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#16 最低なジューンブライド
───本日、六月五日に私は──する。

 私が運送会社の事務の仕事に就いて五年が経った春に、靖雄(やすお)は新入社員として入社してきた。
 第一印象は『地味な奴』。
 手ぐしで適当に整えた黒髪と頬に薄っすら残っているニキビ跡が特に印象強かった。言動も普遍的な当たり障りのない…悪くいえば媚びているようだった。
「柏木先輩」
 私のことを『先輩』と呼ぶ後輩が遂に出来たかと、内心うれしく思った。この『スカンク運送会社』は名前通り胡散臭く、私を最後に五年間、新入社員が入ってくることはなかったのだ。
「なに?」
「髪に(ほこり)がついてます」そう言って靖雄は私の後ろ髪に手を伸ばし、軽く触れひょいっと埃を掴み取った。「ほら」
「…ありがと」
 靖雄はニコリという擬音が聞こえてきそうな屈託のない笑顔を浮かべ、足早に去っていった。
 このような触れ合いを通じ、靖雄ははじめの印象とは真逆で、『気遣いが出来、話すと案外面白い奴』に変わっていた。なんといってもあの笑顔が、必殺の笑顔が、憎らしい程に愛らしい。
 などと考えているうちに、私は照れ笑いを浮かべていた。気づいたときにはもう遅く、頬は熱く火照っているのが鏡を見ずともわかった。
「あー、そっか」
 私は靖雄が好きなのだ。好きだからこそ、こんなにも頬が赤く染まってしまうのだ。
「ふふふ…」傍から見れば不気味な声を漏らしながら、私はデスクに戻った。

「俺、先輩が好きです!」
 炎天下の下で、ベンチに並んで腰掛け、溶けていくアイスクリームを食べていると靖雄が唐突に告白をした。
 正直、意外ではなかった。靖雄とデートした回数は指の数では足りない。足の指を駆使しても足りはしない回数にまでなっていた。『どちらが先に告白するか…』そのような状態で二人そろって(くすぶ)っていたのだ。
「私もだよ」と、答えると靖雄は嘆息をついた。「どうしたの?」
「オッケー貰えるなんて思って無かったんで…」靖雄はぶっきら棒に頭を掻く。
「うっそー!」
「本当ですよ! 心臓バクバクしてるし…」
 どうやら燻っていると思っていたのは私だけだったようだ。
 靖雄が濃い顎髭に触れながら、「本当に、本当ですか?」と詰問してきた。
 私は『靖雄、可愛いなあ』とお姉さん振った意地悪な笑みを浮かべながら、「本当だよ」と言って唇にキスをした。靖雄は驚いたように目を見開きながら、固まった。

 靖雄と付き合い始めて半年が経過した。すっかり衣替えをし、毎朝『何か羽織るもの…何か羽織るもの…』と独り言を言いながら、結局いつも黒のカーデイガンに落ち着く。
 毎夜、律儀にメールや電話をしていると『彼氏が出来るということはこういうなんだなあ』と感慨深く思う。靖雄はトラックで市内を駆け回っている為、同じ会社と言えどいつも一緒というわけではなかった。『そばにいるのに寂しい』何か今すごく恋愛っぽい切ない事を考えた気がする。
 現在二十五歳。結婚適齢期間近だが、今まで私は男性と付き合ったことがなかった。靖雄が初めての彼氏──いわば『ハツカレ』である。しかし、靖雄にはこの事は黙っている。なぜかと言うと、付き合った事はないが男性経験はあるからだ。処女を失った時のことを思い出すと、頭の奥で千枚通しをチクリと執拗に当てられるような痛みを覚える。
 靖雄と性行をしていると、必ずといって言いほど鮮明にあの日のことを思い出してしまう。頭では忘れようとしようが、身体には染み込んでしまっている。
───高校からの帰宅途中。
───唐突な鈍痛。ノワール公園。背後。
───悲鳴。私の。
───草木が揺れる音。草木が折れる音。湯船をかき回すようなグロテスクな音。
───少女漫画の描写のような快楽などなかった。そこにあったのは痛み。破れていく貞操。
───私を犯す男の顔には真っ白なマスク。私は一瞬の隙をついて、無我夢中にそれを引き剥がす。
───男の顎に大きなホクロが見えた。
───男は息を荒くし、私の顔を思いっきり殴りつける。
───鼻の骨が折れた音が耳にこびり付いた。
───そこで意識は途切れ、次に目覚めたのは病院のベッドの上だった。
 戸川純の歌詞でありそうな、または過激なティーンズ小説でありそうな体験を私はした。フラッシュバックする映像に映し出される私は、この世の全てを憎むような目をしている。
 七年間もの間、男とは最低な生き物だ! と、心の中で釘打っていたが靖雄はそれをすんなりかわし、私の心の中に入り込んできた。これが──愛なのかも知れない。
「大丈夫!?」服を脱ぎ、裸の靖雄が震える私を見て焦る。「先輩! 先輩!」
「うるさいなあ…大丈夫だって…」
 適当にあしらいながら、がちがちと震える身体を必死にコントロールしようとするが失敗する。
『醜い過去忘却しろ、失われた貞操は忘却しろ。今は全力で靖雄を愛しなさい私』呪文を唱えると身体の震えが安らいだ──ような気がしたが、震えが完全に止まったのは靖雄が強く抱き締めたおかげだった。

