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#11 さよならですのよ
「せーの! で、飛ぶんだよ」文子(ふみこ)はまるで今から妖精にでもなるかのように楽しそうに言い、頬を緩ませた。「沙紀(さき)ちゃん、もしかして怖いの?」
「怖くないよ」
 そうだよね、と文子はこれから何をするのかを忘れているかのように、無邪気にはにかんだ。
 わたしたちが現在立っている学校の屋上は無駄に広く、特にこれといって何もない。強いていうなら鳥の糞があるぐらいで、それも白く乾ききっており、清掃の行き届いていない屋上を更に汚く見せている。
 よくある青春映画などでは、屋上というものは神聖で「青春の溜まり場」という小奇麗な印象を受けるのだが、現実の屋上はガサツで、どちらかというと「ゴミの溜まり場」のほうがしっくりくる。
 顔を上げると、こちらも無駄に青く澄んだ無慈悲な空があるだけだった。


「沙紀ちゃん、わたしもう疲れちゃった。死にたいわ」
 文子は彼氏から一方的な別れを告げられた晩、沙紀の部屋で弱音を吐いた。思春期特有のつまらない自殺願望だろうと思っていたが、どうやら本気なのか、目には生気が感じられず、死んだ魚介類のような目をしていた。
「いっしょに死にましょ」
 と、腕を掴み必死に懇願してくる文子は哀れかつ、迷惑だった。
「わたしはまだ死にたくないわ」と、一応言ったが、自分自身に自殺願望がないかと言われれば嘘になる。「毎日、死にたくて仕方ない」というのが本音である。
 わたしに自殺願望が芽生えているのは他ならぬ、この腕にしがみついて離れない文子による度重なる嫌がらせのせいだった。
 昨年の夏からいま現在までに行われた、文子曰く「ただの悪戯」というまるで悪意が存在しないかのような嫌がらせは数知れず、わたしは疲れきっていた。中でも一番堪えたのは、夏風邪で倒れ自室で寝ている時のことだ…。
「沙紀ちゃん、大丈夫?」
 文子が心配そうにドアを少しだけ開け、その隙間から顔を出した。咳をしながら頷くと、文子が安心したように微笑みながら部屋に入ってきた。右手に何か黒い物体を持っている。熱っぽさからか視界が曖昧で、よく見えない。
 文子が一歩、また一歩とわたしが横になっているベッドへと足を進めてくる。文子がベッドの真横に立ち、
「これ、あげる」と言って右手を前に突き出した。
 黒猫だった。
 すでに事切れている、生気のない黒猫を文子は満面の笑みを浮かべながら、枕元に置いた。
「猫ちゃん、好きでしょ」
 視界が黒くなり、わたしは吐いた。吐瀉物まみれになったベッドのシーツを文子が「あらら、汚いわね」と言いながらタオルで拭く。一通り拭き終わった後、文子はそれじゃあお大事にオホホ、とまたあの満面の笑みを浮かべながら言って、そそくさと部屋から出て行った。
 それからというもの、体調は更に崩れ、文子への恐怖で夜も眠れない日々が続いた。人にたいして、これほどまでの嫌悪と恐怖を抱くのは初めての事だった。
「──沙紀ちゃん、明日の放課後、屋上から一緒に飛び降りましょ」
「ええ、分かったわ」
 一瞬、考える素振りを見せてから、苦悶の表情を浮かべながら答えた。
 文子が死ねば、わたしは死ななくて済む…。
 明日、文子を屋上から突き落とす。
 そのことだけを考え、一睡も出来ないまま、学校へと向かった。外は、清くない雨がぱらついていた。
 教室のドアを開けると、クラスメイトたちの渦の中で、ひと際目立つ雰囲気の女がいた。文子だ。期末テストの話をしているようだった。「今日が最後の学校になるから、めいいっぱい楽しみなさい」わたしは自分の席に座り机に伏せ、口元が緩むのを隠した。
 時間は早く過ぎていった。授業の終わりを告げるチャイムが鳴ったかと思ったら、次の瞬間またチャイムが鳴り、授業の終わりを告げた。「楽しい時間は早く過ぎる」というのは迷信じゃないのかも知れないな、と感銘を受けた。
 放課後を告げる放送が始まった。「みなさん、下校の時刻になりました。気をつけて帰りましょう」
 わたしは放送に歯向かい、約束の屋上への急な階段を登り始めた。


 屋上へのドアは重く、非力なわたしには少し辛かった。鍵と鎖に覆われて普段なら、侵入することの出来ない屋上だが、今日は鍵がかかっていなかった。恐らく、生徒会長でもある文子が、それらしい理由をつけて鍵を職員室から拝借してきたのだろう。
「遅いじゃない」
 文子は今朝、クラスメイトに囲まれている時とは別人のような顔つきだった。
「こっちにきて」と、文子が手招きをする方へと向かった。
 今朝ぱらついていた雨はとっくに止んでいたが、雨の名残がまだ屋上には染みついて乾ききっていなかった。


