#13 ハーゲンダッツ・マイラバー
「このアイスって高いと思わない?」
「値段相応だろ」千尋の持つアイスに視線を向けながら、修二は答えた。「買うのか?」
「修二の言う通り美味しいんだけどなあ…でも高いから止めとく」
だから買ってと言わんばかりの瞳に頷きを返しそうになるが堪える。
「あっそう」素っ気無い反応を返し、アイスの並べられたクーラーの扉を指差し閉めるように促がすと、千尋は不貞腐れたような表情をしながら、名残惜しそうに扉を閉めた。扉を閉めたときに発生した小さな風により、千尋の短い髪が少しだけ揺れた。
街の真ん中に去年建てられた『スーパー大福』の店内は人が溢れかえっていた。
その人の群れによる会話が潮騒に聞こえ、邪険な思いを抱く。野菜売り場に並べられたタイムサービスの影響と見て取れる値段がつけられたキャベツを掴む手が震える。
「キャベツなんて買っても腐らせてしまうだけだ…」何とか震える手でキャベツを掴み、漸く気が付いた。
自分の持つ買い物かごを覗くと何も入っていない。腕時計を確認すると、『スーパー大福』に入店して早二十分が経とうとしているのにだ。
この二十分の間、キャベツと同じように掴んでから「不要」だと判断して、棚に戻すという行為を繰り返していたようだった。
「何を買えばいい」
修二は頭を巡らすが、買いたいものが一つも浮かばない。「何を買いに来たんだっけ?」
何か目的のものがあり、貴重な休日にわざわざ『スーパー大福』に来たはずなのだ。なのに、なぜ…。
「修二」
ふいに名前を呼ばれ振り返ると、そこには声色で判りきっていたことだが千尋が立っていた。
「きてたのか」
「当たり前でしょ」千尋の朗らかな顔に癒された。ここ半年、労働基準法を無視した夜勤の連続により作られた心労、肉体的疲労が解き解されたような錯覚に陥る。だが、癒されたというのは事実であった。
「俺は何を買いにきたんだっけ?」
千尋が噴き出した。「疲れてるのね」
「そうかも知れない」疲れを意識すると、にわかに目蓋が重くなった。
ふと、休暇をくれない上司の顔が浮かび上がる。妄想の中の上司は現実とさして変わり映えのない言葉を毒づく。
『休みをくれだと? やってもいいがそれは永久の休みになるぞ』煙草のヤニで黄ばんだ歯を見せる。『まあ一日だけならやってもいいがな』
「どうしたの?」千尋が修二の顔の前で広げた掌を大袈裟に左右に振った。
「ごめん。ちょっと考え事してた」妄想を振り払おうとするが、頭の隅で上司の情のない言葉が木霊する。黙れ、この外道。
「しっかりしてよね」千尋は心配する視線を修二に配った。続けて、「買いにきたのはあれよ、あれ」
千尋の指差す方向にあるのは、冷凍売り場のアイスクリームコーナーだった。いつかもこのようなことがあったような既視感に襲われたが、気のせいで片付ける。
「ああ、アイスか。あれだな、あの高いアイスだな」
千尋に手を引かれ、修二はアイスクリームコーナーへと向かって行った。
レジで支払いを済ませ、『スーパー大福』を出た。辺りは既に暗くなっていた。
買ったばかりのアイスクリームの入った袋を覗き込むと、冷え冷えとしており、白い霧が袋の中にたちこめている。
店を後にし歩いていくと、すぐに千尋の家に到着した。意識せずとも、という歩足取りだった。
千尋宅は二階建てのアパートであり、千尋はその二階に住んでいた。ドアの前に着くと一時と躊躇せずに呼び出しブザーを鳴らした。
間抜けな甲高い音が鳴った手応えはあったのだが、千尋は出てこない。
「留守か?」ドアに備え付けられた郵便受けの小さな隙間から部屋の中を覗き込むが、千尋の姿はなかった。
「せっかく買ってきてやったのに……そうだ」閃いた。
郵便受けに入れとこう。
我ながら名案だと賛美を送る。早速、袋から値段相応の味をもつアイスクリームと取り出した。
「入らねえ…」何度も試すが入りそうにない。それもそうだ。元々郵便受けは新聞などの紙類、つまり平らなものを入れるべき場所なのだ。
諦め、溜息をつくが、またある事を閃いた。「中身だけ入れりゃいいじゃねえか」
そうだそうだ…。中身だけ…。手の熱で溶かして…。とろとろ溶けた中身だけ…。
中身がアイスクリームとは思えない程に頑丈な容器の封を開けた。「ほぉら…」
容器を傾け、郵便受けに流し込んでいく。無意識の内に笑いがこみ上げてくる。楽しい。とろとろ溶けたアイスクリームがどろどろ流れ込んでいくよ。楽しいよ。とろとろでどろどろだよ。楽しいよ。
アイスクリームが郵便受けに流し込まれ、容器を袋に戻した。
どろどろとしたものがはみ出ている郵便受けをながら、指についた微量のアイスクリームを舐めた。体温で溶けてしまっていたが、値段相応の高級感のある上品な味だった。
ドアを眺めたまま呆けていると、不意に部屋の灯りがつけられた。同時に短い悲鳴が聞こえた。
「どうした? 千尋!」聞き覚えのない声がドアの向こうから聞こえる。お前は誰なんだ? 気安く俺の『千尋』呼び捨てにしやがって。
「ドアに何か………何これ……?」千尋の震えた声だ。判らないのか? お前の大好きな少しばかり値の張るアイスクリームだ。わざわざ買ってきてやったんだ。
ドアに近づいてくる足音。「……これは…アイスじゃないか?」
「えっ?」
先ほどとは違う体重の軽そうな足音。そして、ドアが開けられた。
だが、そこには誰もいない。
そこにあるのは『スーパー大福』のビニール袋だけだった。恐る恐る中を覗くと、アイスクリームの容器が入っている。
千尋は挙動を激しくし、辺りを確認するが人の姿はない。すっかり長くなった髪が縦横無尽に揺れていく。
姿はない───。
しかし、千尋は判っていた。このアイスクリームを持ってきたのが誰かと言うことを。
修二は夜道を歩きながら、ぶつくさと呟く。内容は上司への不平不満、社会への断罪要求などだ。
自宅に到着し、上着のポケットから鍵を取り出そうとすると、あることに気付いた。
「指がベタついてる……なんで?」
記憶にない。身に覚えは無い。
頭を捻らせながら、ベタついた指で鍵を掴み、鍵穴に差し込む。
ドアを開けて広がる部屋はいつもよりも寂しげだった。
「疲れてるんだな俺……」洗面所で何度も何度も手を洗う。
修二は鏡に映る自分が不気味な薄ら笑いを浮かべていることに全く気付いていなかった。
―終―
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