「先輩、俺と結婚してください!」
 最近市内にオープンしたテーマパークの目玉である観覧車が天辺に到達した時、靖雄はまたも唐突にプロポーズをした。
 狭いゴンドラの中で透明のガラス越しから見えるネオンライトの街は綺麗だった。靖雄はこのような雰囲気を気にするロマンチックな男だったのかと、交際して近々一年になるというのに今更気づかされた。
「ずるいよ…」ごちるように漏らす。
「えっ?」戸惑う靖雄。
「ずるい…」
 戸惑う靖雄は可愛かった。狂おしい可愛さだ。
 私は頷きを返し、靖雄に抱きついた。伝わってくる体温が心地よい。揺れるゴンドラの中で私たちは永遠の愛を誓った。そして、私はもう一つの誓いをたてる…私の心の奥底にいつまでも居座り続ける邪悪な忌まわしき過去を靖雄に打ち明けようと。

 快晴。雲一つない空の下、結婚式は行われる。
 私の父と母は靖雄を人目で気に入ったらしく、結婚を簡単に承諾してくれた。母は私に『よかったね…本当によかったね…』と泣いてくれた。母は父以上に私のことを子煩悩を遥か通り越した心配を向け、何よりも私の体を心配した。
「お母さん、お父さん、ありがとう」
 父と母は部屋を去っていく。ドアを閉める直前に母は「これからはお二人で…ね。ふふ」という気遣いの言葉を残していった。
「靖雄」
「なに?」ネクタイを締めながら靖雄は答える。
「どう? ドレス似合ってる?」雪のように真っ白なウェディングドレスを見せつける。その場でゆっくり一回転すると、ドレスはひらひらと靡いた。「どうかな? どうかな?」
 靖雄は笑う。「似合ってますよ」
「そう? よかったー」
 ネクタイを締め、鏡の前で身なりを気にする靖雄をみて気付く。「だらしないから顎の髭剃っちゃいなさいよ」
「ええー」靖雄は『いやいや』と顔の前で手を振る。
「剃りなさい! 先輩命令だよ!」
「はいはい、分かりました」しぶしぶ、といった感じに鏡の横の棚を開け、いかにもホテル用な袋詰めされたカミソリを取り出した。
「大体、靖雄は顔があっさりしてるんだから髭は似合ってないよ」
「ええー、今更ですか?」カミソリを顎に当てながら、ぼやく。
 今更だ。今だからこそ指摘する。「私さ、今更なんだけど。靖雄に言わなきゃいけないことがあるの」
 石鹸付きのハイテクなカミソリのおかげで顎が小奇麗になった靖雄が笑いながら、「なんですか?」
「私ね…」時間はあった。だけど、この土壇場まで言えずにいた。言わないまま靖雄と結婚することは出来ない。最早、意地になっているのが自分でも分かる。
「ん?」靖雄が『今までそこにあったもの』を探るように顎を撫でる。落ち着かない様子だ。
「私…」靖雄の顎に目を細めると、火傷の跡のようなものが小さいがはっきりと残っていた。「あ、その跡なに?」
「これを見られるのがあまり好きじゃなくて」恥ずかしそうに頭を掻く。「昔、レーザーでホクロを『じゅっ』って焼いたんですよ。どうしてもホクロがコンプレックスで」
 照れ顔を浮かべる靖雄を見て、体が震えているのが分かる。心臓が皮膚を突き破り出てきそうだ。憎しみが愛おしさが入り乱れ、目の前がウェディングドレスと同じように真っ白に染まる。
「靖雄、私ね…高校生の頃に───」

───本日、六月五日に私は決行する。


―終―
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