「せーの! で、飛ぶんだよ」
 ここに来て初めて文子が頬を緩ました。その顔を見て、「これから、この人を殺すんだ」という自分の恐ろしい考えを思い出す。自分のこれからの行動に、怯えた表情をしていると不意に文子が顔を覗き込み「沙紀ちゃん、怖いの?」と言ってきた。
「怖くないよ」
 自分が怖いとは間違っても言えない。
 そうだよね、と文子は自分が今から殺されるということを知らずに、はにかんだ。それがものすごく阿呆面に見えた。
「それじゃあ、死のっか」文子がエメラルドグリーンのフェンスに手をかけ、それをよじ登る。「沙紀ちゃんも早く、はやく」
 フェンスを登り、「あと一歩で死ぬ」といえる小さな足場に体を任せた。自分は死ぬわけにはいかない。慎重に体勢を整える。横を向くと同じく、体勢を気にする文子が立っており、風によってスカートがふわふわと浮いている。
 地上を見下ろすと、グラウンドには誰もいない。テスト期間中の部活は校則によって禁じられている為、グラウンドは砂漠のように殺風景だった。「誰にも止められたくないから」と、文子が今日を提案したのは、わたしにとっても好都合だった。突き落とす場面を目撃されては困るからだ。
「じゃあ、準備はいい?」文子が長い髪が口に入ってくるのを気にしながら言った。
「いいわ」びゅーっと、風の音が聞こえる。普段は聞くことのない風の音と共に文子の「せーの!」という言葉がはっきりと聞こえた。


 横を見ると、文子は飛び降りていなかった。
「やっぱり、わたしを殺そうとしたのね」
「バレた?」
 などと言いながら文子はあっけらかんとしている。曇天の空が文子の悪意を際立たせた。
「あんたなんか死んじゃえばいいのに」文子は地上へ痰を吐いた。「まあ、いいわ。帰りましょ」
 文子がフェンスに手をかけて体を無防備にした瞬間、文子の背中を掴み、思いっきり引いた。

「勝手に死んでろ」

 文子の体が宙に舞う。
 地上へと落ちていく。
 数秒と待たずに、ぐしゃりと鈍い音が聞こえた。
 万が一、目撃されると悪いので、下を確認することはしなかったが、この高さから落ちたのだ、死んだことは確かだった。
 大急ぎでフェンスをよじ登り、鳥の糞だらけの屋上に戻る。興奮で手と足が震えている。
「ついに文子を殺してしまった殺してしまった殺してしまった殺してしまった殺してしまった殺してしまった。やったやったやったやったやったやったやったやった!」


 次に取る行動は、予め決めておいた。「お姉ちゃんが! お姉ちゃんが!」と叫びながら屋上を後にしようとする。『屋上で姉妹仲良く喋っていたら、姉がふざけ出し、フェンスを登り、小さな足場で足を滑らせ落ちてしまった』と説明するつもりだった。酷いシナリオだが実の姉妹が殺人を、しかも未成年が起こすはずがないと馬鹿な大人は事件性があるとは決めつけないだろう。
 ちいさな水たまりも気にせずに踏み散らし、焦りながら屋上のドアを引く。来たときよりも重く感じる。なんとか開けると行きの時にもあった、急な階段があった。姉の安否を気にする健気な妹を見せ付ける必要がある為、勢いよく階段を降りた。
 階段を降りたつもりだったが、視界になぜか雨水の染みだらけの天井が映し出されていた。後頭部が鈍器のような物で殴られたかのように痛むことに気付いた。
「ああ、そういうこと」
 霞む意識の中で、後頭部を触った手を見ると血がついていた。階段にも同じように大量の血がついている。
「やっぱり、わたしも死ななきゃならないの? お姉ちゃん」
 完璧に上手くいったと思い、気を抜いたのがいけなかった。びしょびしょに濡れた上履きがタイル式の階段で見事に滑った。なんという不運。
 不運? いいや違う。どうせ違う。不運なんて大層なもの意思じゃない。
 それとも恨み?
 お姉ちゃんの祟り?
 それにしては早すぎない?
 いいや多分、きっと、絶対そう。お姉ちゃんだ。
「わたしは、お姉ちゃんみたいに上手に出来ないなあ」
 お姉ちゃんうざいよ、お姉ちゃん。
 殺したいほど、うざいよ。
 薄れゆく意識の中で思い出すのは、「せーの!」と言う自分とほとんど同じ顔をした双子の姉の笑顔だった。

 わたし、飛ぶ。


―終―
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