の大家さんには後日挨拶をしようと思う。今はとにかく時間がない。
電車が来てしまう前に駅へ急がないと。
僕はがたんごとんと揺れる電車の中で、隣に座る初老の男性に起きていることを悟られないように固く目を閉じていた。
この電車の切符を買う際、自分の存在感のなさを再認識した。切符売り場の前に立ち、肝心の財布を忘れたことに気付き、自分の愚かさを呪い、ダメ元で駅員に事情を話してみようと試みた。しかし何度話しかけても駅員は僕の呼びかけを無視した。ラッシュ時の騒音で本当に聞こえていなかった可能性もあるが、僕の被害妄想はたちまち沸騰してしてしまった。
僕は腹を立てながら「ここなら向こうから離しかけてくるだろう」と、改札口に向かうとあろうことか改札口に立つ駅員は切符の確認もせず僕を通した。混み合った人だかりの濁流に上手く飲まれて気付かれなかったようだ。普通は気付くはずだがあの駅員は…と理不尽毒づきたくなる。
つまり、現在僕はこの電車に無料乗りをしている。といってももちろん切符は目的の駅に到着したら買うつもりだ。あくまで、つもり、だ。
目をあけているとわずかにある罪悪から目が泳ぎそうになったり、挙動不振になり怪しまれそうな為、必死に寝た振りをする。はたして駅員に無視される人間の異変に気付くことがあるのだろうか…。徒労に終わることは分かっていたが、出来る限りのことをやった。 学校生活でも出来る限りのことをやっていれば…。いいや、僕は僕なりにやったんだ。やったけど駄目だった。だから逃げたんだ。
悔いながら電車を降り、すれ違う人たちや今日発売の週刊少年マンガ雑誌が山積みにされたキヨスク店頭に視線を配ることなく、まっすぐと駅を出た。
半年振りの故郷の風景は全く変わっていなかった。空にはカラスなのか鳩なのか見分けのつかない鳥が数羽、優雅に空中遊泳を満喫している。僕はそれを眺めているとなぜか苛立って、下手糞な舌打ちをした。
実家への道は明確に覚えていた。たった半年振りなのだから当然だ。半年間で実家への道筋を忘却したのなら、帰省するよりも最寄りの精神科に駆け込まなければならない。
補修工事のされていない道路を歩くと足の裏に違和感が生まれる。少し前まではこれが当たり前だったにも関わらず、今は大分懐かしく思う。
車道兼歩道のこの道をまっすぐ歩いていけばすぐに実家が見える。親子二人で住むには広すぎる平屋が。
もしも父がいればそれなりに適切な家として部屋は荷物で埋められ、雑草しか生えていない庭にはゴルフボールが転がっていたりしていたのかもしれないな。
不意に僕が生まれてまもなく死んだ父の事を想ったりしてしまった。感傷的になりすぎているようだ。
新鮮味はないが小さく感動してしまう景色を眺めながらゆったり足を進めていると、道に点々といる地元の人間の中に見知った顔がいることに気が付いた。
──中学の頃。先頭に立ち僕をいじめていた隆夫だった。
僕は隆夫に僕だというのを悟られないよう俯きがちにして、自動販売機の前で座り込み美味そうにとろんとした目つきで煙草を吸っている隆夫の前を足早に横切った。
横切る刹那、隆夫のキツネ目から放たれる尖った視線を感じた。何度も浴びせられた蔑む視線。背中を冷えた手で触られたような悪寒。いくつもの、あの日の下劣な出来事が鮮明に思い起こされ、吐き気を催しそうになるのを必死にこらえた。
隆夫の前を通り過ぎ、数歩。恐るおそる一瞬だけ後ろを振り返ってみると、まるで隆夫は僕に気付いていないように、引き続きぼーっとした顔をしながら煙草をすぱすぱと口に運んでいた。隆夫の吐く濃い霧のような煙が澄んだ空に溶けていく。
僕は一の次が二であるのと同じように、自然と安堵の溜息をついた。
数十分、漠然と景色を眺めながら歩くと、ようやく実家が見えてきた。無意識のうちに、足取りが速くなっていくのを感じる。
一歩、また一歩と近づくにつれ、視界が滲んでいった。「母さん…」
「ただいま」
ジーンズのポケットから鍵を取り出し、我が家に踏み入れると、この世に二つとない母と実家の匂いがした。帰ってきたことを実感する。
スニーカーを乱雑に脱ぎながら、「ただいま。母さん?」と呼びかける。
家のどこからも返事はなく、薄気味悪い沈黙。トイレかと思い、向かってドアをノックするが応答はなかった。
「おーい、母さん。どこにいるの?」
二階の自室、リビング、風呂場───探し回るが、母の姿はどこにもない。捜している最中、隠された上履を捜したときのことが想起された。
「まさか…」
そう逡巡した時にはもう実家に帰ってきたという懐かしさを楽しむ余裕は音もなく消え去っていた。
母の身に何かあったのではないか? 自分のせいで何か善からぬことがあったのではないか?
『わかった』
『帰ってきなさい』
『待っているからね』
昨晩の母の震える細い声が頭の中で何度も繰り返し再生される。自分のせいで母が…そんな…。
いくつもの最悪な事態が勝手に浮かび上がり、頭を支配しようとする。力なくふらつく足を半ば引きずるようにして、無意識のうちにリビングに向かい、長椅子にどさっと座り込んでいた。
母さん…。ごめんよ…。
ふとリビングの中央にあるテーブルに目をやると一枚の紙が置かれているのが見え、噛み付くようにそれを掴み、半年前までは見馴れていた達筆な文字群に目を通し、ほっと肩を落とした。
『あの子の家に行ってきます』
母は、僕の家に行ったようだ。しかしなぜなのだろうか? 電話では僕が帰るようにと言っていたのに…。
確かな疑問を抱きつつ、僕は家を飛び出し、一寸の狂いもなく来た道を戻った。ふてぶてしい太陽は橙色へとうつり変わっていた。
───家に帰らないと。
「近くで自殺があったらしいぜ」
「マジで? うっわマジやべぇ」
品のない言葉を使い、品のない男子学生二人組の会話が不本意ながら聞こえ、身震いした。
自殺? なんだよ、それ?
今朝の自室の窓から見た光景が高画質でフラッシュバックされていく。頭を振る。いやまだ僕の住むアパートで起きたことではないという可能性は十二分にある。
しかし、その可能性は今朝よりも騒々しく野次馬と警官に囲まれたアパートを見た瞬間に、シャベルカーに襲われたブロックのように音をたて崩れた。
「すいません! どいてください! ここの住人なんです!」
僕の必死な叫び声に、誰一人耳を傾けようとはせず、好奇心丸出しの夢中な表情でアパートの中の様子を窺おうとしている。
野次馬の間を自分でも驚くほど器用にすり抜け、警察が張り巡らせたのであろう、
『KEEP OUT』
と大々的に書かれた黄色いテープも潜り抜けた。数人の警察官たちは僕を呼び止めることも一瞥を送ることもなく、ざわつく野次馬相手に強い口調で静かにするように、と注意していた。
二階への外から丸見えの階段を駆け足でのぼるが、いつも聞こえていた『カンカンタタン』という錆付いた音が鳴らないことに違和感を覚える。
その違和感はある記憶の断片を引き起こした。中学のとき隆夫たちに一方的に殴られて帰ると母は、
「優太は優しいから、殴らなかったんだよね。それができるの人が本当に強い人だから。でも優しさと自分を犠牲にするのは違うのよ」
唇を噛みながら僕の頭をなでた。そして強く抱きしめた──。
玄関のドアの手前に立ち、静止し、全力疾走だったにも関わらず、自分の呼吸が全く荒れていないことに気が付いた。
半狂乱に頭を振る。何が起こっている?
僕の家でいったい何が起こった?
頭を占拠しようとする無数の疑問に混乱しながら、ドアノブに手をかけた瞬間──。
「優太! 優太! 目を覚ましなさい!」
母のまるで片腕を引き千切られたような悲痛な叫び声がドアの隙間から漏れてきた。
「母さん! 僕はここ──」
ドアを開き、見えた光景ですべてを理解した。全細胞が否定しようとするが、いち早く脳がそれを肯定した。テンプルに強い打撃を受けたような衝撃を感じ膝が崩れ、勢いよく床に倒れこむが、床から発されるはずの鈍い音は出ない。
「僕は…」
這いつくばって、人目はばからず号泣する母の元に向かう。
「母さん! 母さん!」
母は必死に呼びかける僕に視線を向けることなく、ベッドに横たわったまま冷たくなった抜け殻の方の僕の手を握りしめ、滝のように涙を流しながら「優太ごめんね、ごめんね…。お母さんが傍にいてあげられなかったから…。お母さんが優太を守れなかったから…。優太をひとりにしたから…!」
母の張りつめた自責の念が次月と空気の中にまぎれていく。違う。違うのに。
「母さんのせいじゃない! 僕が弱くて…自分を…自分を変えることが出来なかったから! 母さんのせいじゃないんだ! だから母さん…お願いだからもう…謝らないでよ!」
当然、僕の懇願する声が母の鼓膜に届くことはなく、母は枯葉のようにくしゃくしゃになった苦しそうな顔で僕に向けて謝罪を絶え間なく続けた。
違うんだよ…。母さんは悪くないよ…。
傍目からみても不自然な落ち着きを取り戻した母は警官や集まった関係者に何度も頭を下げ、「朝まで二人きりにしてくれ」と泣きついた。
それまでの母の状態を見ていた女性警官の一人が母の『後追い』を心配したが、母が「認めてくれなければ、今この場で死ぬから」と半ば脅迫に近い形で交渉し、しぶしぶ了承された。但し、玄関のドアの前に警察官が待機することが条件だ。
なぜか妙に落ち着いた母はベッドに寄りかかるように腰をおろし、僕の抜け殻の額を撫でながら柔和な声で呟く。「優太。今日は、お母さんも一緒に寝るからね」
寝息をたてながら、頬を濡らす母の横で僕は何度も床に拳を振り下ろす。どんなに強く殴っても床からは一度として衝撃音は聞こえない。聞こえてくるのは母の寝息だけだ。
「母さん…。本当に謝るべきなのは僕の方なんだよ…。母さんは何も悪くない」
母に懺悔しきれない思いを吐瀉物のように吐き出していると、ふいに目蓋が重くなり、あの安心感が僕を包みこんだ。
寝息を立てる母の顔を見ていると、どうしようもない身勝手な思いを抱いてしまった。
「もし神様がいるなら、残念賞はこんな身勝手なものじゃなくて、もう一度母さんの息子として生まれる権利にしてくれないか?」
はじめからやり直したいとか、立派な息子だとかそんな傲慢な願望ではなく、こんな身勝手な僕を全力で愛してくれた母さんが近所の人に僕の事を何気なく話せるような、そんな普通の息子になりたい。
───なるから、絶対。
―終―
作者の残念なツイッターは
こちら。
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。